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ひょんひょろ侍〖戦国偏〗夢破れた家の顛末(3)

気付いたら零時を越えていました。


踏んでくださいm(__)m

「兵庫介の企んだは、噂だけかの?」


 飯井槻は、興味津々の爛々とした眼でひょんひょろに問い掛けた。


 その在り様は、数えで十七歳のうら若い少女のそれである。

 

《恐らく御社さまなればすでにお気付きでございましょう。兵庫介さまの狙いは古今の兵法書がくように敵方の混乱をいざなうような正しい判断を取ることをうしなわせることにございます。更には次々とあれよあれよと追い打ちをかけることによって混乱の極みに追い込み、そこを討つ。と云う手でございました》

「ふむふむ、なれば囲魏救趙かのう。あるいは孫子曰くところの【我会落入死亡之地(死地におとしいしか後生のちいく)】やも知れぬのう。なんにせよ、良くぞ短時日で思い付き成し得たものじゃ♪」

《あるいは置之死地(死地に追い込む)とも申しまする。使い方としては自身や味方をワザと死地に追い込み奮起をうながす際に用いられる手でありますが》

「まあの」

《御社さまの仰せられる点は察するに、味方はとっくに死地に追い込まれておりますので、逆にこれを敵に用いることで添谷家の気を削ぎに削ぎ、そこを突くことを御考えなのでしょう。実際に於いて兵庫介さまをはじめとした面々は互いに意思疎通いしそつうを大して行うことも無く、この困難な策略を成し遂げました。実に頼もしく、ありがたいことだと思っております》


 ひょんひょろはしたり顔で即興で思い付いた解釈かいしゃくを飯井槻に披露ひろうする。


 云われた飯井槻は飯井槻で、左様左様。見事であった♪と、満面の笑顔で言った。無論、これらは二人の仲を示す語りに過ぎず、当の飯井槻が事態の深刻さを肌で感じて逃げ、一時の身の置き所として季の松原の三の郭に入って立てこもったことは恥ずかしい事例として悔やみ、悔やんだ挙句にすっかり過去のものとしてとらえている。


 逆に、彼女の配下や東の三家、そしてなにより広い世間のあらゆる階層の者共らが、すべては飯井槻さまの手の内から出された策略だと捉え、見事な采配を振るったものだと感心しきりであるという【うわさ】であった。


 【噂】は、またたく間に日ノ本中の事情通に広がっていくことだろう。


 そして噂と云う名の情報は、いかなる時代もかけがえのない商品である。


 むろん情報には、大なり小なり尾ひれの付いた【噂】を伴うが、もしくは噂そのものが取引されるが、どちらにしても『面白い!』と感じ、そこに何かしらの利益(それが金銭的な利益ではなく、単なる興味本位であったとしても)が存在する限り、ありとあらゆる情報は大いに人々の喜怒哀楽きどあいらくつかさどって、今日こんにちまで人々の心身に響いて人生の狭間で浮き沈みしている。


 もちろん喜怒哀楽の楽しみ方にも色々ある。


 噂や情報を意図的に作り出したり、既にあるモノに手をほどこしてない混ぜにして自身の利益を生み出す者や、噂や情報にかき乱されて人生をあやまつ者、特に自身の人生に関係なさそうなので気軽に楽しむ者に、大体わかれる。


 つまり、兵庫介やひょんひょろは利益を進んで産み出した側に立ち、添谷そいやの左衛門尉さえもんのじょう寿柱尼じゅけいにと、未だ頭が幼い国主くにぬしさまはあやまてる側になった。


 そしてこの情報と噂に湧く此の国の住民と、これから愉快な噂とともに情報を楽しむであろう日ノ本の、平安の昔から続く連歌れんがを愛し入れ込むように情報や噂に眼がない数寄者共すきしゃどもが、自身の何かしらの欲求を満たすためにたしなみ、何かしらの用事に役立てるのだろう。


 そうして負けた側はほどなくして、その時代観を反映した話題性と人々の諧謔かいぎゃく具合ぐあいや与えた影響、それに知名度の過多によっては、この時代に存在した経歴や事績すらあやふやになり、やがてその後の歴史の表舞台から名すらろくに残らず、いつかどこかの誰かに再発見され調査されるまで世から消え去っていくのだろう。


