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4-2

「怪盗リュミエール、死す……」


 近頃この界隈を賑わせた「渦中の人」の最期を、まるで英雄の死でも惜しむように書き上げた記事をなんとか最後まで読み終えると、ミシェルは四肢がばらばらになった怪盗の挿絵から目を離すことが出来ないまま、その場に立ち尽くした。


 怪盗リュミエール――リュシアンは、死んだ。


 その意味がミシェルの脳に染み込むよりも早く、背中から声が掛かる。


「――ミシェル」


 もうすっかり聞き覚えてしまったその声の主を、ミシェルはゆっくりと振り返った。


「……コランタン警部」

 新聞を掲げたまま、震える声で尋ねる。

「これって、本当ですか?」


 嘘であればいいと思った。虚栄心の強い新聞記者が、世の中を騒がせたくて適当に書いた「ガセネタ」であればいい、と。

 だがコランタンは、ミシェルの願いとは裏腹に、厳然と頷いた。


「ああ、そこに書いてある通りだ。私が、刺した。怪盗リュミエールは、死んだよ」


 ミシェルはとうとう、現実を受け入れるほかなかった。


 リュシアンは、死んだのだ。


 呆けるミシェルに、けれどコランタンは悪びれず言った。


「だが、これで貴女の足かせはなくなったはずだ」


 それから、コランタンはこの間と全く同じように、右手をこちらに差し出した。


「ミシェル、どうか私と一緒に来てくれ。『ソレイユ事件』の真実を、再び白日の下に晒すんだ。本当に罰を受けなければいけない人間に正しく罰を与え、そして、貴女の全てを――あるべき未来を取り戻そう」


「…………」

 ミシェルはコランタンを見上げた。


 この手を取れば、きっと「ソレイユ事件」の真相を再び世間に問うことが出来るだろう。コランタンの後ろ盾と、犯行の目撃者であるミシェルの証言があれば、自然と同業者たちへ疑いの目が向くはずだ。そうすれば、家族たちの仇だって取れる。


 そうでなくてもリュシアンはもう死んでしまったのだ。この手を取らない限り、ミシェルは食べて行くことだって出来ない。


 それでも、どうしても視界が歪んだ。


 ミシェルには泣く権利なんかない。リュシアンは、ミシェルと関わったせいでコランタンに殺されてしまったのだし、ミシェル自身も一度はこうなってしまうことを受け入れたはずだ。


 だから、せめて、ミシェルは笑った。

 あの人みたいな、どんな人の心も一瞬で奪ってしまうような魅力的なものではないけれど、それでも精一杯、ミシェルは笑ってやった。


 そして、

「――いやです」

 差し出されたその手を、手酷くひっぱたいて払う。


 お父さま、お母さま、お姉さま、お針子のみんな、使用人のみなさん、あなたたちの仇を取れるかもしれなかったのに、ごめんなさい。

 でもわたしは、どうしてもあの人が死んだことを正解なんかにしたくなかった。


「ミシェル、貴女は……」


 コランタンのほうもこんな風にされるなんて思っても見なかったのだろう。眼鏡の下で驚いたように青い目を見開いた。

 その目をまっすぐに見つめて、ミシェルは務めて気丈に告げる。


「だから、この間も言ったじゃないですか。あなたはきっと、人違いをされているんです」


 どんなに言葉を重ねても、もうとっくに手遅れなのは分かっていた。けれどミシェルは、今になってようやく自分の気持ちを受け入れられたのだ。

 だから、一言一言、自分自身に宣言するように言った。


「わたしは、ただのお針子です。……怪盗リュミエールのことが好きな、ただのお針子なんです」


 ひどく晴れ晴れとした気持ちだった。あの黒いもやもやなんて、今となっては存在したことすら信じられない。


 ただ、それは同時に、空虚でもあった。


「ミシェル……」

 コランタンはそんなミシェルを見て、一瞬だけ悔しそうに顔を歪める。


 それから彼にしては珍しく、何か言おうか言うまいか逡巡するような間を見せた後、やはり堪えきれないようにぽつり、と言った。


「……あるところに、一人の少年がいた」

「え?」

「少年の父親は、極めて健全な市民だった。しかし、ある日彼の父親は、偶然殺人事件の現場に鉢合わせてしまった。犯人は逃走し、現場に残されたのは胸を刺されてほぼ即死だった被害者と、そんな被害者を介抱したせいで血まみれになった彼の父親だった」


