第百話 治癒師資格のない病院
新設医療評議会の会議室へ、看護人ミラが泥のついた靴で入ってきた。
「病棟から直行しました。昨夜の記録を提出します」
議員の一人が眉をひそめた。
「正式な治癒師でもない者の記録を、議事の根拠にするのか」
ミラは一度息を整え、反論する代わりに記録帳を机に置いた。
患者の呼吸数、顔色、体位を変えた時刻、医師を呼んだ時刻が、読みやすい字で並んでいる。
旧法には看護人の職務範囲が明記されておらず、治癒魔法の資格を持たない者の処置が病院ごとの解釈に委ねられていた。
そのため、看護人は患者の異変に気づいても、何をしてよいか分からず立ち尽くすことがあった。
「無資格者に何でもさせれば事故が増える」
上級治癒師が言った。
「そのとおりです」
セレナは頷いた。
「だから、何をしてよくて、何をしてはいけないかを決める必要があります」
議員たちは驚いた。
反対意見を認められると思っていなかったのだ。
セレナは黒板に四つの欄を書いた。
観察と生活支援、看護処置、診断と処方、治癒魔法。
誰がどの訓練を受け、誰の監督下で行うかを分ける。
「呼吸の異常を見つけることに魔力は要りません。でも、薬の量を独断で変えるのは危険です」
ミラは続けた。
「夜間は治癒師が一人しかいません。呼ぶまでの間に、患者の状態を伝える方法が必要です」
エドガーが病棟の当直表を提出した。
夜間には医師や治癒師への連絡が遅れる時間帯がある。
誰も悪意で空白を作ったわけではない。
しかし空白があることを知りながら、規則を変えずにいた。
「資格のある者を増やせばいい」
議員が言った。
「育成には時間がかかります」
エドガーは答えた。
「今日の夜勤を、五年後の卒業生に任せることはできません」
暫定規則の審議が始まる前、ミラは一枚の報告書を握りしめていた。
昨夜、病棟で高齢の患者が息苦しさを訴えたとき、彼女は呼吸の回数を記録し、体を起こして医師を呼んだ。
診断は医師が行い、薬は治癒師の確認を受けて投与された。
患者は朝までに落ち着いた。
「私一人で治したわけではありません」
とミラは言った。
「だから、誰が何をしたかを残しました」
評議員の中には、看護人が記録を取るだけでも権限の侵害だと考える者がいた。
上級治癒師は机を叩いた。
「判断を間違えたら、誰が責任を負う」
エドガーが答えた。
「監督する医師と治癒師にも責任があります。看護人だけに押しつける制度にはしません」
別の議員は財政を問題にした。
研修を増やせば病院の費用が上がる。
地方の小さな診療所には指導者も足りない。
セレナは、すべての病院で同じ日に新制度を始める案を退けた。
まず三施設で試行し、事故や報告の遅れ、患者からの苦情を集める。
成果があっても、別の地域へ広げる前に研修者を育てる。
「改革を急いで、現場に無理をさせれば、また患者が犠牲になります」
昼休み、ミラは廊下で年配の看護人に呼び止められた。
「私たちは何年も患者の世話をしてきた。今さら試験を受けろと言われても困るよ」
ミラは返事に迷った。
自分は新しい研修を受ける機会があったが、古くから働く人は仕事を休めない。
「経験を無かったことにはしたくありません。実技でできることを確かめて、不足している部分だけ学べる仕組みにできないでしょうか」
二人は午後の会議へ戻り、その提案を出した。
評議会は経験者の技能確認と補習課程を規則案に加えた。
資格を持たないことを理由に一律に排除するのでも、経験だけを理由にすべてを許すのでもない。
午後の実技では、患者役の老人がわざと「大丈夫だ」と繰り返した。
ミラは顔色と息の速さを見て、本人の言葉だけでは判断できないと報告した。
指導役は頷いた。
