ひょんひょろ侍〖戦国偏〗強襲(1)
ちゃんと土曜日にアップできた!
誉めて誉めて!
うそです。云ったからにはあげて当たり前ですよね、すいませんm(__)m
でわ♪
「かかれ!」
振るわれた竹枝のもと喚声を上げて千五百人の一団が山肌を伝い、眼下の敵に向かって吶喊を開始する。
正対する敵勢は、既に雨のように降り注いだ投石と矢で射竦められ、その陣形は絡まった糸くずのように大いに乱れている。
そして両軍は、真正面からぶつかった。
だが戦の決着は即座についた。
敵勢は最初の衝突の圧力にすら耐えきれず、あっという間に粉砕され踏みにじられて三々五々、数十人の遺骸を残して生き残りは一目散に逃げ散った。
「あつまれぇーい!!あつまれぇーい!!」
仮の軍奉行に兵庫介から任命された【紀四郎次郎久政】は、先の山名大炊勢との戦で千五百人まで減った軍勢の勝鬨の音声を程ほどにさせて、先程まで敵陣があった野原に於いて集めた軍勢の乱れた隊形を整頓させるために声をあげた。
「鎧袖一触…か」
彼は、高ぶった気を押さえる為に兜の庇に右手の甲を当てて押し上げて顔全体に風を当て戦の熱を冷ますと同時に、軍勢が駆け下りた丘に存在していた、添谷に与する土豪同士の領地境の監視を主な任務としていたとおぼしき砦の成れの果てを見上げて云った。
砦はもはや防備施設としての機能を完全に喪い。今はただ、番兵十数人の骸が転がる墓標となって燃えていた。
そして、この火焔に包まれる砦の異変に気付いた近在の添谷方の土豪が、おっとり刀で手持ちの軍勢を掻き集め駆けつけたところを、数に於いて大いにに勝る茅野勢が一瞬にして蹴散らせたのだ。
敵勢は百に満たぬ小勢であった。お陰でこちらの被害は無いも同然である。
「奴らは戦の前に物見を放ち、こちらの様子を伺い慎重になるべきであった。ならば…」
ならば、斯様な無残な敗北を喫せず、真昼間から亡骸をさらさずとも良いかったものを…。
四郎次郎は先程まで敵であった、まだ元服を終えたばかりとおぼしき美々しく化粧を施した若武者土豪と、その配下の将領らしき兜を被ったままの二つの初老武者の、白布に並べられた首級を床几に座して見詰めながら呟いた。
そして…。
「遺骸は丁重に扱い、陣僧を付けて一族に送りとどけよ」
と、即興の首実験を催した彼の近臣に申し付けた。
……若武者ゆえ、初陣に気負ったか…。
初めての戦に高揚し勇んだが故に、恐らくは御付の将領らが止めるのを聞かず大勢である我らに立ち向かい、自分自身も将領も雑兵まで巻き込んで軍勢もろとも命を霧散させたのだろう。
この様にまざまざと無残な姿を見せつけられては、流石に我ら一同の胆を冷やすには十分だった。
散々、飯井槻さま直々に御下命遊ばされた正規の軍奉行にして、茅野家主力軍の大将でもある神鹿兵庫介から口酸っぱく言い含められていた、『茅野の軍勢はさほど強いわけではない!山名との大戦に勝ったからと云って敵に奢るな!侮るな!此の戦の如何によっては飯井槻さまの御身は血にまみれる!お主らはそのこと肝に銘じて戦え!』と云う言葉と云われた意味を、我ら将兵一同は常に頭に浮かべて重々承知してはいる。
だが、いざ合戦に臨み、実際に小戦とはいえこうも楽々と勝ってしまうと、もしかしたら我ら茅野勢は天下で一番強き軍勢なのではないか?と、ついついそう妄想してしまうものだ。
もちろん。たかが総員千五百人の軍勢である。よほどのお調子者か、はたまた気宇がむやみやたらと壮大過ぎなければ正気は保っておられるだろう。
しかしながら。と、そう人間の気持ちは上手いことはいかぬものだ。その愚かさを此の者達は身を以て教えてくれた。
ふうっと、肺臓の中身をすべて外に出すようにして息を吐き気を溜めて、口取りから荷を積まれた愛馬の手綱を受け取った。
「名の知らぬ若武者と将領よ。其方らのお陰で我ら本心から目が覚め申した。礼を云う」
近くに転がる岩陰に運ばれて行く、首の無くなった遺骸と共に丹念に洗われ清められ、麻糸で首と胴を繫がれて、やがて懐かしい生家の城塞へと帰っていくだろう。
親類縁者の悲しみはいくばかりだろう……。
愛馬の顔をさすりながら四郎次郎は、やおら自分の胴丸の脇を盛んに叩いて腹に鋭い痛みを感じる事で、自分自身の気のゆるみを引き締めた。
