呪詛(じゅそ)
「いやです!離して下さい」
「何だよ!ちょいとお茶して楽しむだけいいじゃねぇかぁ!」
「合法ハーブっていう気持ち良くなれるクスリもあるぜ。俺たちと一緒に遊ぼうよ!な?」
きっかけは三年生が当時俺と同年代である二年生の女子を強引にナンパしようとした時の事だった
嫌がる彼女の手首を掴み大きく下品な笑い声で連行しようとしていた手首を掴んで留めた
「おい、その辺で良いだろ。先輩方」
「…ああン?」
「そいつ嫌がってるじゃないか…離せよ」
「ンだとぉ…」
上目ずかいでオレに向かってガンを飛ばして威嚇する金髪ロンゲと茶髪ヒゲ
獲物を横取りされると知ってあからさまに威圧してくる二人組み。さながら尾の音を鳴らす蛇か、羽音で警告する雀蜂か
数の優位も連中の気を大きくしているであろう原因だった。俺の胸を掴み上げ持ち上げる、あまり言いたくは無いが身長は低い方だ
「んん―?もう一回言えよ、二年坊主君」
「先輩に逆らうんじゃねーぞ、チビがぁ!」
チビ。その言葉に俺の中のスイッチが入った。おもしろい…そちらがその気ならやってやろうじゃねぇか
「先輩。チャック開いてますよ」
「…ああン?」
金髪ロンゲがズボンに視界を奪われたその隙に、顎に裏腱を叩き込む。中に浮かされていた為ダメージは浅い
しかし、それで倒せるとは思ってはいない。俺を落とした時に奴の胸元に飛び込み鳩尾に一撃食らわせる
それだけでロン毛は腹を押さえてうずくまった
「野郎!」
もう一人が怒りを露に殴りかかってくる。しかし恐れるものではない
相手は冷静さを失って自分から俺の間合いに飛び込んできた。一重で拳を避けた後は奴の腹めがけて膝を突き出すだけ
たったそれだけの動作で、茶髪ヒゲは自分からオレの膝蹴りに突っ込む形となり泡を吹いて倒れる
金髪ロンゲは俺に恨めしげな視線を投げてもう一人を見捨て退散してゆく
「クソッ!覚えてろよ!」
(野郎の顔なんて覚えてられねぇよ…)
月並みの捨て台詞を吐いて、ひたすら逃げる金髪。それを追うように必死に追いすがるヒゲ
引き際に限っては超一流だと褒めても言い。あそこまで完璧な小物悪党だと百点をくれてやっても構わない
「あ、あの…」
「…ん?」
あの二人に絡まれていた女が話しかけてくる。俺は無視して立ち去ろうとしたが、先手を打つように彼女は話しかけてくる
「先程の件、有難う御座います」
「ン…そうか、じゃあな」
「あの、済みません。ちょっといいですか?」
いい加減女がしつこかったので人睨みしてやろうかと、背後を振り向いたとき
差し出されたのはなんと隅に小さくチューリップの刺繍が縫われた純白のハンカチだった
白と言う色合いが善意そのもののようなこの女には良く似合っている。不思議な奴だ
「口から血が出てます」
「…大した事じゃない」
言い切った。しかし有無を言わさずハンカチで口元を拭われる。抗議の声でも上げようとした矢先に彼女は言った
少し大きめの瞳は純粋そのものの輝きを持っていたが、中にはしっかりと流されないような意思の光を宿している
彼女は幼い顔立ちだったが、中身はしっかりと自立した大人の意思を宿しているように見え、自分が恥ずかしかった
「何で、私を…?」
「俺は曲がった事や腐った屑が嫌いでね。通り道にゴミが散らばってたら掃除するだろ?俺は一国民の義務を果たしたまでだ」
「え…でも、私なんかの為に…あの人達が…」
この女は強引に連れて行かれようとしたにもかかわらず、あの二人組みのことを心配している
微かに罪悪感が疼いた。なるべく暴力には頼りたくなかったが、世の中には口で言っても聞かない奴がいる
そんな連中には力で押さえつけるのが一番だった。だが、暴力を振るうたび俺の心は痛んだ
「もうあいつらには絡まれないとは思うが、気をつけろよ。世の中にはタチの悪いストーカーって奴がいるんだ
もし同じような事があったら、証拠を集めて警察に突き出せ。後腐れが無い」
「あ…あの…」
「もし、何かあったら俺に言えよ。ハンカチの礼くらいはしてやるさ」
「…貴方は好きで人を殴ってるわけじゃない。貴方自身が思っているように悪い人ではないと、思います」
「やれやれ、変わった女だぜ…あんたは」
俺は片手を振りつつ背を向け去ってゆく。これ以上この女と関わっていると自分の中の何かが揺らいでしまいそうだった
途中まで家庭に恵まれず、大学に入ってから喧嘩と酒漬けだった俺の日々。底辺のような毎日からまさか抜け出せる日が来るとは
それが俺と依乃理千秋との馴れ初めであり、新たな人間関係の始まりでもあったのだ
「チアキ、お前、何を作ろうとしてるんだ?」
「シチューです」
「…は?」
「美味しいホワイトシチューです」
「おいおい…」
自信満々に言うチアキの顔を覗き込みながら言った。今の質問は事実の確認である
何故ならば、今目の前に置かれる物体は何なのか
「それ、ジャガイモだよな?」
「はい、ジャガイモですけど」
「一つ聞いて良いか?何でジャガイモを微塵切りにする?」
「小さく刻んで、火の通りを良くしようと思ったんですが…食べやすいし」
「長時間煮込んだら速攻で形の崩れるジャガイモを微塵切りにして何を作るんだ?
