第3話
「それで…出すもの出してから言うのも何だけど、私達、話し合う事が山ほどあると思うんだけど」
市役所から戻ってきた私は、レオンハルトをテーブルの前に座らせて口火を切った。
部屋の内装はシンプルイズベストというに相応しいかもしれない。
右手の壁に沿うようにベッドを置き、部屋の中央に丸型の座卓が一つ。座卓の下にはフカフカの緑色のラグ。左手の壁に沿うようにテレビ台を置いて、その上には部屋の狭さに対して少々デカい40インチのテレビ。テレビの脇には、ゲーム機のコントローラーを配置し、テレビ台の中には最新の据え置き型ゲーム機を置いている。
中部屋のために、窓は小さなベランダに続く掃き出し窓が一つだけだった。
そんな部屋の中で、テレビを背に絶世の美男子を座らせている様は、なかなかにシュールかもしれない。
「そうだね。まずは、住まいを考えないとね」
レオンハルトの言葉に、私は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしてしまう。
「まって。段階踏ませて。色々と。お願いだから」
私の懇願に、レオンハルトは、ああ、と小さく頷いた。
「思っていた以上に記憶が無いんだね。あれだけ飲んだのだから、仕方がないと言えば仕方がないかな」
「悪いわね。でも、記憶が殆ど無いからと言って、あの時に言った事を反故にする気は無いってのは既に分かってるよね」
そうでなければ、婚姻届を出す事などしない。
私の決意に対し、レオンハルトは頷きで返しながら、
「そうだね、それはもちろん。――自己紹介から始めた方が良いかな?」
と、提案してくれた。
「ぜひお願いしたいわ」
頭痛薬を飲んでも消え切らない頭痛に苦しみながら私が頷くと、レオンハルトは心得たとばかりに笑顔で、こう言った。
「本名は、◇□■□■ ◆◇■◆◇□◆■」
言語のはずの言葉を脳が処理できず、
「なんだって?」
と、私は再度聞き返す。
それに対し、レオンハルトは、
「◇□■□■ ◆◇■◆◇□◆■」
と、再度喋るも、やはり何を言っているのかまるで理解できなかった。
二日酔いの脳には理解できない言語が存在するとでも言うのか。
私の困惑にレオンハルトは困ったように笑い、小さく首を横に振った。
「やっぱり難しいみたいだね。レオンって呼んでくれれば良いから」
レオンハルトの申し出に、私は申し訳なさを綯交ぜながら、
「ごめん、そうさせてもらうわ。で、出身は何処なの? 少なくとも日本ではないよね」
と、次の質問を繰り出す。
「まぁそうだね。パスポート的にはスイスかな」
「パスポート的には」
レオンハルトの言葉尻を捕えた私の返しに、レオンハルトは平然と頷いた。
「うん。外国籍の者の身分証には、パスポートが一番だよね?」
「……まぁそうね」
「それで、他に知りたい事は?」
「ご両親には言ってある?」
その言葉に、そこもかぁとばかりにレオンハルトは小さく首を横に振った。
「親はいないから」
「あ……ごめん」
ここまで記憶が吹き飛んだのは初めてだが、本当にびっくりするほど丸っと記憶が無い。
私は決まり悪さに額を右手の人差し指で掻けば、レオンハルトは優しく笑うばかりだった。
とても18歳とは思えない落ち着き払った態度は、同年齢か年上を相手にしているような気がしてきてしまう。
「いいよ。――あと知りたい事って…僕が学生か、とかかな?」
昨日聞かれたけど、とちょっと言いたげな顔つきのレオンハルトに私は頷く。
「まぁ、そうね」
「君たちで言うところの大学は卒業してるよ。今は、所謂トレーダーって奴かな。お金はあるから、その辺りは安心してね。ただ家は無いんだよね」
レオンハルトの言葉に、私の頭がもう無理とばかりに痛みの警鐘を鳴らし始める。
「家がない」
思考力が低下し始めた私のオウム返しに、レオンハルトは頷いた。
「そう。でも、二人で生活するには、ちょっとここは手狭だから、家探ししよう?」
「……結婚生活は普通にするつもりで居たの?」
私の言葉に対し、レオンハルトは心外だと驚きに顔を歪めた。
「そりゃそうだよ。千穂とはちゃんと夫婦として生活したいと思ってるよ。始まりはどうであれ、夫婦になったのは事実なんだから。僕、そんなに薄情に見える?」
「……いや、そんなには…」
頭痛薬なんてクソ食らえとばかりの痛みに耐えながら私が力なく首を横に振ると、レオンハルトはジッと私の顔を見た後、
「もしかして、頭、かなり痛い?」
と、問いかけてくれた。
それに、私は首を横に振る元気もなく、小さく頷く。
「ごめん、気づかなくて。横になって? 薬飲んでから、まだ四時間経ってないし、寝るしかないよね」
レオンハルトの言葉に、私は小さく頷いて、すぐ後ろのベッドにノソノソと上がると、すぐに布団をひっかぶる。
「自分勝手してごめん…」
私の言葉にレオンハルトは、
「全然いいよ。昨日あれだけ飲んだからね。――あ、ちょっとごめん、寝る前に」
と、瞼を落とす事を止めてきた。
私はレオンハルトの方を見る気力もなく、壁の方を見て次の言葉を待っていると、
「お昼、何食べたい?」
と、聞いてきた。
「……なんか、軽いの…」
私の力ない言葉に、レオンハルトは首を傾げながらも、
「分かった。考えてみるね」
と、実に優しい回答をしてくれた。
私はふうっと体から力を抜いて、瞼を落とす。
「おやすみ」
レオンハルトの優しい言葉に、何故だか涙が出そうだった。
これが、どっかの元彼、川本であったなら、激昂していた事だろう。
私の体調なんて些細な事よりも、自分の話を聞くべきとばかりの態度を取ることがよくあった。
それを恋という色眼鏡をかけていた間は、話していて話題が尽きない人、になっていた。
浮気という凄まじいパンチによって、色眼鏡は砕け散り、頭痛という苦しみの中で、川本の腹立たしい顔が思い浮かぶ。
いつだって自身の仕事話を自信満々にしても、私の体調を慮った事は一度もなかったかもしれない。
川本と結婚しなくてよかった。
そう心底思いながら、私は静かに眠りに落ちるのだった。