第1話
例えばの話などと言う気は無い。
その日、珍しく残業せずに済んで、意気揚々と彼氏の家に行った。
渡された合鍵で彼氏の家に入り、玄関口に乱れた女物の靴があった瞬間、私の脳内でゴングの音が鳴り響いたのは言うまでもない。
玄関からリビングに真っすぐに続く廊下には、脱ぎ捨てられた衣服と、女物の鞄。
そして耳朶を打つ卑猥な音によって、私の思考はびっくりするほど冷静だった。
彼らは自身の背徳感に溺れ、玄関の鍵が開いた事も、ドアが閉まった事すらも気づいていなかった。
黒革のショルダーバックからスマートフォンを取り出し、私は静かに惨状を撮り始める。
そして、廊下に放り出されたピンク色のブランドバックの前に片膝をついて中を漁れば、いともあっさりと女の身分証が手に入った。
同じカロリヌ株式会社の平社員、甘宮リコ。
それが、浮気女の名前と身分だった。
思わず鼻で笑いながら、私は立ち上がる。
そして、その足でリビングに突入した私が目撃したものは、乳繰り合う彼氏と若い女。
彼氏と共に選んだテーブルの上に乱雑に放り出された下着。
選び抜いた白いラグには、赤いワインの染みがまるで血痕のように広がっている。
ソファーベッドの上で勤しんでいた二人は、一様に、ぽかんと口を開けて驚きの表情をこちらに向けてきた。
言い逃れの仕様の無い程の見事な浮気現場を前に、バッシャバッシャとシャッター音が響き渡った。
その音に我に返った元彼が、
「ちょ、おい! えっ?!」
と、言葉にならない声を発しながら、貧相なモノを隠すためにソファーベッドのカバーを下半身に巻き付けた。
そのカバーも、私と選んだものだったのは、言うまでもない。
その間に、私は自身の携帯をしっかりと鞄に押し込み、
「これはちょっと! あの! 違うんだよ!」
などと喚き散らしながらソファーから転げ落ちた元彼、川本隆盛は、30歳になっても営業職である自負により、それなりに鍛えた体は引き締まっている。顔の作りも悪い方ではなく、所謂爽やか系の部類になるだろう。
だが、そんな事は今の私にはどうでもいいことだった。
慌てて立ち上がった川本が近寄って来ようとしたところを、私は片手を突き出す事で制し、
「別れるから。――それから甘宮さん」
と、ソファーの上に座り込んだままの垂れ目で巨乳、狸顔の可愛らしい顔立ちの女に視線を落とせば、甘宮の顔色はサッと青くなった。
「こいつとは婚約関係だったんだけど、その辺りの意味、理解してる?」
「えっ? えっ…と…」
ふにゃっと笑って小首を傾げて見せる様は、恐らく男にしてみれば、とっても可愛らしいという評価を受けるだろう。
だが、私は女だ。
お前と同じ。
名前は、朽方千穂。
今年で28歳のアラサーだ。
パンツスーツを着こなし、仕事で邪魔と感じたために切った髪は、ベリーショート。
第一印象で仕事の出来る気の強い女を思わせる吊り目の私は、その目で甘宮を睨み据える。
甘宮は、へらっとした笑いを引っ込め、今度は醜悪に睨んできた。
やっぱり、そんな顔も出来る訳ね。
そう思いながら私は浮気男に視線を戻す。
「待てよ、おい、千穂。ちょっとした遊びぐらい良いじゃねぇか、な?? 結婚してやるから許せよ」
薄ら笑いを浮かべる川本に、私は目元が痙攣するほどの怒りを覚えた。
「は? 良い訳ないでしょ。脳みそと下半身が直結してるゴミと結婚なんて冗談じゃないわ。折半して買った家具とか全部弁償して貰うんで、そのつもりで」
来週、ここに引っ越してくる予定だった。
だからこそ、足りない家具を買い揃えたというのに。
私はゴミを見る目で川本を見上げ、そして踵を返して歩き出す。
「おい! 待てよ!」
腰に巻き付けたシーツに足を取られて転びそうになりながらも追いかけてくる川本を無視した私は、川本が借りているアパートの一室から飛び出した。
流石にシーツ姿で外まで追いかける事が出来なかった川本は、遠ざかっていく私の背中を焦りながらも見送るしか無かった。
そして現在。
私は帰りしなに大衆居酒屋で浴びる様に酒を飲み、千鳥足で帰路を辿りながらコンビニで大量の缶ビールを買い込んだ。
11月末の涼しい風に鼻歌を歌い、深夜の閑散とした住宅街の狭い道をふらふらと歩いていく。
街灯はポツポツと疎らなせいで街灯の光が届かない暗がりもあり、今にも幽霊でも出そうな雰囲気を醸し出しているものの、アルコールで馬鹿になった頭は気にも止めなかった。
あとちょっとで、家に着く。
そんな時だった。
唐突に、銀髪で金の目を持ち、堀が深く、美しいと思わず口に出してしまう程の西洋系美少年が目の前に現れたのは。
こちらに向かってくる足音など何もなく、突然に目と鼻の先の街灯の下に現れた小柄な美少年に、酩酊した私は、
「ちょーびしんじゃん!」
と、思わず声を上げる。
14、5歳ぐらいのまだショタに片足を残した美少年は、にっこりと天使のような微笑みを浮かべて私を見上げ、
「ありがとう。お姉さん、そんなに酔って、どうしたんですか?」
するりと脳に入り込む涼やかで甘い声は、一生聞いていたくなるほどのものだった。
「えぇー! おねえーさんの話きいてくれる? きいてくれちゃう? あんねー! あのね!」
呂律も思考も回らない酩酊状態の私に、天使の美少年は、にっこりと微笑んだまま、うんうんと頷いた。
そして、最早言語ではない言語を喋り出した私に、
「ねえ、お姉さん。もっと詳しく話が聞きたいから、お姉さんのお家にお邪魔してもイイかな?」
と、冷静な頭であれば、危機感を覚える言葉を口にした。
しかし、私の思考回路はアルコールの濁流に溺れていた。
「いいよぉ!」
そうして、美少年の肩を借りて寄りかかった私は、自分の家に、名前すらも知らない美少年を招き入れるのだった。