第5話
あの夜、千穂に出逢ったのは偶然だった。
人はこれを運命だとか、神の思し召しと呼ぶかもしれない。
今になって振り返って見ると、僕には後者であり前者でもあったかもしれない。
警戒心を抱きにくい容姿を選び、酩酊状態の女性の家に上がり込む行為そのものに対しては、若干の罪悪感はあった。
だが、それ以上に、酩酊した千穂をこのまま独りにする事の方が、道義に反している気がした。
簡単に上がり込めた千穂の家は、家畜小屋よりも狭くて驚きを隠せなかったが、泥酔状態の千穂に気づかれる事は無かった。
ベッドの前に転がるように座り込んだ千穂は、軟体動物のようにグニャグニャになりながらテーブルの上に突っ伏した。
「ねぇ~~~~聞いてくれるぅ~~?」
巻き舌になりながら、千穂はそう言って、僕の了承の言葉を聞く前に語り出した。
「なぁにが、違う!よねぇ~~~~~全裸で粗末なモンをプランプランさせてたら、どう考えたってそういうことよねぇ~~~~」
起承転結など存在しない言葉に、テーブルを挟んで向かい側に腰を下ろした僕は相槌を打った。
この時はまだ、一宿だけするつもりだった。
「4年よ、4年! 4年も付き合って、さーやっとそろそろかって時にさぁ~~~~浮気するふつーーー?」
千穂は勢いよく上体を起こして語り出し、コンビニ袋の中からビール缶を取り出して勢いよく栓を開ける。
ブシュッと炭酸の抜ける音と共に噴き出した泡を慌てて喉の流し込んだ千穂は、缶の内容物を半分近く飲み干してから、二の句を告げた。
「やってらんねぇっての~~~~! なんで浮気するかねぇ~~~~~。不満があるなら、そん時に言えば良いじゃない~~~ねぇ?!そう思わない?!」
「そうだね」
要領を得にくい話ながら、千穂が浮気されたという事だけはよくわかった。
「別れてから付き合えよなああーーーーー。それが人としての道理ってもんでしょうがよ~~~~~!そう思うでしょ?!」
「そうだね」
僕の相槌に満足げに笑った千穂は、はたと目を瞬かせる。
まるで突然酔いから醒めたような顔つきに、僕がドキリとしたところで、
「ねえ、ヒック! ンッで、名前なん、なんヒック!だっけ? 聞いたっけ? あれ?私自己紹介したっけ?! 私の名前は朽方千穂! 君は?!」
と、しゃっくりを交えながら問うてきた。
「……◇□■□■ ◆◇■◆◇□◆■ってわかる?」
「え?なんだって?えぇ? アハハハハハ! 何今の!え?アハハハハハハハハ!」
情緒不安定の酔っ払いの笑い出しに、僕は困った顔をするしかなかった。
その表情に、千穂は流石にバツが悪かったようで、
「笑ってごめん」
と、スンッと表情を曇らせた。
「いや、いいよ。そうだな……理解できないんじゃ、とりあえずの名前を考えた方が良いかな…」
僕の言葉に千穂は首を左右にぐわんぐわんと揺らしながら、
「んじゃーレオンハルトは?!」
と、唐突に提案してきた。
渡りに船な提案に、僕は頷いて、
「ではそれで」
と、言うと、千穂は満足げに笑った。
「レオンって呼ぶわね!」
千穂はそう言うが早いか、また自らの話を始める。
「それでさぁーーーレオン聞いてよ~~~。もうさぁ、もうあんな粗末な男と結婚しなくてよかったとは思うんだけどさ~~~~~~~~~~~~~。今年で28なわけ。もうね、終わりよ終わり」
「終わりって?」
「そらぁ、結婚よ。もうむりむり。次付き合った男も、どーーーーーーーーーーーせ、また若い女に走るかもって疑っちゃうかもしれないしさ~~~~~~~~~。それって相手に悪いじゃない?? その人は浮気してないのに」
千穂は早口にまくしたてると、残りのビールを一気に飲み干した。
「…なるほど」
「私は別にさぁーーー多くを求めてるわけじゃないの。分かる? 誠実であって欲しいだけ。家事が凄い得意だとか、凄い顔が良いとか、お金を一杯稼げるとかを求めてんじゃないの。くだらないことで一緒に笑えて、美味しい物食べたら一緒に美味しいねって話して、似たような価値観をもって、ただ一緒に老いていきたいだけ。それが難しい事かなぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~」
新しい缶チューハイの栓を抜いた千穂は、アルコールで喉を消毒する。
「いや、そんな事は無いと思うよ。凄く、良い考えだと思う」
それは僕の本心からの言葉だった。
それを察したわけではないだろうに、
「若いのに分かるわね!! もうお姉さんと結婚する?!」
千穂はとんでもない提案を繰り出した。
予期していなかった言葉に僕が面食らう間に、千穂は千鳥足で立ち上がる。
うまく立ち上がれずにコケそうになった千穂に慌てて手を貸すと、千穂は手刀を繰り出すように謝りつつ、部屋の隅にあるクローゼットにふらふらと近寄った。
そして、へたり込むように座り込んでクローゼットを開け、その中にあった衣装ケースから、一つの紙を取り出す。
「これ」
顔に突き付ける様にして差し出された婚姻届けに、僕は驚きながらも受け取る。
渡された婚姻届けは、結婚する夫と妻の欄だけが空欄の状態だった。
これを役所に出してしまえば、千穂と自分は夫婦になれる。
しかし、千穂は、その場に座り込んだままで首を横に振った。
「まーーーでもレオンじゃ無理ね」
その言葉に、僕の口は反射的に開いていた。
「どうして?」
「え? だってレオン、あなた14歳くらいでしょ? 日本で結婚するには、18歳にならないとね。ま、4年後……また4年後……。何?私には4年の呪いでもかかってんの…?」
最後の方は独り言になった千穂は俯いて、聞き取れない程小さな声でブツブツと呟き出す。
「なら18歳以上であれば良いんだね」
僕の言葉にパッと千穂は顔を上げて、ニカッと笑った。
「まーー今すぐ18歳になれるってんなら、ぜひお願いしたいね!」
その言葉に、僕は頷いた。
「じゃあ、明日には18歳になっておくから、この婚姻届け、記入してくれる?」
「まじーーーー? すごぉおおおい! じゃあ書いちゃう!」
全く信じてない声音で笑う千穂に、僕は笑顔を向けるのだった。




