〈22〉頑固ジジイ
ウィンター家のカントリーハウスがあるカーヴェル地方は、兄が言ったようにのどかで牧歌的な風景が広がっていた。広い草原に羊や牛といった家畜がのっそりと歩いている。
小高い丘の上に建つカントリーハウスにオーレリアたちが到着したのは、都を出た夕方のことである。
都のタウンハウスでも十分に広いと思っていたけれど、カントリーハウスは桁外れの広さだった。門を潜ってからが長い。家族だってそんなにたくさんいるわけではないのに、こんなに広い敷地が要るわけがない。
貴族って何を考えてるんだろう、というのがオーレリアの正直な心境である。
到着した馬車から、兄のエスコートで降りる。
すると、屋敷の使用人たちが出迎えてくれた。アポイントメントなし。いきなり来たけど、それでも出迎えてくれた。
その使用人たちの中にジェシーがいないかと見回すが、小さいからいてもわからない。
兄がにこやかに挨拶する。
「ご無沙汰しております。近くまで参りましたので、ご挨拶に立ち寄ったのですが、伯爵のお加減はいかがですか?」
すると、家令らしき燕尾服の男が礼儀正しく答える。
「ええ、雨季には大層痛みを訴えられておられましたが、今は少し落ち着かれたようです」
「そうでしたか。アーヴァインも心配していましたよ」
それにしても、立派な使用人がたくさんいる。ジェシーを雇う必要なんてないのに、やっぱり無理やりねじ込んだのだろう。ジェシーが肩身の狭い思いをしていないといいのだけれど。
オーレリアはコリンにこっそりと耳打ちした。
「なあ、あの時の男の子、ジェシーがいないか捜しておくれよ」
「合点承知です、姉御」
この時、家令がずっと気になっていたであろうことを訊ねた。
「そちらのご令嬢は……?」
都から離れたここは情報も遅いのかもしれない。兄が苦笑した。
「僕の生き別れになっていた妹です。ようやく一緒に暮らせるようになって、一度伯爵にもご挨拶だけと思いまして」
「ああ、左様でございましたか。あの時の――。ご無事に生きておられて、こんなにもお美しく成長されていたとは」
コーベット家の赤ん坊が攫われたという事件は、当時の人なら誰もが知っているスキャンダルのようだ。知らなかったのは当の本人ばかりか。
オーレリアは精々淑やかに見えるように会釈だけしておいた。
「では、こちらへ」
家令が案内してくれるが、正直に言ってそっちには行きたくない。オーレリアはジェシーの様子が知りたいだけなのだ。頑固ジジイの相手で終わりたくない。
コリンは任務遂行のためについてこなかった。コリンだけが頼りだ。
その頑固ジジイ、アロイス・ウィンター伯がいたのは書斎だった。
脚が悪いので、応接室まで出向くのも大変なのだろう。そんなことは構わないが、薄暗い部屋だった。薄暗いランプの灯りが照らす壁は天井まで続く本棚だ。
あんなの、上まで手が届くわけがないのに、なんであんな高さに棚を作ったのだろう。オーレリアは設計した人が無計画だと思った。
そんなどうでもいいことを考えつつ、ずっと下の方に目を向けると、そこには重厚な机があって、その机の上で手を組んでいる老人がいた。
――ああ、なるほど。頑固そうだ。
それがオーレリアが受けた第一印象である。
「ご無沙汰しております、ウィンター卿」
人当たりのいい兄だが、このウィンター伯には緊張を見せた。
真っ白な頭髪、眼鏡の奥の淡い瞳。皺は深く、痩せて骨ばっているのに、何故か妙に威圧感がある。
臙脂のガウンを羽織っていて、どちらかと言えば小柄なのに偉そうだ。
伯爵は、フン、と兄の言葉を鼻で笑った。
「こんな時期外れに、コーベットの小倅が何をしに来た?」
コーベットの小倅と来た。まったくもって友好的ではない。
それでも、兄が驚いていない辺り、いつもこうなのだとわかる。
「ええ、妹にカントリーハウスを見せに行くところでして、通りがかりにご挨拶に参りました。こちら、妹のオーレリアです」
「初めまして。オーレリアと申します」
帽子を手に持ち、頭を下げる。オーレリアにしてはお行儀よく挨拶できたと自画自賛した。
