ひょんひょろ侍〖戦国編〗夢破れた家の顛末(6)
すっかり温くなってしまったうこぎ茶を、ひとくち啜った飯井槻は、このひょんひょろとの会談の核心部分にためらいなく踏み出した。
「左衛門尉には自裁を勧めよ」
中身が半分になった茶碗を茣蓙の上に据えながら、飯井槻はことも無げに云った。
《御意にござりまする。それで寿柱尼はいかがいたしましょう》
承ったひょんひょろは、今一人の処遇について伺いをたてた。
「捨て扶持を与え、どこぞ遠い国の尼寺にでも寄進し移り住んでもらえ」
《畏まりました。されば添谷側の奪還を警戒して船で海を渡らせ、きっと遠国に御送りいたしましょう》
今回の事件の主犯である【添谷左衛門尉元則】と、その祖母である【寿柱尼】への処罰が、まるで規定事項のような体裁さで淡々と二人の間で事務的に述べられ計られていく。
事実、翌朝には左衛門尉は季の松原城下の寺で自害し、更にその翌日には、危険なものは直ぐにでも取り除かなくてはならないとばかりに、寿柱尼を積んだ大船が夕闇に紛れて茅野家の管理する港を出帆。途中幾つかの港に不定期に立ち寄りつつ秋を稼ぎ、彼女の受け入れ先を見つけ次第、持参金を片手に金と毎年手に入る捨て扶持に目のくらんだ〝善意の尼寺〟に置かれた。
左衛門尉の自害した寺は、慶長の世では何処方の寺であったのか資料もなく判らず、その遺骸がどこに葬られたのかも判然とせず、また彼が書き残したはずの辞世の句も散逸してしまっており、その内容も知れないため、完全に歴史に埋もれた存在と化してしまっている。
寿柱尼もまた、結局どこの遠国の尼寺に引き取られたのか、こちらの行方も様として知られていない。
ただ、几帳面な茅野家の会計記録が『尼方、御御贈金』と記された書付が毎年十月ころに表れ、最後に書き記されたのがこの半ば流刑とも呼べる処置の年から数えて十二年目で終わっているところを見ると、寿柱尼はこの年かその前年に亡くなったと考えられている。
特に、最後の十二年目の年に彼女宛に差し出された金子の値は前年の四倍の金額である二百貫文であったことが判明していることから、これは、先ず間違いなく供養の宛行銭と見ることが出来るだろう。
その後も三回忌、七回忌、更には三百回忌に至るまで金子が供養費として在所不明の〝尼方〟なる寺に送られている事から、もはや茅野家にとっては行事費の一環として捉えられていたふしがあるくらいに定着した金であることが伺える。
これを飯井槻の、茅野家の慰みの念と見るかそうでないかは取り手次第といったところだが、少なくとも妙に律儀な家だったと無難な線を想像することが出来る。
無論。
此度の処置は、飯井槻は悪辣さや、取っても食えぬ性格を表すものではない事は事前に断っておきたい。
古今東西の【主君】という生き物は、多くの有象無象の配下や親族や同盟者を抱えている関係上、常ににこやかなる冷徹さを忘れてはならず、また、敵対者に関しても辛辣かつ温情さ見せつつ、自身の方が常に上位者だという態度を行動で示さなければならない、実に厄介な職業なのだ。
「それとのひょんひょろよ。戍亥と兵庫介、それに仲良しにならねばならぬ東の三家の御歴々と垂水をの、のちほどわらわの手元まで寄越してたもれ。ちと、添谷領を穏便に掠め取る話し合いを催したくての♪」
《御意にござりまする》
これにて、添谷家に対する仕置きは決定された。
あとは実行に移すだけである。
あくびをしながら未だ寛ぐ姿勢を変えない飯井槻を余所眼に、ひょんひょろはユラユラ立ち上がり、さっそく飯井槻と取り決めた添谷家の仕置に取り掛かろうとしたところ、
《そうそう、すっかり忘れておりました。御社さまと左衛門尉との一番の違いなのですが、しゃべっても宜しいですか?》
「ふししし♪やっとか♪ながかったの♪構わぬ申してみよ♪」
ずっと応えるのを勿体ぶっていたひょんひょろが、やっと口を開く気になったらしい。
「しての、その違いとはなんじゃ?」
《御自身のことを心底では信じてはいない謙虚な心根でございまするよ》
「あん?」
彼女の素に近い素っ頓狂な声を上げ飯井槻は、驚いた子猫のように眼をまん丸くさせてこう云った。
「ぬしの云うにはなにか?わらわは自信なき愚か者とでも云うのかの?」
頬をぷっくとさせて飯井槻は、ひょんひょろにコイツ♪っと抗議する。
《幼き砌の頃より、御社さまの性根は一向にお変わりありません。あなたさまは昔から日頃の喋り言葉以外、なんら変わってはおりませぬ。御無理をなされませぬよう願うしかござりませぬ》
「今のわらわは父上に似せた作り物じゃからの♪以前とは違う生き物じゃわ♪されど、矢張りぬしには敵わぬ。左様か、わらわは自信なきものか」
《で、ありますので、配下や役立つ者達を何くれとなく可愛がり、気を配ってあげねばなりませぬ。でなければ、深志弾正や壱岐守の二の舞を踏みましょう》
……そうせねば、神職にして名家の茅野家の当主などと云う大きな器物には到底なれぬか…か。
左様に飯井槻は云い、眉間にシワを寄せた。
茅野千舟という名の娘は父上のなさりようこそ至上と信じて、今日の【飯井槻】という器を出来上がらせている。
《畏れながら、それは六郎さまにこそ似合いの仕儀にてござりまする。御社さまには御社さまのなさりようがござりますれば》
「……わらわの、のう」
《さすれば時折は、素に戻られても様ございまするよ。なにより気が晴れまする》
「気が楽になるとなれば、それも良いのう♪」
ポンと、口を開け頬を和楽器の小鼓のように叩いて音を発して、昔のようにおどけて見せて。
「気概もなにもない。千舟にもどろ♪」
と、くだけた口調で云った。




