2-3
「次の満月の夜、『陽光のかけら』を頂戴しに参ります」
怪盗リュミエールの新しい予告状が仕立て屋「プール・トゥジュール」に届いたことを新聞が伝えた頃、リュシアンは下準備があると言い、屋根裏部屋にはほとんど帰らなくなった。
あの言い合いのせい……だけではないと、ミシェルは考えている。下準備があるというのは本当だろうし、そもそも彼は普段から落ち着きのない人で、急に姿が見えなくなったと思うと、二、三日後にふらっと戻ってきてソファーで雑魚寝をしていたりする。
正直、いつミシェルの前からいなくなってしまってもおかしくない。
「…………」
新聞売りの呼び込みの声が響く朝の大通り。
新聞売りの周りには、怪盗の新たな予告に心躍らせる人々が人垣を作っている。その人垣の中でミシェルは、努めて無心で新聞を畳むと、いつもの通り頭に巻いたスカーフで顔を隠してその場を離れようとした。
その時。
「――また、怪盗リュミエールが現れるようだな」
「そうみたいですね……って!?」
その耳元にいつかのように声が掛かり、ミシェルもまたいつかのように無意識に言葉を返してから、その声が聞き覚えのあるものだと気がついた。
「えっ……?」
慌ててそちらを振り返ると、案の定そこにはあの眼鏡を掛けた銀髪の青年の姿がある。
ただの一度きりの邂逅ならば、偶然と捉えてもよかっただろう。ひしめき合う人混みの中から、偶然、世間話の相手としてミシェルのことを選んだ。
しかし、二回目となるとそうもいかない。
本能的な危機感が背骨を貫く。
「あ……あの、失礼しますっ!」
その危機感に従い、青年に背を向けると、ミシェルは一目散に逃げ出そうとした。
だが、次に青年の口から飛び出して来た言葉に思わず足が止まる。
「待ってくれ――ミシェル!」
ミシェルは耳を疑った。
「貴女が、ミシェルだろう。仕立て屋『ソレイユ』の次女で、あの『ソレイユ事件』のただ一人の行方不明者にして、生き残りの」
どうして、わたしのことを!?
記憶にはない顔だが、やっぱり彼らの仲間だったのだろうか? だとすれば、この人はわたしを殺すために近づいてきた? でも、だったら、わざわざこんな目撃者が多い人混みで接触してくる必要は? 現に唐突に大声を上げた青年に、近くにいた人たちがちらちらと視線を送っている。
ミシェルが混乱に足を取られて身動きが取れなくなっている間に、青年はミシェルに近づいてくるとおもむろにその手を掴んだ。そのまま人垣の外へと連れ出そうとする。
「い、いやっ……!」
ミシェルが振り払おうとする手を青年は逆に一層強く掴むと、ミシェルの身体ごとぐっ、と引き寄せた。
「心配しないでいい。私は、パリ警視庁の警部で、コランタンと言う。貴女に危害を加える気はない」
「け、けいさつ!?」
ぐんと近くなった眼鏡の下、冷たい氷を思わせる青い瞳が、ミシェルをまっすぐに射抜く。
「そうだ。――私は、貴女を救いたい」
「……へ?」
それは、あまりにも唐突で、ミシェルにとって思いもよらない言葉だった。
救うって、どういうこと?
コランタンと名乗った青年は、あのままミシェルを人垣から引きずり出した。
その後、どういうわけだか二人は、気づけば街角のとあるカフェのオープンテラスで向かい合って座っている。
テーブルの上で湯気を立てるコーヒーカップにはお互いに口をつけない。ミシェルは横目で相手を観察した。
リュシアンが男性的な美丈夫だとすれば、コランタンというこの男は、女性的な美男子だ。硝子細工のように繊細な顔のつくりに、髭も生えないような白い肌。女さえ羨むような美貌を、眼鏡の下に押し隠している。
その眼鏡の下の青い瞳が、ミシェルを捉えた。
「……私の顔に、何か問題があるか?」
「……いえ」
そんな睨み合いにも似た無言の探り合いの後、話を切り出したのはコランタンだった。
「私は警察官として、罪を犯した人間は、正しく法で裁かれ、相応の罰を受けなければいけないと考えている」
「……それは、ご立派な考えですね。けど、この世には、あなたたちの手のひらをすり抜けてのうのうと暮らしている悪人が、まだたくさんいるんじゃないですか?」
ミシェルは警察官という人種を、正直あまり良く思っていない。
もちろん、ミシェルの今の立場が、彼らが追っている怪盗リュミエールの共犯者であるということも一因ではある。
だがなにより、彼らはミシェルの実家で起こった「ソレイユ事件」の真実を暴けなかったどころか、同業者たちが画策した「揉み消し」に加担した可能性が高いのだ。好きになれという方が難しいだろう。
「それは、確かにそうだ」
だが、コランタンが次に口にした言葉は、ミシェルの心をそれでも大きく動揺させた。
「――だからこそ私は今、『ソレイユ事件』に隠された真実を再び世間に問うことが出来ないかと考えて行動している」
「えっ……?」
コランタンが、ミシェルをまっすぐに見つめる。
「ミシェル、このことは貴女が一番よくわかっているはずだ。――『ソレイユ事件』は、あまりにも不自然な形で『終わらせられた』。そこに何者かの画策があったことも、その一件に警察――おそらく上層部の誰かが関わっているであろうことも、私の調査では分かって来ている」
コランタンの言葉に、ミシェルは息が止まる思いがした。コランタンはそんなミシェルの表情を見て、確信を得たようにうなずく。
