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2-2



「ミミ、見てごらん」


 それはミシェルがいくつの時だったか。ある時、父親がまだ小さなミシェルの前に、どこか自慢げな仕草で小振りな化粧箱を差し出してきたことがあった。


「金細工の職人に特別に作らせたんだ。うちの店の名前である太陽ソレイユをモチーフにしている。どうだ、綺麗だろう」


 箱を開くと、そこには敷き詰められた真っ白な真綿に守られるように、数個の金のボタンが鎮座していた。太陽をモチーフにしたレリーフに透かし模様を組み合わせ、ところどころ小さな宝石までもが埋め込まれている。


 それは父親が言う通りとてつもなく美しく綺麗で、けれど同時にミシェルの胸に例のもやもやを湧き上がらせるものだった。

 ミシェルはにこにこと満足げな父親に、どうやって自分の感情を伝えればいいのか迷いながらも尋ねた。


「……お父さま、これは本当に必要なものなのかしら?」

「本当に必要? どういうことだい、ミミ?」

「だって、こんなに豪華なボタン、高いに決まっているわ。買ってくれるお客さまなんて、本当にいるのかしら? この間どこかから無理を言って仕入れてもらったっていう布だって……」


「――ミミ」


 今にも涙声に変わりそうなミシェルの言葉を、父親はミシェルの頭に大きな手のひらを乗せて遮った。

 それから、ミシェルの目を覗き込んで、優しい声で言う。


「いいかい、人はみんな、何かすごいものでありたがるものなんだ。そして、そのためには、着飾るってことは、すごく意味のあることでね。例えば外出用のおめかし着を着ると、自分が普段よりずっと上品になった気がして、すっと背筋が伸びることがないかい? そうやって自信がつくと、なんだってできるような気持ちになれるし、実際にできてしまったりもする。うちの店にはそうやって、自分の持っている以上の力を出さなきゃいけないお客様がたくさんみえるんだ。そういうお客様のためにも、こういう一級品を扱わなければいけない。わかるかな?」


「…………」

 それは建前であると、ミシェルは当時からちゃんと気づいていた。


 すごいものでありたいのは、本当は父親自身だということを。


 だから、こういう見るからに一級品であるものを扱うことで、自身が、そして自身の店がいかに立派なのか――手段はともかく、一代でここまで店を大きくし、どれだけの栄華を極めているか――をみなに知らしめ、同時に噛み締めているだけなのだ。


 だが、「お嬢様」として育てられたミシェルには、男の人である父親の言うことを強く否定するのはなんだかはしたないことに思えて、

「……本当に?」

 やや疑わしげに父親の顔を見上げることしか出来なかった。


 ミシェルの心の機微など、父親にはわからない。だから、父親は勢いだけで娘を丸めこもうとする。


「本当だとも! さあ、ミシェル、手に取ってもっとよく見てごらん?」

「え、ええ……」


 父親に促されるままにおずおずと伸ばした手が、本物の太陽のようにぎらぎらと金色の光を放つボタンの表面に触れた瞬間。


 ぼっ、と。

 ミシェルの指先とボタンの接点で、火打ち石を打ったように火の粉が舞った。


 かと思うと、それはあっという間に柔らかな真綿と化粧箱を焼き尽くして大きな炎となる。


「お、お父さま!?」


 炎はそのまま火勢を衰えさせることなく爆発的に燃え広がり、父親の身体を飲み込んだ。ばちばちという炎の爆ぜる音の向こう側から、うめき声が聞こえてくる。


「ミ、ミ……たすけ……て……」

「いやっ! お父さま! お父さま……っ!」


 すっかり焼けただれてしまった両腕が、それでも助けを求めるように炎の中から伸びてきた。ミシェルはその両腕をためらいなく引く。


 不思議と熱さは感じなかった。だが、炎から引きずり出された顔は、長年見慣れた父親の顔ではなく、


「――リュシアンさん!?」

 整った顔立ちが見る影もなく焼けてしまっていたが、それでもかろうじてリュシアンと分かる顔をしていた。





「ミミ、顔色が悪いよ」

 次の朝、酒の残り香をまとって屋根裏部屋に戻って来たリュシアンの整った顔はいつもと変わらず、それどころか一晩中ほっつき歩いてきた割には妙に活気に満ちている。


「ミシェル。――夢見が悪くて、よく眠れなかったんです」

 その代わり、ミシェルはひどく疲弊した顔をしていた。起きて最初に鏡を見た時、自分で悲鳴を上げてしまったほどだ。まるで一晩で十歳も二十歳も歳を取ってしまったようなくたびれ方をしている。


