第五十一話 救援の代償は、帝国にも降りかかった
救援費の追加予算案が帝国議会に提出された朝、学校の教師たちが議事堂前に集まった。
「国境へ送る毛布があるなら、うちの教室の屋根を直してください」
濡れた教科書を抱いた教師の訴えに、アーデリアは返す言葉を探した。
王国の患者を救うために、帝国の子供が雨漏りする教室で学ぶ。
それを当然と呼ぶわけにはいかない。
会計官は救援費の増加を説明した。
臨時の診療所、薪、輸送用の馬、交代要員の宿泊費。
患者数が増えるたび、支出は膨らんでいた。
「救援を止めるべきです」
反対派の議員が立ち上がる。
「そうすれば帝国の負担は減る。少なくとも今月は」
アーデリアは帳簿を閉じなかった。
「今月だけなら、そうでしょう。来月、国境の外で病が広がったときの費用も計算してください」
セレナは議場に招かれていた。
だが、病人を救えば必ず得をすると言うつもりはなかった。
「救援には費用がかかります。だからこそ、無駄を見つけてください。病人の数を隠して帳尻を合わせることだけは、二度としないでください」
その言葉に、議場が静まった。
午後、ガレスが運送業者の帳簿を持ってきた。
国境へ薬を運んだ荷車が、帰路では空のまま帝都へ戻っている。
「戻り便に農村の穀物を積めば、農家も市場も助かる」
「ただし患者を運んだ車は、清掃と点検を終えてからです」
セレナの指摘に、ガレスは頷いた。
早さを優先して衛生をおろそかにすれば、節約は別の被害を生む。
二人は輸送業者と農村の代表を呼び、車両の用途と清掃手順を決めた。
運賃の上限を公開し、空車の距離を減らす。
派手な奇跡はない。
数字を一つずつ直すだけだった。
救援費の内訳は病院ごとに掲示された。
村の代表も異議を申し立てられるようにし、会計官は月末ごとに支出を照合することになった。
アーデリアは数字の訂正履歴まで残すよう求めた。
見栄えのよい報告書より、間違いを見つけられる帳簿のほうが国を守る。
病院では、イーナが廊下の椅子で眠り込んでいた。
夜勤明けのはずなのに、欠員を埋めようと戻ってきたのだ。
「私が休んだら、誰が患者を見ますか」
「あなたが倒れたら、誰が明日の患者を見ますか」
セレナは当番表を取り上げた。
休息時間を明記し、緊急時の呼び出し担当を別にする。
看護人の善意を人員計画の代わりにしてはいけない。
イーナは悔しそうに唇を噛んだ。
「休むのが怖いんです。私のいない間に、誰かが死んだら」
「私も怖い。でも、眠れない目で薬を取り違えるほうが、もっと怖い」
ようやくイーナは鍵を置き、宿舎へ向かった。
セレナは医療現場にも説明した。
「予算を守るために患者を断るのではありません。今必要な処置を見極め、不要な運搬や二重の検査を減らすんです」
エドガーは診療記録を見直し、重複した物資請求を見つけた。
節約とは患者を減らすことではない。
夕刻、教師たちが再び議事堂を訪れた。
アーデリアは削減予定だった校舎修繕費を戻し、救援費の一部を輸送効率化で捻出する修正案を示した。
なお不足する分は、期限を定めた臨時負担として公開審議にかける。
「全員が満足する予算ではありません」
「では、来月も説明してください」
教師の返事に、アーデリアは深く頷いた。
その翌朝、議会の予算委員会には、数字を書いた三枚の紙が並んだ。
一枚目は国境医療の支出。
二枚目は学校の修繕費。
三枚目は看護人の勤務記録だった。
「救援をやめれば、学校の屋根は直るのですか」
アーデリアの問いに財務官は答えられなかった。
輸送契約を突然破棄すれば違約金が発生し、国境で治療を受けられない人々が帝国内へ無秩序に流れ込む。
支出を消せば問題まで消えるわけではない。
セレナは看護人の勤務表を指で押さえた。
イーナの名前が夜勤欄に四日続けていた。
「この数字も予算です。疲労した看護人が薬を取り違えれば、患者の命で支払うことになります」
「ならば人を増やせばよい」
「育てる時間が必要です。今夜から働ける人員ではありません」
議員の一人が鼻で笑った。
「理想論だ」
と。
セレナは反論する代わりに、昨夜の事故報告を示した。
取り違えに気づいた看護人が投与前に止めた事例だ。
患者は無事だったが、報告者は自分の失敗を記録に残すことを恐れていた。
「罰するための記録ではありません。同じ事故を防ぐための記録です」
昼休み、教師の代表がセレナを呼び止めた。
「私たちは患者を追い返したいわけじゃありません。ただ、子供たちが雨の中で授業を受けているんです」
セレナは頷いた。
相手の訴えもまた命を守る仕事だった。
午後、アーデリアは軍用倉庫の未使用建材を学校へ転用する案を提出した。
代わりに国境の資材調達は複数の商人へ小分けに発注する。
運搬費は増えるが、一社の値上げに左右されにくくなる。
「全員が満足する数字にはなりません」
と財務官は言った。
「全員が明日も働ける数字にしてください」
採決は僅差だった。
教師たちは歓声を上げなかった。
ただ修繕開始日を何度も確かめ、国境へ戻るセレナに小さく頭を下げた。
採決後も問題は残った。
国境の病院から、交代要員が到着しないという連絡が来たのだ。
イーナは「休みたい」
と言えない看護人の代わりに勤務表を机へ置いた。
セレナは空白の欄を指さした。
「ここを埋めるために、誰かの休みを削ってはいけない」
急ぎの処置と翌朝でもよい仕事を分け、夜間の記録係を補助に回すことにした。
その夜、看護人の一人が初めて定刻に帰った。
門を出たところで振り返り、「患者を置いていくようで怖いです」とつぶやいた。
セレナは言った。
「明日、あなたが元気に戻ってくることも治療の一部よ」
翌朝、その看護人は約束どおり戻り、眠っていた間に起きたことを引き継ぎ帳で確かめた。
救援の継続は、こうした小さな交代から始まっていた。
「教室の屋根は、いつ直りますか」
議会を出たアーデリアを、朝の教師が待っていた。
救援の意義を説けば納得してくれると思うほど、彼女はもう幼くなかった。
「今週中に修繕費の見積もりを公開します。工事の順番も、教師の皆さんと決めたい」
「救援費を削らずに、ですか」
「両方の支出を見えるようにします。足りなければ、私たちがどちらを後回しにするのか説明しなければなりません」
教師は礼を言わなかった。
ただ、濡れた教科書を抱え直し、「子供たちにも説明してください」と告げた。
アーデリアは、その約束こそ予算案より重いと思った。
その夜、セレナは病院の窓から灯りの消えた宿舎を見た。
患者を守るために、看護人が眠れる夜を守る。
帝国の学校を守りながら、王国の病人も見捨てない。
救援を続けるとは、善意を叫び続けることではない。
明日も続けられる形に作り直すことだった。




