ひょんひょろ侍【戦国編】重なる策謀(4)
飯井槻さまはとある御殿の、筋目美しき板間でずっと平伏している。
生半には見られない光景である。
左様感慨深げに彼女の後方、行でならば十数歩離れたやや左手側の柱の傍で同じく平伏している伊蔵は、この気ままでわがままで、しかし面白き事なれば我を忘れて取り組んでしまう美しい女性の、その祝勝に折られた丸っこい背なを望み、なにやら腹の底から可笑しみが沸き起こってしまい、身体が知らず知らずに小刻みに震え抑え込めないでいた。
「伊蔵殿…」
周りには聞こえないくらいのくぐもった声音を用い、伊蔵の右後方で同様に平伏している羅乃丞が、不穏な動きを見せる伊蔵を窘めてきた。
すまぬ。
優秀な武人である伊蔵はみだりに声を発したりはしない。ただ、申し訳ない気持ちを表すために躰を少しだけゆすって謝辞の意思を羅乃丞に示してみせた。
そしてそのお陰か、なぜだか唐突に腹の中から可笑しみが失せた。
助かる。
伊蔵は再び飯井槻さまの動向を注視しつつ、更にはこの御殿の、季の松原城の郭の一つを構成する茅野屋敷の規模とは比較にならぬ広大な敷地の周囲に何者かが潜んではいないか、五感を研ぎ澄ませながら辺りを窺う作業に没頭することが出来るようになった。
そうここは、此の国の守護職【国主家】が現在の居館。通称【蒼泉殿】であった。
即ちつい最近まで此の国を訪れる貴族や幕府要人など貴人、位の高い僧侶や他国からの使者などをもてなしていた迎賓館だった場所なのである。
つまり、かつてこの場所で、このやたらと南北に長い大広間(実は横幅が広い長廊下)でズリズリと、膝を屈したまま前の国主家三番家老だった【深志弾正少弼貞春】の真ん前まで座したまま這いずっていって膝や脛に甚大な擦り傷の損傷を負わされたところに、飯井槻さま以下の茅野家の主従が畏まって平伏して、とある人物の御登場を待って居る図式となっているのだ。
待って居るのは、他でもない新たな【国主様】。
先日、数えで十二の齢でありながら元服の儀を執り行い、これまた新たに選出された三家老の見守る中、国主家の当主となった御仁。
【国主松五郎】改め、飯井槻さまが京に上り幕府を通じて朝廷に奏上し貰い受けた【肥後守】の官名を名乗り、以後、【国主肥後守】と云いあらわされるようになり、ついで此の国の主である守護職にも任じられる運びとなった。
飯井槻さまは、この工作を行うため急ぎ上京し、正式な国主家の、ひいては此の国の守護職に【国主松五郎君】を推戴するために、大いに立ち働いていたのだ。
…むろんそれは表向きにはそうであった……。であるのは、先に述べた話の通りである。
飯井槻は実際には、此の国の実権と支配権を自分の手元に引き寄せるのに国主家の立場を利用して確実足らしめんとしている。
であるのに、肝心の新・国主の坊ちゃんは未だその姿を表そうとはしない。
既に飯井槻がこの場に座し平伏してから、四半刻(三十分)の時間が経とうとしているのにである。