 ミシェルはなんとかいつものやりとりを返してから、けれどやはり力のない声で応じた。


「リュシアンさんは、朝から調子が良さそうですね」

「まあね」


 ミシェルが言葉の端に混ぜたささやかな嫌味など意にも介さず、リュシアンは紅茶と、リュシアンの買ってきたバゲットを広げた朝食テーブルの向こうで得意げに笑った。

 ああなると、リュシアンは仕事が早い。案の定もう、次の標的に目星を付けてきたようだ。


「ミシェル、太陽をモチーフにした金のボタンって心当たりない?」

「な、なんでそれを……!?」


 昨夜の悪い夢の幻影を振り払い切れていないミシェルが、一層顔色を失くす。

 リュシアンがバゲットをくわえたまま不思議そうな顔をした。


「いや、昔のツテからの情報なんだけど……どうかした?」

「い、いえ、なんでもないです。……ただ、確かにそういうボタンを父に見せてもらったことがあって……」


 夢の中の出来事とはいえ、簡単に、しかも本人に対して口にしてもいいこととは思えず、ミシェルは曖昧にはぐらかした。リュシアンもそれ以上追求せずに続ける。


「ふうん、太陽のモチーフと聞いてもしかしたらと思ったけど、やっぱりそうか。じゃあ『プール・トゥジュール』っていう仕立て屋に覚えは?」

「確かに、『プール・トゥジュール』の店主は、うちの店を恨んでいた一派の一人でしたけど……」


 ミシェルの脳裏にふと、あの日勝手口で見た同業者たちの姿が蘇る。テーブルの下で、自然と足が震えた。

 ミシェルの反応を答えに、リュシアンは頷く。


「次の標的はそこで決まりだな」


 リュシアンの表情からいつもの飄々とした様子が消え、怪盗――もしくは盗人の顔になる。

 その顔を見ていると、ミシェルの心にあの、黒いもやもやしたものが湧き出してくる。ミシェルは慌てて言葉を付け足した。


「ちょ、ちょっと待ってください。『プール・トゥジュール』の店主は、ずいぶん気の弱い人ですよ? 事件に関わっていたとしても、きっと自分の意思ではなくて……」

「気が弱いとかそうじゃないとか、関係ないだろ。盗られたもんは、盗り返す」


 それもそうだ。迷いなくすぱっと切り捨てたリュシアンの言葉に、ミシェルは二の句が告げなくなった。

 黙りこくってしまうミシェルをよそに、リュシアンはバゲットの残りを口の中に放り込むと、空いた右手で適当な紙と鉛筆を引き寄せて何やら描き付け始める。


「それで、こういうの作って欲しいんだ。ほら、こう……切り替えとか工夫して、自然な感じに見せられないかな」

「……えっ!?」


 その手元を覗き込んだミシェルは、危うく口に含んでいた紅茶を吹き出しかけた。


 リュシアンと組んで以来、ミシェルは彼に随分色々なものを作らされてきた。この間の刺繍の額縁などがいい例だ。

 けれどそこには、そんなミシェルでさえ想像しなかったものが描かれていた。


「できない?」

「いやっ、あの、できるとかできないとかじゃなくて……まず、誰が着るんですか?」

 ミシェルは戸惑いがちに彼を見上げ、

「俺に決まってるじゃん」

 リュシアンはその視線を真顔で受け止めた。

 絶句するミシェルを置いてきぼりにして、リュシアンはさらに続ける。


「あとさ、こんなのって出来るかな?  これをこうして……中には綿とか羽とか詰めて……」

「ええと、それはできますけど……」

「できるけど、なに?」


 ようやく自我を取り戻したミシェルが言葉を濁すと、リュシアンは不思議そうに紙から顔を上げた。


 胸を塞ぐもやもやを、なんとか上手く言葉にしなければいけない気がしていた。


 ミシェルは言おうか言うまいか迷って、それでもやっぱり一向に去ってくれない胸の中の黒いもやもやに押し出されるように口にした。


「リュシアンさん、ずっと思ってはいたんですけど、なんていうか、こういう派手なやり方じゃなくて、もっと普通に忍び込むってできないんですか?」


 リュシアンは一瞬きょとんとして、それからにやりと不敵に、しかし同時にとてつもなく魅力的に笑う。