「本人の言葉と観察した状態が食い違うときは、医師へ報告しましょう」
別の看護人は異変を見逃した。
評議員が失格と告げかけると、セレナが止めた。
「試験の目的は、誰を罰するかではありません。どの訓練が必要かを知ることです」
失敗した看護人は目を赤くしながら、もう一度手順を確認した。
翌週の再訓練が決まり、単独で夜勤に入ることは当面見送られた。
採決前、上級治癒師が最後に発言した。
「私たちの仕事が軽く見られるのが怖かった。しかし、患者の変化に気づく人が増えることは、治癒魔法の価値を下げないのだな」
セレナは頷いた。
「魔法が必要な場面を、見逃さずにつなげる人がいるからこそ、その力が届くんです」
「ならば、治癒師の私たちも看護の訓練を受けるべきなのか」
「はい。魔法が使えることと、患者の変化を見逃さないことは別ですから」
評議会は暫定規則を可決した。
看護人の研修課程、監督者の責任、記録の保管、緊急時の報告先を定める。
ただし、制度の効果は半年後に検証し、事故や苦情があれば見直すことになった。
ミラは議場を出てからセレナに尋ねた。
「これで、私も治癒師になったんでしょうか」
「いいえ。あなたは看護人です。その仕事が、ようやく正しく認められたんです」
ミラは少し考え、笑った。
「それなら、胸を張って病棟に戻れます」
採決の直前、地方病院の院長が立ち上がった。
『報告先を決めても、医師が眠っていて電話に出なければ同じです』。
会議室が静まる。
エドガーは当直の連絡網を二段階にし、一定時間応答がなければ別の医師へ引き継ぐ案を示した。
ミラは手を挙げた。
『その時間を、看護人が勝手に判断していいのでしょうか』。
セレナは基準を曖昧にせず、呼吸や意識の異常など緊急性の高い徴候を手順書に記すよう求めた。
『患者が危険なとき、許可を待つこと自体が危険になる。
だからこそ事前に決めましょう』。
会議が終わると、上級治癒師はミラを呼び止めた。
『先ほどは失礼した。
記録を軽んじていた』。
ミラは慌てて首を振った。
『私も魔法のことは分かりません。
だから先生方に伝えたいんです』。
二人は記録帳を開き、どの変化を最優先で報告するか一緒に印をつけた。
役職の違いは残る。
それでも同じ患者を見て話せるようになったことが、この日の小さな変化だった。
新しい規則の試行初夜、ミラは病棟で患者の呼吸が速くなっていることに気づいた。
以前なら治癒師の巡回を待ったかもしれない。
今夜は記録表の基準を確認し、当直医に連絡した。
「薬を増やしたのか?」
駆けつけた医師が尋ねる。
「いいえ。体位を変え、時刻と呼吸数を記録しました。処方は変えていません」
医師は患者を診察し、必要な処置を指示した。
魔法の光が病室を満たしても、ミラはそこで仕事を終えなかった。
処置後の変化を記録し、次の当直者に伝える。
翌朝、評議会へ届いた報告書には、救われた患者の名だけでなく、連絡までにかかった時間と改善すべき点が書かれていた。
「規則を作っただけで終わりにはできませんね」
アーデリアが言った。
セレナは頷いた。
「はい。患者を守れた夜も、守れなかった夜も、同じように学べる病院にしたいんです」
誰か一人の英雄譚ではなく、次の当直者に引き継がれる仕事が始まっていた。
試行開始から二週間後、三施設の記録を集めると、報告までの時間は短くなった一方、夜勤者の疲労は増えていた。
ミラは成果の表だけを出すことを拒んだ。
「患者を守るための制度で、看護人が倒れたら意味がありません」
評議会は研修時間を勤務として扱い、代替要員の費用を試行予算に加えた。
新しい規則を守れない病院を叱る前に、守れる条件を整える。
セレナはその順序を議事録に残した。