兵庫介の言葉を忘れて驕るような自体に陥れば、我らは皆、この若武者らのような運命になるだろう。
「おいお前ら!戦に使えそうな物は皆拾えよ!地に刺さった鑓に矢に、置いてけぼりを喰らった刀に弓に添谷の軍旗も残らずだ!ぬかるなよ!」
茅野勢で三ノ備を預かっている将【紀又兵衛】が、荒々しい気性通りの高い声音を発して、配下に戦場に置き去りにされた武具や装具、果ては打ち捨てられた添谷の旗までをも拾わせている。
いくら茅野家が物持ちの家とはいえ、こうも山名家との戦を幾度か行って以来連戦が続くと、敗走した山名衆の置き土産から頂戴したとはいえ、いずれ武具や装具に兵粮の備蓄の底が見えはじめるのは必定。添谷家の領内で行軍を急ぎつつ、更にこれから先、望むと望まないに関わらず数々の戦を熟さなねばならないはず、そんな消費ばかりの前進をするのは武具兵糧の備蓄という点からも無謀というものであった。
だが、せねばならぬ。
たとえ一度戦で使った代物とはいえ、弓矢はなまなかには手には入らぬし、鎗に至っては、穂先が折れたり欠けたりと云った程度であれば、まだ何とか敵を払ったり叩いたりは一応こなせるが、鑓の柄が曲がっていたり折れていればもう、どうにもこうにも使い物にならないのだ。
なにより当り前の話だが、敵の騎乗の武者が突進してきた際に作る〝槍衾〟も形成できない。
そうなってしまった鎗が出てきている。今は蓄えがあるが、それも今後の戦次第ではどうなるかはわからない。
もしなくなれば、まともな戦は出来そうにない。
かく云う私も自前の鑓が先の山名との戦いの際に折れ曲がり、此度の戦では弓の弦もチビ切れてしまった。
ので仕方なく、我らは道を急ぐ身でありながら、敵の落としモノを百姓衆の追剥の如く有り難く頂戴して、添谷家を成敗する道具として使わせてもらうのだ。
だが我らとて、無駄の多い戦巡りを敵地でするつもりはない。
なので幾ら武具が転がっていようとも全部が全部を持っていこうとは思っていない。
荷を重くすれば動きが鈍くなる。なにより今我らは小荷駄隊も最小限の人数しか連れていない。ゆえに武者といえど荷を担ぐ、それ故に担ぐ品が多くては走ることも面倒になる。
よって出来得るならば、道草するのは極力避けて…と、左様致したいものだが。そう易々と問屋は品を卸してくれぬだろうからなあ。
四郎次郎は拾った武具を載せた愛馬の背を撫でながら天を仰ぎ、額に溜まり頬を伝う汗を手拭で拭ったのだった。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
『…案ずるな四郎次郎よ。儂は戦のことに関してならば自賛ながら自信がある。恐らく、添谷家は季の松原の確保に注視しているであろう。なにせ飯井槻さまも国主家の坊ちゃんも手中に収められる滅多にない好機だからな。となれば、当然、添谷の領地に残された兵は少ない筈だ。なにせ奴らは、飯井槻さまに成り代わり此の国を手中に収めんとする大博打になけなしの全財産をつぎ込んでおるのだからな』
兵庫介は添谷家が既に若い国主様を篭絡済みであることも、かなり以前から周到に手を打ち、此の国の権勢を握ろうと策を巡らせていたことを当然ながら知らない。
知らないながらも優秀な軍人としての“感”が、多分こうであろうと彼の頭脳に告げていたのだ。
そしてその直感は、あながち間違ったものではなかった。
政の才は人並みの此の男は、作事普請と開拓事業、そして何より軍事に限って言えば此の国きっての逸材であった。
「……」
四郎次郎は沈黙する。云われてみれば確かにそのように感じるのだが、それを確かめる手段が彼にはなかったからだ。
『それにな四郎次郎殿よ、今になって考えてみればな、もしかすれば山名との戦、あれは添谷左衛門尉が仕組んだ罠ではないかと儂は疑っておるのだ』
「奴めは飯井槻さまを御城に閉じ込めただけでは飽き足らず、山名をけしかけたとお考えでござるか?」
となれば、もはやただ事ではない。
我ら茅野家が、飯井槻さまが行った下剋上による此の国の世直しの手始めは、添谷家が企む別の下剋上の謀にまんまと乗っ取られただけではないか。
『なに、儂は一個の軍人ゆえに考える行先もたかが知れておるのだがな。バカな話を云うと思って聞いてくれ』
そう兵庫介は断った上で、ふたたび口を開いた。
