第022話「静かなる殺意」
夜の渋谷に、喧騒の余韻が静かに沈んでいく。
その屋上に、ひときわ鋭く空気を裂くような人影があった。
タイトなブラックスーツに身を包み、フードをかぶった女性。
髪は漆黒、瞳は深い夜のように静かで、何も語らない。
彼女の名は Angel Lee。
「……確認。小深山道場チームのメンバー、全員生存」
無線越しの報告は冷静だった。
Angelは、世界にその名を知られぬまま数々の暗殺を請け負ってきた。
その背後にあるのは、世界規模の裏社会ネットワーク組織「ドラゴン・アイ」。
彼女はその中でも“殺し屋”として知られる暗殺部門のエリートであり、幼少期から訓練と洗脳を受けてきた孤高の存在だった。
両親は幼い頃に紛争で失い、スラムで一人彷徨っていた時、ドラゴン・アイの幹部に拾われた。
「お前の命に価値はない。価値を与えてやる。代わりに、心を捨てろ」
その言葉と共に、彼女の人生は暗殺者の道へと変わった。
ナイフの握り方、銃の構造、毒の生成法、拷問術、心理操作、反社会行動への耐性
それらすべてを10代で修得し、20歳になる頃には、“ドラゴン・アイの牙”と恐れられる存在となっていた。
だが、どれほど多くの命を奪おうとも、Angelの心の奥底には一つだけ、消えない夢があった。
「普通の家庭を持ちたい」
戦わず、殺さず、ただ誰かと笑い合いながら食卓を囲む
そんな温かな日常を、叶わぬ幻想のように夢見る彼女がいた。
けれど、そんな願いを語れる世界ではない。
背けば、即座に“組織による粛清”が待っている。
今夜、彼女が狙う標的は小深山道場の3人。
「雷光の拳」の持ち主として報告された彼。
その仲間であり、猫のような動きをする朱華音。
そして、元バイカーギャングの筋肉戦士イーサン。
「命令は監視。だが、隙あらば“個別排除”して構わない」
任務は冷酷だった。
だがAngelの表情は一切変わらず、ただ静かに彼らを追っていた。
屋上から高性能スコープ越しに道場を監視する。
彼とイーサンは、今夜も道場内でミット打ちのトレーニングをしているようだった。
だが、朱華音は一人、夜間トレーニングに出かけた。
“一人の行動”、その情報がAngelの耳に入ったとき、彼女は無意識に身を起こしていた。
「……好機」
静かに立ち上がり、スーツの内側にナイフとワイヤー、サイレンサー付きの小型銃を仕込む。
「これより追跡開始。対象:朱華音」
一方その頃、朱華音はひと気の少ない公園の裏手にある空き地で、独自のトレーニングをしていた。
百恵のスピードに振り回されないよう、自身の反応速度を鍛える練習。
野良猫のような俊敏さが、かつてない精度で磨かれ始めていた。
「……ふふ、なんか良い感じかも……」
そんな彼女の背後に、すでにAngelの影は迫っていた。
電柱の影、ブロック塀の裏、わずかな光の隙間を縫って移動するその姿は、まさに“闇に溶ける獣”だった。
だが
「……誰か、いる?」
朱華音がぴたりと動きを止めた。
“気配”。動物的な勘が、命の危険を知らせていた。
Angelは一瞬、動きを止める。
「……殺るなら、今……」
スナップナイフの柄を握る手に、わずかな躊躇。
(まだ……任務の段階ではない)
しかし、もうひとつの声が囁く。
(今殺しておけば、あと2人が混乱する……)
その時、小深山道場の裏で気配を感じていた人物がいた。
「……不自然な気配だな」
道場の裏口で掃除をしていた小深山自身だった。
「何者だ……まさか、もう仕返しにジャクソンがきたのか?」
小深山は、道場の奥に静かに手を伸ばし、ある長さの布を巻いた木刀を握りしめる。
「弟子たちに気付かれぬうちに……片をつけるか」
その夜、朱華音は何者かに狙われていたことを確信しながら、無事に道場へ戻った。
そしてAngelは、任務の“最初の判断”を下した。
「まだ殺すべきではない」
けれど、彼女の目は冷たく、次の隙を待つ暗殺者のそれだった。
そしてその報告は、すでに“仮面の幹部”の元へ送られていた。
『観察を継続。彼らは仲間意識が強く、チーム分断は難しいが……隙は作れる。』
『了解。次の命令を待て、エンジェル・リー』
その夜、渋谷の空には、誰にも見えぬ“狙撃者の眼”が静かに輝いていた——。