「今はまだ仮定の域を出ない。だが、もっと証拠を集めて、『ソレイユ事件』にはまだ解明されていない謎と真犯人が隠されていることを世の中に知らしめれば、一度打ち切られた調査を再び始めることだって出来るだろう」
それから、コランタンは右手を――いつかリュシアンがミシェルにしたのと同じように――こちらに差し出した。
「そのためには、事件の生き残りである貴女の証言がどうしても必要なんだ。――だからミシェル、私に協力してくれないか。私には、あなたの失った全てのものを取り返す力がある」
その手は、ミシェルにとって間違いなく福音だった。
警察官であるコランタンの後ろ盾があれば、ミシェルの証言で同業者たちの悪行を明るみにして、彼らに罪を償わせることができるし、それは家族や従業員たちの仇を取ることにもなる。
そしてなにより、今みたいにほとんど屋根裏部屋に引きこもりっぱなしの生活ではなく、元の「お嬢様」は無理でも、人目を気にせず外に出て働いたり、遊んだりできるような普通の女の子には戻ることができるのだ。
しかしコランタンと手を組むということは同時に、リュシアンとの関係を反故にするということでもあった。
いつミシェルの前から消えてしまうか知れないリュシアンではあるが、だからと言ってミシェルの方から去ろうというのはあまりにも薄情だし、これまでの恩だってある。
それに、コランタンだって、本当に信用に足る人物かは定かではない。確かに「ソレイユ事件」の揉み消しに関わったのは上層部で、末端の警察官である彼には関係のないことなのかもしれないが、それでも、同じ組織の人間だ。
だからミシェルは――けれど確かに後ろ髪を引かれながら――台詞を読み上げるように言った。
「……人違いを、なさってるんじゃありませんか? わたしはただのお針子です。『ソレイユ事件』のことは、大学に通っている彼から聞いたことがありますけど、あなたの言っていることは、なにがなんだか……」
「……ふむ」
そうやって目を伏せるミシェルを、コランタンはしばらく推し量るよう眺めていた。それからコーヒーを一口啜り、考えをまとめるように目を閉じる。
「そうか、わかった」
短い黙考の後、コランタンは瞼を持ち上げ、席を立った。
「……そ、そうですか」
どうやら彼はこちらの言い分を受け入れてくれたようだ。思わず安堵の息が漏れるが、そこに隠しきれないささやかな落胆が混ざっていたことに、ミシェルは自分で気づいていた。
だが、コランタンが次に口にした言葉は、そんな些細な自己矛盾など完全に吹き飛ばす。
「ならば仕方がない。――私は怪盗リュミエールを、殺す」
「――――!?」
ミシェルはあともう少しで、悲鳴を上げてしまうところだった。
「か、怪盗リュミエールと『ソレイユ事件』に、一体なんの関係が?」
ミシェルは咄嗟にしらばっくれようとするが、コランタンはどうやらすでに全てを見透かしている様子だ。
「仕立て屋で起こった『ソレイユ事件』のすぐ後に、仕立て屋ばかりを狙う怪盗リュミエールが現れたんだ。その二つには何らかの因果関係があると考えるのが自然だし、だとすれば『ソレイユ事件』に因縁のある貴女が、怪盗リュミエールと繋がっている可能性が高い」
それからミシェルに誇示するように、フロッグコートの内ポケットからなにかをちらつかせる。
銀色に光る、細い柄。
投げナイフだ。
「貴女にとって怪盗リュミエールが足かせになるのなら、私は奴を殺す。この間はもともと抑止力のつもりだった。……だが、次は容赦しない」
ミシェルは反射的に理解した。リュシアンが言っていた「ナイフの腕が立つ警官」とはこのコランタンのことだったのだ。
ごくり、と無意識に唾を飲む。
つまり、コランタンには本当に、怪盗リュミエール――リュシアンを殺してしまえるだけの腕前を持っているのだ。
ミシェルは縋るようにコランタンを見上げる。
「それでは、私はこれで失礼する」
だが、ミシェルのその視線から逃れるように、コランタンはそっけなく背を向けた。
「……卑怯者だと詰ってくれてもいい。だが、先程も言った通り、私は貴女を救いたいんだ。そのためにはどんな手だって使う――貴女には、こちら側の世界でもう一度、幸せになる権利があるんだ」
背中を向けたままそんな言葉だけを残し、彼は雑踏の中へ消えて行った。
☆
怪盗リュミエールを殺す。
コランタンは確かにそう言った。
それはつまり、リュシアンが死ぬということだ。
だが、不思議と驚きはなかった。リュシアンはあんな人だから、いつかはそうなってしまう気がしていたのだ。
流れ星のように現れて、一瞬だけぱあっと激しく輝き、消えていく。
そしてミシェルは――自分でも恐ろしいことに――もうそれでいいような気がしていた。
リュシアンは、怪盗リュミエールを辞めるなら死んだ方がマシだと言った。だとすれば、自分の意思を貫き通して死ぬのだ、それはそれで幸せなのではないか。
だって、そうなれば、ミシェルは普通の女の子に戻れるのだ。
「…………」
そのはずなのに。
胸の中にはいつもの黒いもやもやが湧き上がってきて、ミシェルは一人っきりの屋根裏部屋に戻ると、その息苦しさから目を逸らすため、ただ、目の前の針仕事に没頭した。




