最終話「雨の向こう側」
雨上がりの街は、どこか違って見えた。
濡れたアスファルトが光を反射して、世界が少しだけ柔らかくなっている。凛は息を切らしながら、あてもなく走り続けていた。
「雨のあと、探して」
その言葉だけを頼りに。
やがて足を止めたのは、小さな公園だった。
見慣れたはずの場所。けれど、どこか引っかかる。
水たまりの向こう、ベンチの近くに——
「……誰か、いる」
凛はゆっくりと近づく。
そこに立っていたのは、一人の青年。
見覚えのある横顔。
けれど、どこか違う。
「……蒼?」
その名前を呼ぶと、青年はゆっくりと振り向いた。
驚いたように目を見開く。
「……えっと、誰?」
その言葉に、胸が強く痛む。
同じ顔。同じ声。
なのに、“知らない人”としての反応。
凛は言葉を失う。
「ごめん、どこかで会った?」
困ったように笑うその姿は、確かに蒼だった。
けれど——あの時間を共有した蒼ではない。
凛はゆっくりと息を吸う。
胸の奥が、静かに整理されていく。
悲しみは消えない。でも、それだけじゃなかった。
「……ううん」
凛は小さく首を振る。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「初めまして」
その一言に、自分でも驚くほどの穏やかさがあった。
青年——蒼は、どこかほっとしたように笑う。
「そっか。よかった」
何が“よかった”のかもわからないまま。
それでも、その笑顔はあのときと同じだった。
凛は一歩、後ろに下がる。
もう追いかけない。
もう、掴もうとしない。
——あの時間は、ちゃんと終わったのだから。
「じゃあ、また」
蒼が何気なく言う。
凛は一瞬だけ目を見開いて、それから静かに頷いた。
「……うん。またね」
それは、あの別れとは違う言葉。
未来へ続く、軽やかな約束。
凛は背を向けて歩き出す。
空を見上げると、雲の隙間から光が広がっていた。
もう、雨は降っていない。
それでも凛は知っている。
あの時間が、確かに存在したことを。
触れられなくても、消えないものがあることを。
胸の奥に残る温度が、それを教えてくれる。
やがて風が吹き、どこからか懐かしい雨の匂いが運ばれてくる。
凛は少しだけ立ち止まり、目を閉じた。
——ありがとう。
心の中で、そっと呟く。
そして再び、前を向く。
新しい日々へと歩き出すその背中は、もう迷っていなかった。