 ゆえに、残念ながら此の国の守護職しゅごしきであった国主家にいて一番家老まで務めていた由緒ありげな家柄であるのに、この家の出自や、それどころか、どのような関係性でもって国主家に仕える次第になったのか、主だった家臣団にはどのような人たちがいてどのような仕事をこなしていたのか、よく解らない歴史に埋もれた一族となってしまっている。


 そんな、むなしい条件をほぼ満たしてしまっている添谷家は、そのうち、どこかの誰かに見つけ出されるまで上記のような待遇で過ごすだろう。国主家とて、やがては家臣である添谷家と同じ運命を辿たどるのかもしれない。


 それだけのことである。


 それだけのことながら、古今東西のいかなる国々の如何いかなる身分の人々に関わらず、誰しもが経験する身近なことがら、それでいて人々の生殺与奪せさいよだつの自由に関わる重大な事柄、【情報と噂】と云う一種の化け物を操る者こそが、この世の神であるのかもしれない。


 ……などと、つい人々が勘違いしてしまうほどには力を持って、これからも使い手を変えながら存在し続けるだろう。


 左様な情報と噂の力を主軸として駆使して、兵庫介とひょんひょろを中心とした茅野家家臣団は、誰に指図されたわけではなく意見を素早く好感して一致団結し、季の松原城内で事実上の軟禁状態に置かれている飯井槻救出を最優先に、敵である添谷家の当主とその祖母、ついでに国主様を捕えることに成功したのだ。


《兵庫介さまが私を介しまして利用した噂に関しましては、実衛門さねえもん(さね)さまをはじめとして参爺さま得能どの、東の三家の方々の手をお借りして、私が見出しました奇知左衛門どのを用いて惣仕上げをさせていただきました》

「ほう、ひょんひょろは兵庫介に助言を成したのかや?」

《いえ、いちいち御逢おあいして話し合う刻限もゆとりもございませんでしたので、他の皆様と同じく私が信じる手段を取っただけにございます。急がなければ御社さまの御命に係わる事柄でしたので》

「ほうほう♪」


 生来のくせであるひざをついっと立てる姿勢をとった飯井槻は、面白いゆえもっと話せとひょんひょろをき立てた。


 これを受けたひょんひょろは、表情がない無貌を見せつつ困ったように両手で、両手と呼んでよい物かは議論の余地があるが……。なんにせよ、その手らしきものを頭にわせコシコシと仕草しぐさをしてから、


《それから、新たに当家のしんに取り立てられた垂水たるみの源次郎げんじろうどのにも自発的にお手伝いいただきました》


といった。




~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・




【我会落入死亡之地(死地におとしいしか後生のちいく)】


 孫子そんし、九地偏にいわく。


 良く給与され統制統御された将兵を持つ軍は、たとえ指揮する将帥によって知らず知らずのうちに死地におもむきゅうする立場に意図的に連れて行かれたとしても、各員が各員生き残るために協力し合い、寧ろ重大な危機に陥ってこそ真価を発揮し、優れた将帥は自軍を自身の手足のように操ることが出来ることの意。



 前204年10月。【井陘せいけいの戦い】


 中国をはじめて統一した秦始皇帝の建国した大秦帝国は既に滅亡し、滅亡させた張本人であり楚国そこく項羽こううと、漢国の劉邦りゅうほうは大陸の覇権を巡って相争っていた。


 その狭間で漢に属しながら、独自行動を許され次々と秦滅亡後に成立したばかりの国々を潰しながら勢力を伸ばす武将【韓信】がいた。彼は次なる征服先として【趙国】に眼を向けた。この国は、かつて存在した【趙国】の王族の生き残りを立てて建てられた国であり、再興したての新興国ながらも豊かで、実に二十万人もの大軍勢を持つ大国でもあった。