せめてスライスなら何がしたいかは判る。だがな、コレは炒め物じゃなくて煮込むものなんだろ?」
まな板の上で刻まれた元・じゃがいもの残骸を見て俺は溜息を吐いた
チアキの包丁捌きは器用だったが、何故こいつはこんな肝心なところな抜けているのだろう?
これならばレンジでふかし塩故障で味をごまかし、マッシュポテト紛いの物体でも作った方が良いかもしれない
「貸せよ。俺がやってやる」
「駄目です。料理子育て掃除は主婦の古来から伝わる伝統の仕事なんですよ?」
「まだ主婦じゃねーだろ?シチューくらい何回も作ったから俺に任せてくれ」
「…いやです。家事は女の仕事ですから」
「古いんだよ…その考え方は」
(くうううっ…なんて強情なんだ)
あろう事か切り方を注意しただけなのに包丁の取り合いになってしまう
俺の方は手を離したかったのだが…離したら離したで包丁が飛んでいきかねない
チアキも女の癖に無駄に力が強く離す気配が無かった。俺はこいつに言った
「おい、危ないから放さないか?」
「そう言って…無茶して自分だけで作るつもりですね…」
「…いや、しないし。料理は全部お前にお任せるからさ」
「デザートは?」
「デザートも任せるから…」
もう、どうにでも良かった。離してくれればそれで結果オーライなのだ
強情なチアキも何とか納得してくれてはいたようだ
「じゃあ、離しました!」
「え?」
いきなり引き込まれていた力が消え、俺は逆に後ろに引き込まれていく
それはとどのつまり、背後に倒れてしまっているという事でもあり…スローモーションのように驚いたチアキの顔が映し出される
人のよさそうな顔、目のラインははっきりしているがどこか優しさを感じさせる瞳に、厚めだが形が良い艶やかな唇が見えた
(やっぱりこいつ可愛い顔してるよな)
だが、彼女の顔の造詣に見とれることも無く体は存分に浮遊感を味わっている
俺の視界はそのまま上へ上へと、天井方面にスライドして行き
次の瞬間、転倒し背中を打ったことに気付くのだった。心配そうに駆け寄るチアキに大丈夫だと声をかけようとしたが
頭を打ったのか、俺の視界はブラックアウトする
(またか、最近よく意識を失うな…)
胸の中で愚痴を打ちつつ、俺の意識は白い闇の中に飲まれていった
オマエヲ決シテ逃サナイ
(誰だ…?)
頭の中で妙な声が聞こえる。いや、そう形容していいのかどうかは知らないが
耳を使って言葉が聞こえなくとも、相手の意思が勝手に俺の頭の中に伝わるのだ
それはとても妙な感覚でありある意味では不快であった。当然なのだろう
何者であっても人の頭の中を勝手にのぞく様な奴は好きになれそうにも無い
ここは闇に覆われた黒い空間といってもいいのだろうか?
地面があるかどうか、地平線があるかどうかも定かではない不思議な場所
見えないガラスのような床を踏みしめて俺は立っているのか、それとも浮いているだけなのかわからない曖昧な感覚
オオオオオオオオオオッ!
野太い男の声を引き伸ばしたような、またはかなり低くした女の声を機械か何かを通して編集しているのか
あるいは数百人単位の男女が同じ言葉を同時に発音しているような『声』が闇の奥から聞こえてきた
俺はそいつの正体を知っているような気がする。それもかなり最近に…
気が付くと闇の置くから何百対もの赤い瞳が俺を見ていた
その視線、人のものではない。だが、逸らす事は出来なかった。冷汗が手の中に滲む
悲鳴を上げて、その場から逃げ出してしまいたかった。しかし、この空間の中でそんな事をすれば
この『目』の持ち主達はいっせいに俺に喰らい付くだろうと、根拠無き予感はあった
ナゼ逃ゲナイ
再び、声が聞こえる。俺は念じた
(…逃げたくても逃げられないんだろ?)
意思は相手に伝わったようだった。無駄に数の多い紅眼が目を細める
まるでそいつそのものが高度な知性と意志を持っているかのように
得体の知れないものなのだから何があってもおかしくは無い。俺はそうやって常識の範囲外にある出来事を許容した
考えても仕方ない、そもそも言葉を話す猫や二足歩行の狼が居たっておかしくないのだ
難しいことはテレビの中でご高説を振舞う大学教授や学者先生に解析してもらえばいい
尤も、この『化け物』に遭えたらの話ではあるが
オ前達ハ我々ノ聖地ヲ汚シタ、罪ハ命デ償ウヨリ他ハ無イモノト思エ
(聖地。ダム建設地の事か?)