『唐の兵法にな、【声東撃西】と【囲魏救趙】という手管があるのだ。どちらも敵を攪乱し奔走させて疲れさせ、いわば東奔西走させた上で討つ手段なのだがな。つまりだ、この策を用いれば、我ら飯井槻さまの軍勢を季の松原から遠くへ引き離すこともできるのだ。つまりな、彼の国の山名本家を添谷家がけしかけ我らに戦を仕掛けさせれば、上手くすれば我が茅野の軍勢を手を汚すことなく破ることも出来得るのだ。どうだ?悪くない仕組みではないか?』
当然。
凡ては兵庫介の予測。いや、妄想とも呼んでも構わない戯言だが、考えてみれば確かに辻褄が合うのではないかと、四郎次郎は思った。
しかし、この話が本当かどうか。という詮索よりも彼には為さねばならない事柄がある。
【囲魏救趙】
古代中国は戦国時代。魏将【龐涓】は恵公からの主命によって趙国を攻め、その首都【邯鄲】を囲んだ。これに対し趙国から救援を求められた斉国は将として【田忌】を、そしてのちに【孫臏兵法】を著す名軍師【孫臏】を派遣。これにより旧知の間柄で因縁深かった龐涓と孫臏は初対決を行う事となる。孫臏の献策を受けた田忌が大軍を擁する魏軍と直接対決せずに敢えて魏国に逆侵攻。この事実を本国から知らされた龐涓は趙国侵略を諦め魏本国へと引き返す。だが、強行軍を行い疲弊して隙を生じた魏軍の虚を突き突如として斉軍が襲い掛かり、あえなく魏軍は大敗を喫して趙国は救われた。この戦いを【桂陵の戦い】と云い、この故事が【囲魏救趙】の謂れとなったのである。
ちなみに龐涓と孫臏との因縁はその後も続き、上記の戦いから十三年後。今度は魏・趙とともに三晋の一国であった韓国を魏が攻めた【馬陵の戦い】によって、同じく韓を救うために魏国を攻めた斉を残して置いた本国軍と挟み撃ちにせんと企んだ龐涓の策略を読み、これを逆手に取った孫臏の計に嵌り、【龐涓死於此樹乃下】〝龐涓、この樹の下にて死す〟と孫臏によって書かれた大樹の下。その言葉通り伏撃した斉軍弓兵の万箭によって自軍は壊滅。絶望した龐涓は『むざむざ儒子《孫臏》に名を成さしめて死ぬのか!』と叫び、降り注ぐ弓矢の雨の中で自害して果てた。
【声東撃西】
敵を撃たんと欲すれば、その敵を無駄に奔走させ統制を喪わせ疲弊させることを上策とする戦術論。
兵庫介は二つの事例を重ね合わせたうえで例えに出し、此度の一件を添谷左衛門尉の企みではないかと勘繰ったのである。
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
「御大将!(仮)陣容、整ってござる!」
「良し!直ちに出立!!」
「「「「応!!!!」」」」
やってやる!!左衛門尉めの帰る城も領地も根こそぎ奪い、そっ首もはねてやるぞ!!
そう言った物騒な雄たけびを上げて茅野の、あとにも先にもこれ一つっきりの【主力軍】は、まるで疲れを知らぬ水車のように早足で飛ぶように前進を開始した。
『四郎次郎よ、儂は同じ手を戦で続けて使うのを良しとはせぬが、あえてここは左衛門尉への意趣返しとするか♪』
左様、兵庫介殿が述べられ提示された策は【囲魏救趙】であった。
それは兵庫介が茅野領に攻め込んだ山名勢を、自身の領内に差し戻す為に用いた策でもあった。
そして、左衛門尉が飯井槻さまを嵌める為に執ったであろうと兵庫介が予測した、あくどい手管でもある。
「しかし、深志が拵えたこの“絵図面”が役に立つ日が斯様に早くこようとは…」
愛馬の手綱を引きつつ駆ける四郎次郎は、となりで自分の荷を携える行李持ちから手渡された巻物の端を開き、器用に左手で巻き戻しながら読み進んでいく。
この巻物は、此の国のほぼ全域の地形が緻密に描かれた絵図で、以前、健在であったころの深志家が国主家に反旗を翻すものが出た場合に備え作られた、所謂【深志四条文】と巷で呼ばれた法規に則って編纂された此の国の“兵要地誌”であった。
即ち、統治上・軍事上必要な地形や道の繋がり、海岸や河川の様子などを絵で解りやすく書き記した地図である。
その写しを兵庫介からもらい受けていた四郎次郎は巻物から顔をあげると、これより茅野勢が急襲すべき添谷家の本拠地【仙峯山城】に繋がる隠れ道に、遠く物見を続けざまに放ちつつ、竹枝を振るって先手衆に行くべき先を指し示した。