 対する韓信軍の将兵はわずかに三万人に過ぎない。


 趙国に進発する前、韓信のあるじである劉邦からの指示によって、負け戦ばかりして自軍の将兵の数を減らすのに余念のない漢軍に自軍の兵が大量に引き抜かれたからだ。ここに奇策を用いなければならない必然が生まれた。もちろん当の韓信は、後世語りつくされることとなる自身の策を奇策などとはつゆほども想ってはいなかっただろう。


 彼の作戦術は【背水の陣】と呼ばれる。


 よく調べればわかる話だが、彼が編み出した策は至極まっとうなモノであった。丁寧に給与され良く鍛え上げられた彼の軍勢は彼の意のままに操れる精鋭であり、精鋭であるからこそ恐らく察するに、劉邦からの給兵の求めにも係わらず、新たに徴募された練兵途中の未熟な軍勢を派遣し、彼の手元には、数こそ三万人ながら精鋭中の精鋭が大切に残され、大軍を擁する趙軍とのいくさに自信をもって投入されたのだろう。


 故に主力軍は、危険を承知の上で谷間の隘路あいろである井陘せいけいを通りワザとすきを敵軍に見せつけながら、やがて当時の一般の兵法では禁忌きんきとされる河岸に陣を敷いた。


 通常であるならば山を背に河を前に布陣し、敵勢が渡河するなかばかしくは渡河に手間取る間隙を狙い襲い掛かるを吉としていた。おかげで趙軍は韓信軍を大いにあなどった。


 韓信はある理由でこれら、一見愚策ともとれる行動を自軍にいた。しかし趙国の大軍を目前にしても途中で逃げ出す将兵は皆無であった。


 そこに趙軍が、韓信の行った初戦での偽の敗退に慢心し、呼び寄せられるように全軍をあげて攻めかかった。これを韓信軍は急遽制作した河岸要塞に立て籠もり要撃した。


 いくら攻めても抜けぬ要塞の巧みな防御に辟易へきえきした趙軍は、休息を取るため趙王が住まう居城に引き返そうとした。だが城は、事前に韓信が間道伝いに放った別動隊によって占拠されていた。


 勝敗は此処ここに決した。


 数だのみの趙軍は前後に敵を受け、一挙に霧散むさんした。


 そしてはたから観れば愚策でしかない作戦術はすべて、韓信率いる本軍そのものに趙の耳目じもくを集約させる手段でしかなかったことが、彼の骨頂となった。

 

 戦略家でもなく、また戦術家でもなく、一個の傑出した作戦家であった彼にしてみれば、少数の軍勢で以て数に頼る大軍をいかに損害少なくして破るには、まさにこの手しかなかったのであろう。つまりは孫子が説くところの【敵を知り己を知れば百戦危うからず】をも実践させた、至極常識的で真っ当な作戦運用のたえを世に見せ付けたのが【井陘の戦い】の本質であった。


詰まるところ韓信は、趙国との情報戦を巧みに操り制したのだ。



 これに似たような言葉に、管子(戦国時代の斉国の宰相さいしょう菅仲かんちゅう?~前645)がいわところの【衣食足りて礼節を知る】という言葉がある。


『民は倉廩そうりんちてすなわち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱えいじょくを知ると申します。つまり人間という生き物は衣食住の不自由さが無くなって初めて礼儀に心を回す余裕ができ、名誉と恥辱ちじょくの違いやほまれとはずかしめとの差を肌で直に感じるようになるのです。さすれば大切な民が流浪せず盗賊にもならず、自ずと国は栄え、中夏ちゅうか(中華の原語とされる言葉。商(殷)王朝以前の王朝おうちょうの理念を持つ中原ちゅうげんの土地を表す)を容易たやすく手にするような国となりましょう。先ず、国を支える民の力を国を挙げて養うべきです。さすれば自然じねんと国はとみ、国軍を大いに養うことが出来、広く中国全土から富と名声を求めて有能な人材も集まるでしょうから』


 と、主君であり、のちに管仲の意見をよく聞き、これによって戦国覇者の一人に数えられることとなった【桓公かんこう】を説き伏せ、斉国を強大国にのし上げることに成功した。


これもまた、管仲が国と民を率先して富ませることで情報を操り、斉国にくれば欲しいものが働きや取引によって手にはいる。と、多くの人々の口を介して伝聞させた結果であっただろう。



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