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ひょんひょろ侍【戦国編】重なっていく策謀(6)

ふぅー。


飯井槻は御殿の隅にある自室に入るや、ゆるい息を長めに吐いた。


「お疲れ様に御座いました飯井槻さま。お茶、お飲みになりますか?」

「飯井槻さま。干餅御焼きになりますか?お腹すいてませんか?御顔の色が悪いですよ」


飯井槻さま付きの侍女であるたまふみが、それぞれ手に茶碗と干餅を持ち、あるじである彼女の左右に座り、出来るだけ明るい声でささやくように尋ねた。


「ふふふ。いつもすまぬの♪では、茶なり頂いて、そのあとに焼餅を喰うとするかの♪」


飯井槻は小刻みにかすかに震える右手を左手で覆い袖で隠している。


蒼泉殿での寿柱尼との会見のおりから、ずっとこうであった。


そして、あの矢倉にのぼり眼下に納めた光景を思い出すにつれ、手の震えは嫌がおうにも増していった。


なんじゃこれは?


自身の、予想を超えた規模の軍勢に十重二重に御殿が包囲され、取り囲んだ添谷の将兵どもはまるで網の中で揺蕩たねたう小魚の群れを見つめる漁民たちのように此方に背を向けながら虎視眈々と、いつすくい上げてやろうかと手ぐすね引いてほくそ笑みながら待ち受けている様な、得も言われぬ気持ち悪さと威圧感を全身に浴びた飯井槻は、もう一時たりとも矢倉に留まる事すら嫌になり、茅野家では神鹿兵庫介に並ぶ、…かもしれぬ武勇の者【鎗田伊蔵】が奴らしからぬ落ち着きのなさを見て可愛そうになって、ついつい口から在らぬ出まかせを言って、その言葉にもいたたまれなくなり矢倉から逃げるように立ち去ったのだ。



…あの、戦上手で鳴らす伊蔵ですら、茅野家誕生以来初の危機的現状をひっくり返す策を思い付かぬ様子であるのに、わらわのような戦のイロハもよく理解できぬ者にはこれしか、こんなホラ話しか伊蔵を気分的にでも安堵させる方法しか、根拠に薄い慰めの言葉しか置いていくしかなかったのじゃ。



あの小賢しき添谷に、あんな噂をまことしやかに広く世間に伝搬されては、わらわとしても打つ手がないのじゃ……。



意趣返し。



深志家を叩き潰す為に飯井槻が密やかに流し続けた【深志家は国主様をたぶらかし、此の国を乗っ取るため下剋上を企んでいる】という噂を元に、父の代から三十年。延々と謀り続けてきた茅野氏の下剋上への旅路は、いまや風前の灯火にならんとしている。


わらわが甘かった。朝廷に幕府に都を牛耳る寺社の有力者に根回しして取り付けた承知のもとに、此の国の事実上の主たらんと目論んだ計算は、ただ一つの失敗、添谷家の無能がまやかしであったことによって崩れ去らんとしておるのじゃ。


飯井槻はそう口の中で呟き、その嘆きを誰にも、仲の良い侍女二人にも聞かせぬよう取りだした大扇で顔を包みこんだ。


「どうかなされましたか飯井槻さま?」

「急に御顔を御隠しになられまして如何なされました。あっ!もしや。またおもしろい悪戯でも考えつかれましたか?」


侍女二人は飯井槻に笑い掛けながら問うた。


飯井槻が、ことさら大事な折に顔を大扇で隠してしまうのは、自身の表情や目の動きを相手方にさらさない、一切見せないという行動をしていた。


わけではなかった。


単に、手の震えを止めるには何かを握っていれば収まることを経験上知っていて、そうすることによって、思わず逃げ出してしまいそうになる自分を制御していただけだった。



だが、此度はさすがに矢も楯もたまらず逃げてしまった。


逃げる先に季の松原城内の三の郭を選んだのは、この地なれば茅野の息がかかっておる土地であるし、城内の茅野館も程近く、また國分川をはさんだ対岸には此の国随一の要害【新町屋城】があり駐屯する茅野勢が籠っていたからだ。


表に出れば群狼渦巻く世じゃ。出れば、すべてを喪う。


飯井槻の、持って生まれた天性の感が、もしくは香弥乃大宮の神の御心が、そう危険を彼女に告げていた。


そしてなによりも、あの大広間の場では、自身の根本の劣勢を挽回する方策を何も思い付けなかったのもあった。


出郭に連れてきた将兵達を皆、いざと云う時の為あらかじめ先に三の郭に行かせたのも、この為であった。


……つまるところ彼女は、親である【茅野かやのの六郎ろくろう寿建ひさたけ】がそうであったように、元来はかなり臆病な性格だったのだ。


「兵庫介はどこにおるのかの」


何とはなしに、ふと。御殿に閉じこもってから行方が知れぬ、知る手段すら絶たれた茅野家一番の忠儀の武将の名を口にした飯井槻は、侍女二人によって配膳された温かく濃い緑色みどりいろの泡立つ抹茶と、ちょっぴり潮の味がする焼きたてで砲橋い匂いをあたりに振りまく干餅をひとしきり眺め、そしてまた、ふぅーー。っと、息を吐いて気持ちを整えてから茶を一口含み餅の端をかじり、昔、自分が幼いころ父と話した思い出に浸っていく、自身の置かれた危機から逃れるには最早、それしかなかったと云っていい。







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