第七十八話 王子が王位を奪った夜
王宮の門が閉じられ、国王の侍医さえ入れなくなった。
侍医は薬箱を抱え、衛兵に訴えた。
「陛下には朝の薬が必要です」
衛兵は命令書を示すだけだった。
王国の継承法では、国王が執務不能になった場合、侍医二名の診断と王国評議会の承認を経て初めて摂政を置ける。
だがレオニスが示したのは、国王の病状を一方的に告げる布告だけだった。
侍医の連署も評議会の議決もないまま、王子は摂政を自称して非常措置を宣言した。
しかし法定の承認が欠ける以上、その布告は正式な摂政任命の根拠にならず、王位継承も成立していない。
商人は店を閉め、役人はどの印章に従えばよいか分からなくなった。
レオニスは玉座の前に立ち、勝利を確信していた。
だが広場から聞こえたのは祝賀の声ではない。
門を開けろと求める人々の声だった。
彼は側近に兵を増やすよう命じた。
恐怖で静かにさせることと、支持を得ることを、最後まで取り違えていた。
帝国では王都への進軍を求める声が上がった。
アーデリアは首を振った。
「王国の王を帝国軍が決めれば、救援も支配に変わります」
ガレスには国境の警備を命じ、リゼには医療物資の輸送を続けさせた。
戦争を止めるために軍を使うことが、必ずしも人々を守ることにはならない。
セレナは王都の病院から届いた手紙を読んだ。
薬が足りず、看護人が夜通し働いているという。
政変を止める力は彼女にない。
それでも患者を見捨てる理由にもならない。
彼女は返書に、次の薬箱の到着予定と、受け取りを担当する医師の名を書いた。
非常大権の宣言が読み上げられると、王宮の門が内側から閉ざされた。
国王の侍医は、薬を届ける許可証を握って立ち尽くした。
「陛下は今朝も熱があります」
セレナは政争の報告より先に、その薬が届く経路を確かめた。
王位を奪う夜にも、病人の身体は待ってくれない。
王宮の回廊をふさぐ兵士の靴音が、病院へ続く道まで響いた。
王子の兵が回廊を封鎖した夜、国王は窓から灯りの消えた市街を見下ろした。
玉座を守るために軍を動かした息子は、病院の灯りを守ろうとはしなかった。
その違いが、国王には恐ろしかった。
王位を巡る噂が、治療待ちの列にまで届いていた。
国王を守る兵と王子に従う兵が互いを疑い、病院への搬送路が塞がれた。
セレナは政治の決着を待たず、両陣営へ患者搬送だけは通すよう要求した。
王位を誰が継ぐか決まるまで、病人が呼吸を止めて待ってくれるわけではない。
王宮大広間。
レオニスは、兵を並べて即位を宣言した。
「私に逆らう者は、王国に逆らう者だ」
レオニスは、王冠を自らの頭に載せた。
その結果、拍手をする臣下はほとんどいなかった。
王宮北棟。
老国王は、息子の暴走を止められなかったことを悔いた。
「私が見なかったものを、民は見ていた」
老国王は、幽閉先から王子の権限停止を求める書簡を書いた。
その結果、侍従が命がけで文書を運んだ。
東部都市会議。
マルクは、新王の命令を無効と宣言した。
「王冠を奪えても、信頼は奪えない」
マルクは、各都市の自治と医療継続を確認した。
その結果、王国軍の一部が都市側に合流した。
帝国執務室。
アーデリアは、内乱への介入を求められた。
「救援は続けます。王位を決めるのは王国の人々です」
アーデリアは、人道回廊と外交交渉を維持した。
その結果、帝国軍は国境を越えずに待機した。
王都に新しい布告が貼られた。
王子が王権を掌握したという知らせに、広場では歓声よりも沈黙が広がった。
国王の所在が不明なままでは、どの命令が有効なのか誰にも分からない。
アーデリアは帝国軍の越境を求める議員を退けた。
「王国の王を、帝国が決めてはいけません」
代わりに人道回廊を維持し、地方評議会との連絡を続けた。
セレナは王都の患者名簿を開く。
政権が変わっても、薬を待つ人々の名前は変わらなかった。
二種類の命令書の間で、役人たちは患者の搬送を止めかけていた。
王都の役所では、二種類の命令書が届いていた。