しかし、顔を上げた途端に伯爵の食い入るような視線が無遠慮に刺さる。
「……あの時の赤ん坊か。よもや生きていたとはな」
ばっちり元気に育ってましたけどね、とオーレリアは心の中でつぶやいた。
伯爵はまた、フン、と意地悪く息を吐く。
「どのようにして暮らしておったのかは知らぬが、小金持ちの成り上がりが親で得をしたな。精々贅沢をさせてもらうといい」
なんて口の悪い爺さんだろう。これでは皆、近寄りたがらないのもうなずける。
兄もさっさと去りたい様子だった。けれど、伯爵は言い足りないらしい。さらに口を開く。
「アーヴァイン……あの馬鹿孫とはまだつき合っておるのだろう? 遊び半分で軍人になんぞなりおって、いつまで子供のつもりをしておるのやら。まったく、あんな愚か者に育てたつもりはないというのに、不出来にもほどがある。ウィンター伯爵家の面汚しだ」
たった一人の孫にそこまで言うかと思うほどの毒舌っぷりだった。
オーレリアも親父とはよく罵り合ったが、こんなのではない。これは方向性がよくない。オーレリアはそう思って呆れた。
「アーヴァインは面汚しなんかじゃないよ」
本当に、呆れて言ってしまった。
あれでいいヤツだ。愚かには育っていないし、頼りになる。そこは援護してやりたかった。
ただ、兄がギョッとして固まってしまった。
「オ、オーレリア!」
「なんだよ、兄さん。兄さんの親友じゃないか。なんでこんなこと言われて怒んないんだよ?」
「そ、それは……」
オーレリアは前に進むと、伯爵がいる正面の机に手を突いた。伯爵の表情が険しくなるけれど、言いたいことは言わせてもらう。
「アーヴァインはさ、面倒見がいいよ。あたしも何回も助けてもらったけど、でも恩着せがましいことは言わないんだ。あれ、爺さんが育てたっていうのならちゃんと成功してるだろ」
「爺さん……?」
伯爵は目を白黒させた。
引っかかるのはそこなのか。まあいい。
「爺さんにそういう面を見せないのなら、それは爺さんがガミガミうるさいからだ。どんなに怒鳴ってもいいけど、そこには気持ちがないと。相手を思いやる気持ちが根っこにあるかどうか、それは伝わるもんなんだから」
それを言ったら、伯爵は衝撃から立ち直ったようだった。キッとオーレリアを睨みつける。
「儂は、この由緒正しき伯爵家を――」
「大事なのは家じゃない。人だ。なあ、あんな優しいヤツがたった一人の家族のことが気にならないわけがないんだ。爺さんもさ、アーヴァインが寄りつかなくて寂しいからって拗ねたら駄目だ。来てほしかったらもっと可愛くしてないと」
兄が後ろで蒼白になってるのがわかった。それでも、言いたいことは言えたからオーレリアは満足だった。あとで父や兄が困るかもしれないが。
伯爵はカッとなって怒鳴り返すかに見えた。拳を振り上げ、プルプルと震えている。
感情が昂りすぎて血管が切れたらどうしようかと、今になってオーレリアは少し反省した。
「……偉そうに言ってごめん。でも、孫に面汚しとか言うのはよくないよ。そこは撤回してやりなよ」
オーレリアがしおらしくなったせいか、伯爵も振り上げた手をゆっくりと下ろした。フン、と鼻を鳴らすが、先ほどの勢いがなかった。
「あいつがわざわざ軍に入ったのも、儂と家にいるのが苦痛だからだ」
ボソ、とつぶやく。
「うん、だろうね」
そこはうなずくところではないかもしれないが、実際そうだと思う。毎日うるさく言われたのでは居心地が悪くて当然だ。
それなのに、伯爵は面と向かって言われて傷ついたのかもしれない。ひと回り縮んだような気がした。案外、打たれ弱い。
「じゃあ、次にアーヴァインと会う時には笑顔で迎え入れてやりなよ。あいつの方が仏頂面でいるかもしれないけど、あれってああいう顔が通常なんだろうな。そんなに笑わないし」
「昔からそうだ。両親を亡くした心の傷かと思っていたが、あれは性格だな」
「爺さんに似たんだよ、きっと。だってさ、似てるから喧嘩になるんだって」
アハハ、とオーレリアが笑うと、伯爵は複雑な面持ちで机をトントンと叩いた。
怒ってはいない。きっと、照れているだけだ。