 ミシェルは最初、コランタンがなにを言っているのかわからなかった。

 しかし、次の言葉でミシェルは全てを理解する。


「駆けつけた警察は、彼の父親が犯人だと決めつけ、逮捕した。そこまでは、ままあることだ。――問題は、真相を語る目撃者や、残された凶器から真犯人を示す決定的な証拠が出たにもかかわらず、彼の父親の罪が覆らなかったことだ」

「それって……!?」


 どこかで聞いたような話だった。本来罪を受けるべき人間が、なぜかその罪から逃れられるように世の中が動いている、そんな話。


 コランタンが頷いた。


「そうだ。真実は、真犯人の金と権力の力でもみ消された。警察の上層部は、残念ながら今も昔も不正の温床となっているようだ。――貴女も知っての通り、な」

「…………」

「後から分かったことだが、その被害者は社交界で随分と力のある人間だったと聞いた。真犯人の方も同じような立場の人間で、権力争いだか、高級娼婦の絡んだ痴情のもつれだか、そんな他人からすればどうでもいいようなことで殺すほかなくなったらしい」


「……その方のお父上は、結局どうなったんですか?」

 ミシェルは恐る恐る尋ねる。


「――死んだよ」

 コランタンは皮肉っぽく口角を持ち上げて言い捨てた。


「結局彼の父親はそのまま裁判に掛けられ、かなり強引な判決で極刑になった。――口封じだ。残された彼と彼の母親は、父親が死んだことを通知されるまで何も出来なかった」


 コランタンの口調は、もはやいつもの冷静を通り越して冷酷に聞こえるそれとは違ってしまっていた。感情を押し込める氷の壁は溶け出して、中からどす黒い、それでいて奇妙に清廉な炎が舌を覗かせている。


「私はもう誰にも、彼のような思いをさせたくないんだ。警察に入ったのも、その為だ。いずれ出世して警視庁内の穢れを正し、犯罪の影で泣く誰かを、一人でも多く救いたい」


 その熱っぽく語る口調で、コランタンの言う「彼」が誰なのかは容易く解った。


「コランタン警部……」


 ミシェルの声に、コランタンははっ、と我に返ると、何かを振り払うように頭を振った。


「少し話しすぎたな。今の話は忘れてもらっていい」

 次の瞬間にはもう、彼はいつものコランタンの顔をしていた。フロッグコートの胸ポケットから手帳を取り出し、そこに何やら書き付けながら言う。


「だが、私が貴女を救いたいのは本当だ。何か困ったことがあったり、私の言い分を受け入れてくれる気になったら、いつでも訪ねてきて欲しい。必ず力になろう」


 コランタンが手帳を破いて渡してきたメモには、パリ警視庁の住所とコランタンが所属していると思われる部署の名前が書かれていた。

 ミシェルは静かに首を横に振る。


「ですから、わたしは――」


 どんな真実を知ろうと、コランタンがリュシアンを殺した事実は変わらない。

 だが、メモを突っ返そうとしたミシェルの動きを封じるように、コランタンはミシェルの耳元で囁いた。


「それから、どうか奴に伝えてくれ。――いつか必ずお前を逮捕して、彼女をこちら側の世界に取り戻す、と」

「……へ?」


 ミシェルは咄嗟に、その言葉の意味を理解できなかった。コランタンが再び氷で感情を押し込めたその相貌を、少し苦味ばしらせて言った。


「怪盗リュミエールの死体は、まだ見つかっていないんだ。心臓にナイフを受けて、しかも五階から落ちた。となれば、奇跡的に息があってもそう遠くに行かないうちに事切れているだろう、とペイラード警部は言い張っているが……私は、死体が見つかることはないと考えている」

「それって……」

「奴の身長や体重から導き出される落下速度からすれば、必ず外れるはず軌道で投げたナイフが、なぜか奴に命中したんだ。私の腕が鈍ったわけではないならば、奴が何か――って、おい!?」


 コランタンの言葉を最後まで聞かないうちに、気づけばミシェルは走り出していた。

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