国王の印章を持つ従来の命令と、王子の名だけで発せられた非常措置の新命令。
王国法で必要な侍医二名の診断と王国評議会の承認はなく、国璽による認証も公示されていなかった。
役人たちはどちらに従うべきか迷い、病院への薬の搬出が止まった。
若い書記官は上司に尋ねた。
「患者を待たせる根拠は、どちらの紙にあるのですか」
上司は答えられなかった。
彼らは薬だけを先に出し、後で責任を問われる覚悟を決めた。
アーデリアはその報告を受け、王国側の医師に感謝の書簡を送った。
王位の正統性には触れず、医療物資の通行を認めた事実だけを記した。
セレナは書簡の写しを読み、国境の向こうにも同じ判断をする人がいることを知った。
王宮の門が閉ざされても、診療所の扉まで閉じる必要はなかった。
王宮の門前で薬を届けようとした侍医は、暫定的な通行許可を得た。
しかし中に入ると、国王の部屋には別の兵が立っていた。
彼らは薬の瓶を調べ、渡すまで長い時間をかけた。
侍医は怒りを抑え、患者の状態を確認することだけに集中した。
王位をめぐる争いの中心にも、一人の病人がいた。
宮廷の外では、町の医師たちが互いに薬を融通し、診療を続けていた。
王都の診療所には新旧二つの印章が押された通行証が届いた。
医師はどちらを信じればよいか分からず、薬を待つ患者の列を見た。
彼は書類を机に置き、先に診察を始めた。
あとで責任を問われるかもしれない。
それでも、目の前の熱は王位争いが終わるまで待ってくれなかった。
夜半、王宮の侍医から短い書付が届いた。
国王の熱が上がっている。
昼に認められた搬入許可は一回限りで、夜の追加分は再び止められていた。
アーデリアはその紙を読んで、帝国軍を動かすよう迫る側近を退けた。
「王宮の門を破れば、治療より先に戦闘が始まります」
彼女は中立の医師会を通じて薬の搬入だけを求める文書を出した。
王国の医師たちにも同じ写しを送る。
返事は遅かった。
だが王宮内の厨房係が、食料の運搬札に薬箱を紛れ込ませようとしたと知ると、アーデリアは止めさせた。
「発覚すれば、今後の食事まで止められます」
正面からの交渉は遠回りだった。
それでも夜明け前、侍医の署名付きで搬入許可が届いた。
薬箱が門をくぐったとき、誰も勝利の声を上げなかった。
政治の争いに病人を巻き込まない。
その最低限の約束を守るだけで、一夜を費やしたのだった。
王宮の内側では、摂政就任を称する宣言を読まされた書記官が紙を握りしめていた。
国王の印章だけでなく、侍医の連署と評議会の承認記録が欠けていることに気づいても、声を上げれば家族が危ない。
隣の侍従が小声で告げた。
「印章の欠落だけは、写しに残せ」
書記官は余白に日付と立会人の名を書き足した。
抵抗と呼ぶには小さすぎる行為だったが、命令の正当性を後で調べる手掛かりになった。
国王の部屋へ通じる廊下には衛兵が二人立っていた。
侍医は薬箱を開き、薬の種類と必要時刻を一つずつ説明した。
「王子の許可が必要だ」
と言われると、彼は「では拒否した時刻とお名前を記録します」と答えた。
衛兵の一人が顔色を変えた。
しばらくして扉が開いた。
国王が生きているという事実は、その日の王都で最も守られるべき情報になった。
侍医は国王の薬を届け終えると、病室の扉の前で深く息を吐いた。
王位を争う人々の声は廊下にまで響いていたが、患者の呼吸を確かめる間だけは、医師としての仕事に集中できた。
その夜、厨房の使用人たちは食料庫の前で立ち尽くした。
王位を巡る争いが始まっても、病棟へ運ぶ粥は止められない。
年長の料理人は鍋を持ち上げた。
「誰が王でも、病人は腹を空かせる」
若い使用人が扉を開け、二人は裏通路から病院へ向かった。
王宮の廊下で兵が配置を変えるたび、病棟の使用人たちは足を止めた。
厨房から粥を運ぶ道も封鎖され、料理人は空の鍋を抱えて戻りかけた。
だが見張りの若い兵は、病院の配膳札を見て脇道を指した。
「俺が案内したとは言うな」
王位を奪う者の命令が、まだ全員の心まで奪ったわけではなかった。