「それじゃあただのコソドロじゃん。俺はパリの大泥棒、怪盗リュミエールだぜ?」

「……なにが違うって言うんですか」


 自分の喉から出た硬い声に、自分で驚いた。

 けれど言葉は、ミシェルの意思とは関係なく、次から次へと溢れだしてくる。


「あなたが――私たちがやってる『盗み』っていうことは、どんな大義名分があろうと、どんな言葉で言い繕っても、結局はどうしても悪いことじゃないですか」


 ミシェルの言葉に、リュシアンはさすがに面白くない顔をする。


「そりゃ、良いこととは言わない。でもこうでもしなきゃ、きみの家族の仇は取れないし、奴らが報いを受けることもない。きみは一生全てを失ったままだ。そんなのって、あんまりだろう」

「それは分かってるんです。彼らに一矢報いるには、こうするしかないってわかってるんです。……でもっ」


 本当に言いたいのは、こんな言葉ではなかったはずだ。なのに、なにかが邪魔をして上手く言葉にならない。どうしても本音から遠く離れたところを大きく迂回するような、まわりくどい言い方になる。


「こうやって悪目立ちし続けていたんじゃ、いつかきっと痛い目を見るんです。最近じゃ警察も、あなたに随分熱を上げ始めているみたいですし……だから……」

「……それは要するに、俺に怪盗リュミエールをやめろって言ってんの?」

「そういうわけじゃ……」


 だから、こうやって食い違いが起こる。


 隠しきれない苛立ちを含んだリュシアンの声に、ミシェルは反射的に縮み上がる。

 ミシェルはしどろもどろになりながら言った。


「そういうわけじゃ、ないんです。ただ、なんていうか、こう……やり方を変えようっていうか、えーと……もっと、リュシアンさんが……」

「そういうわけじゃん」


 そうじゃない!

 と、感情のままによっぽど叫んでやりたかった。

 けれど元来「お嬢様」であったミシェルにはやっぱり、あの時みたいに男の人に対して大きな声は出せないのだ。

 吐き出すことのできなかった言葉が、お腹の中で黒いもやもやの養分に変わっていく。


(わたしが言いたいのは、そんなことじゃなくて……)

 それなのに、ミシェルは本当に言いたいことは、今のミシェルにはどうしても言葉にできなかった。


 唇を噛んでうつむくミシェルに、リュシアンは彼にしては珍しく切羽詰まったような余裕のない声で言う。


「確かに昔の俺はコソドロだったよ。でも今は、あの頃みたいなショボイ盗みはしてないし、したくないんだ」

「でもっ、でもですよ? 今のままじゃ――リュシアンさんが、死んじゃうことだって、あるかもしれないじゃないですか」


 脳裏にちらつくのは、鋭利な刃物がかすめたように肩口の大きく裂けてしまった外套。

 けれど、リュシアンは頑だった。


「……それでも、昔みたいにかっこ悪い盗みをするくらいなら、死んだ方がマシだ――だって今の俺は、怪盗リュミエールだから」


 リュシアンが今まで見せたことがない、すがるような表情でミシェルを見る。だが、彼の言葉はミシェルにとって、遠い国の知らない言葉のように意味が頭に染み込んでこない。


 だから、うつむいたまま首を横に振った。


「……わたしには、わからないです」

「……そっか」


 返ってきたのは、妙に力の抜けた声だった。さっきまでの苛立ちや怒気は消え失せ、代わりに落胆や諦念のような感情がない交ぜになってにじんでいる。


 リュシアンは椅子を立つと、広い歩幅で狭い部屋を縦断し、そのまま黙って部屋を出て行ってしまった。

 立て付けの悪いドアがバタン、と大きな音を立てて閉まる。


「…………」


 一人で部屋に残されたミシェルはしばらく、テーブルの上に置きっ放しになったリュシアンの走り書きを見つめていたが、

「…………」

 そこに幾つかメモを書き足すと、型紙を取る紙を探すために立ち上がった。

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