ひょんひょろ侍【戦国編】重なる策謀(6)
ここで一旦話を茅野領内に向けて行軍中の兵庫介に手紙が舞い込んだ時分から、およそ一日半ほど前まで刻を戻した【蒼泉殿】に眼を移すこととする。
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…結局、半刻(約一時間)ものあいだ飯井槻は、季の松原城内に設置された豪奢な迎賓館であり現在の国主様がお住まいでもある蒼泉殿の内部を東西に走る長廊下、つまり、やたらめったら縦に長い大広間において鎗田伊蔵以下の配下共々長らく待ちぼうけを喰らわされている。
理由は、新たな国主さまが一向にその姿を現さないからだ。
そんな境遇の中、鎗田伊蔵が、とっくに平伏して待つのに飽きた飯井槻から後ろ手にユラユラ指を動かす妙な手招きで呼ばれ、ついっと音もなくその背後に近付き腰を下ろしたところだ。
「伊蔵どうじゃ?」
「騒がしくござる」
「左様か?わらわにはとんと外の声音なぞ聞こえぬが」
「間違いござらぬ」
「人数は?」
「武者を含め、百人は下らず」
「ふししし。左様か、面白いの♪」
飯井槻の、未だ幼い少女のような若々しい色香漂う姿態の後ろに寄り沿って伊蔵は、自身の耳で聞き取った殿舎の周囲の様相を「騒がしい」と小声で伝え、これを受けた飯井槻は、いつもの含み笑いをひとつして大層面白がり、小さく右手を身体に沿わせ扇ぐようにうしろに幾度かぷらぷら振って、伊蔵に傍から下がるよう促した。
すっ。
伊蔵は衣擦れの音をほとんど発することなく、滑るように飯井槻の背後から退いた。
「誠にござりますか、先ほどの御話」
「なんだ、聞いておられたのか」
「しかと。わたくしは未だ連雀商人の血を抜いた覚えはございません。その所為か人の噂話や小言、それに隠し事には目がありませぬ」
「隠すつもりはハナからない」
「して、どうなさる御積りで?こちらの人数は余りに少なうございまするぞ」
云われるまでもないこと。御社(飯井槻)さまの警固の人数は、某と羅乃丞を入れても十指にも満たない。
だがそれもこれも、御社さまが進んで望まれたこと。かの狭き郭に座所を定められたのも御社さまなのだ。
「どうするもこうするも…。こうするしかあるまい」
やおら伊蔵は立ち上がり、
「小用を…」
と言って、見張りなのか蒼泉殿に入る前からずっと、飯井槻らの傍に付いて離れない国主家の老いた侍と若い侍の二人のうちの老いた方に声をかけ、彼の了承を得たのちに、若い侍が案内と称して伊蔵にあとに付いてくるよう促した。
「あい、すみませぬ」
此の国の守護職家である国主家からみて、陪臣の陪臣である伊蔵は、身分相応に丁寧で慇懃で畏まった辞義をして、すなおに彼のうしろに付き従った。
長い大広間から出た伊蔵は、出た瞬間から自身の耳目に気を集中させる。
しばらく歩み、蒼泉殿の使用人が使う区画に足を踏み入れ、やがて壮麗な庭園が矢竹の狭間から微かに臨める縁側の板敷きの上にやって来た。
「なにか変だ」
伊蔵が大広間を出立してからこっち、殿舎の周囲から人のさざめく雑音が、まるで引き波のように消えたのだ。
しかしながら、人の気配はそこここに僅かながら感じた。
「…どうなされた」
伊蔵の小声を聞いた若侍が振り返り、不思議そうな表情をして問いただす。
「いやはや、厠までまだ遠うございまするか?さすがに斯様に遠くては、ちと某も困り申しまして…その…」
すると若侍は、そんな事かと苦笑しながら振り返り、
「…左様、遠いと云えば祇園精舎より遠く、近いと云えば泉下は尚のこと近かろう……」
若侍の発する判じものじみた言葉が、終わるか終わらぬかの刹那。
伊蔵の立つ縁側の板の隙間から、白刃まばゆい鑓が二本突き出された。




