番外編第十五話 セレナが死んだと誤報が流れた日、国境に一万人が集まった
「最高治癒師セレナ、死亡」
朝の号外を読んだリゼは、紙を握り潰した。
昨日まで一緒に会議をしていた相手だ。
紙面を握りしめて病院へ駆け込むと、セレナは廊下で患者の記録を読んでいた。
「何があったの、リゼ?」
リゼが差し出した紙面を読んで、セレナは困ったように笑った。
「ひどい誤報ね。まず病院と役所から訂正してもらいましょう」
リゼは笑えなかった。
すでに国境の市場では、店を閉めて病院へ向かう人が出ていたからだ。
誤報の出所は、地方紙の短い記事だった。
医療会議を欠席したセレナについて、『急病で倒れた』という未確認の話が伝わり、編集の途中で『死亡』に変わった可能性があった。
正確な経緯は調査中だった。
共同医療局はすぐに本人へ公表内容を確認した。
セレナは頷いた。
「私が無事だと知らせてください。ただし、患者さんの情報や診察室の場所は公表しないで」
「先生の顔を見せれば早いのでは?」と若い職員が言った。
「病院の前に人が集まっている間は危険よ。まず通路を確保しましょう」
セレナは廊下の担架を見た。
「私の無事を知らせるために、患者さんを待たせるわけにはいかないもの」
局は訂正文を両国の役所と新聞社へ送った。
しかし紙の知らせは、噂ほど速くは届かなかった。
昼前、国境の橋には人が集まり始めた。
徒歩の人、荷馬車の人、遠くの村から駆けつけた人。
誰もがセレナの安否を確かめたがっていた。
橋と周辺の街道は混雑し始めた。
全員が一か所に集まっていたわけではない。
それでも病院前の道は、すぐに人で埋まった。
救護車が曲がり角で止まったという連絡が入り、リゼの顔色が変わった。
「これは危険です」
リゼは警備責任者に言った。
「救急の通路だけは確保してください」
警備隊は橋の手前に案内係を置き、病院へ向かう流れと帰る流れを分けた。
人を押し戻すのではなく、立ち止まれる広場へ誘導する。
医療班は混雑を避けた場所に臨時救護所を設け、飲み水を用意した。
暑さと疲れで具合を悪くした人もいた。
「心配して来てくれた人が、ここで倒れたら本末転倒ね」
セレナは窓から街道を見た。
「だからこそ、私が姿を見せれば」
「すぐ外へ出るのは危険です」
リゼが止めた。
「まず、人が動ける場所を作ってから」
皇女アーデリアから連絡が届いたのは、その時だった。
帝国側の役所にも噂が広がり、橋の向こうに人が増えているという。
「両国で同じ文面を出します」
アーデリアは使者を通して伝えた。
「生存の確認、病院への立ち入り制限、帰路の案内。別々に発表すると混乱します」
リゼは頷いた。
「助かります」
セレナは少し考えた。
「私の言葉も入れていい?」
「短くお願いします」
「長い演説は得意じゃないもの」
その返事に、リゼはようやく小さく笑った。
午後、病院の門から離れた安全な場所に、臨時の告知台が設けられた。
周囲の通路を確保した後、セレナは警備員とともに姿を見せた。
人々のざわめきが、波のように広がった。
「セレナ先生だ!」
「生きていた!」
拍手が起こる。
セレナは手を上げ、静かになるのを待った。
「私は無事です。心配してくださって、ありがとうございます」
声が届く範囲は限られていた。
同じ文面を掲示板と伝令で橋の先へ送る。
「でも今、病院には治療を待つ人がいます。救護車の道を空けて、案内に従ってゆっくりお帰りください」
歓声がまた上がった。
セレナは続けた。
「押さないでください。具合が悪い人は近くの係員に伝えてください」
セレナは群衆の中に、病院の患者の家族がいることにも気づいた。
治療中の人を置いて、心配のあまり駆けつけたのだという。
「病室に戻ってあげてください」
セレナが伝えると、家族は涙を拭った。
「先生がいなくなったら、父の治療はどうなるのかと思って」
「お父さんを診ているのは、私だけではありません」
セレナは病棟の窓を指した。
「担当の医師も看護師もいます。私が会議で不在の日も、治療は続いています」
家族は少し恥ずかしそうに頭を下げた。
「そうですね。いつも助けてくれる方がいます」
セレナは頷いた。
その会話は小さかったが、リゼの胸に残った。
皆がセレナを頼るのは嬉しい。
けれど、彼女一人に頼らなくてもいいことを、もっと伝えなければならない。
リゼは、翌週の病院広報に各診療班の役割と連絡先を載せようと決めた。
人々はすぐには動かなかった。
本当に本人か確かめたい者もいた。
遠くから来て、帰りの馬車がない者もいた。
警備隊は急がせず、帰路を地域ごとに案内した。
宿泊が必要な人のため、町役場が空き部屋の情報を集めた。
臨時救護所では、転んだ子供の手当てが続いていた。
多くの人の不安は、一度の挨拶で消えるものではない。
それでも夕方には、救護車の通路がようやく途切れずに確保された。
その夜、両国の担当者が橋と周辺街道の通行人数を持ち寄ると、延べ一万人近い往来が記録されていた。往復や地点ごとの重複を含む概数であり、実人数とは異なる。それほど多くの人が、安否を確かめようと動いたのだった。
混雑が落ち着いた頃、一人の老人がリゼに声を掛けた。
「先生の顔は見られなかった。でも、無事ならそれでいいんだ」
老人は昔、セレナの診療所で孫を助けてもらったという。
「お礼を言う前に、死んだと聞いてしまってな」
リゼは深く頭を下げた。
「来てくださった気持ちは、必ず伝えます」
「伝えなくていい。今、困っている人を診てくれ」
老人はそう言って帰りの列に加わった。
リゼは、その言葉だけはセレナに伝えたいと思った。
翌日、共同医療局は確認できた事実と訂正の経緯を公表した。
新聞社も誤報を訂正し、未確認情報を掲載した手順を見直すと発表した。
病院側は緊急時の情報発信窓口を一本化し、本人確認の手順と両国の役所への連絡方法を確認した。
ただし、誰かが悪意で噂を広めたと決めつけることはしなかった。
原因の調査と、次に同じ混乱を防ぐ対策は別々に進める必要があった。
翌日の夕暮れ、セレナは人通りが戻った街道を眺めていた。
「延べ一万人近い人が国境まで来たなんて、想像しなかった」
リゼは隣に立った。
「それだけ、あなたが大切なんでしょう」
「でも、私がいなくなったら病院が止まると思われているなら困るわ」
「そうね」
「いつか私がいなくなっても、診療所は開いていてほしい」
リゼはしばらく黙り、それから頷いた。
「そのために、みんなで作ってきたんだものね」
セレナは笑った。
「じゃあ、明日も引き継ぎの会議をしなくちゃ」
「明日は休みでしょう」
「……そうだった」
二人は顔を見合わせて笑った。
病院の門には、新しい掲示が貼られていた。
『診療は通常どおり続いています』
その文字を見て、セレナは少し安心した。
自分が生きているという知らせより、病院が今日も動いているという知らせ。
セレナは掲示をもう一度見て、静かに病棟へ戻った。
扉の向こうから、交代する看護師たちの声が聞こえた。
自分がいなくても続く医療を作る。その願いが、今日も少しずつ形になっていた。