ソウダ。アソコハ昔、我等ガ祭リ上ゲラレテイタ聖地ナノダ
我々ハ天候ヲ司ル神デアル。ソコニ住マウ人ハ、生贄ヲ捧ゲル事ニヨッテ洪水ノ反乱ヲ止メテイタ
シカシ、オ前達ハ石碑ヲ壊シタッタ一人ノ生贄ヲ捧ゲタ。我々ハ現世ニ蘇ッタガ供物ノ数ハマダマダ足リナイ
(だから俺達を殺そうとするのか?)
ソレダケデハナイ。我々ノ眠ル内ニ人間達ハ数ヲ増ヤシ無粋ナ建物デ自然ヲ汚シタ
オ前達ヲ取リ込ンダトシテモ、マダマダ足リナイノダ
(待てよ、何でそうも人を殺したがる…生贄は俺と野上班長だけで良いだろう?)
我々ハ、ソウイッタ戯言ニ頓着セズ。我々ハタダ…人ニ災イ成ス神ユエ。待ッテイルガ良イ
俺を取り囲んでいた無数の赤い光が消える。あいつは自分の好きな事だけ言って去った
色々と何か言ってやりたかった
(くっ、何が荒神だ…祟り神とでも言ったほうがよっぽどしっくり来る)
声が聞こえた。しかしあのおぞましい怪物のものではない
その声は俺が良く知っているもので…人を暖かく包み込むような輝きを秘めていて…
「カズ君、大丈夫?」
チアキの声が聞こえる。俺はを覚ました
この場所はもう、あの暗い闇のような空間ではない。現実世界で家賃三万の俺の部屋だった
そして安物のソファに俺を寝かせ、傍らに立つチアキの顔。よほどうなされていたのか、彼女は俺の顔に自分の顔を寄せていた
細く、艶やかで色素の薄い髪が俺の鼻にかかる。くすぐったくなってくしゃみする前に俺は言った
「…ああ、多分。元気だと思うぞ」
「良かった…カズ君…」
「おい、泣くなよ。俺は大丈夫なんだから…」
チアキが顔を離したのは良かったが。今度は俺の手を握ってきた
こいつの指先は細いように見えて意外と皮が硬い。実家の農作業の影響もあるのだろう
丁寧に整えられ透明なマニキュアで塗られた爪が電灯の光を反射し眩しく映った
(もしかして、俺の為に…)
正直に言うとチアキは、あまり化粧をしない
そのままでも十二分に可愛いのだが、それだと周りのケバケバしい連中から埋没して地味に見えてしまうのだ
俺は彼女のそんな素朴さが好きだった。そう、あの日に彼女が渡したハンカチに縫われたチューリップのように
実のところ俺は彼女のような生き方が出来ない。俺の心に余裕を生むには環境が悪かった
それでも何とか人並みの生活を送れていたのだから周囲に感謝するしかない
「俺は大丈夫だよチアキ…それより腹が減ったな」
「あ…私さっきまで作ってたんです。カズ君が起きたら食べられるようにって」
「おい、今何時だ?」
「えーっと…十時半くらいですね。それじゃお鍋を取ってきます。あと、皿も」
こいつが来たときはまだ昼過ぎの三時くらいだったはずだ。それがこんなに時間が経っているとは…
そして買出しに出かけたチアキが帰ってきたときには四時半過ぎ、そして包丁の取り合いをしていた時は五時丁度だと仮定する
(俺は五時間近くも眠っていたのか…)
あの祟り神の空間が、俺の見た夢だとは思えない
俺は奴と会話したのだ。闇そのものといっても良い不思議な空間の中で
あれは何だったのだろう?あの場所にいたのは数十分程度にも、数時間程度にも感じた
そもそも光が無く、俺は俺の体とあの化け物の化身である無数の赤目認識できただけである
一般的な常識であの空間を計ってはいけないのかもしれない。あそこは声を出さなくても相手に意志を伝えられる
そしてあいつは言った『生贄の数がまだ足りない』と
俺はあいつに殺される。もしかしたら班長を殺してあいつはこっちに向かっているかもしれない
そしてあいつは他の人間も殺すだろう。まさしく災害のように命を荒らしまわるのだ
俺はテーブルに無造作に置かれていた包みを取り出す。その中には赤い布に覆われた【御守り】が入っている
これがあいつに対して、たった一つの対抗手段になるのならやるしかない
あの神だか化け物だかを俺が封印する。犠牲は自分ひとりで十分だった
「はい、熱いですから気をつけて下さい」
「あの…チアキ」
「何ですか?カズ君」
「本当にありがとうな…俺、お前に会えて本当に良かった」
「……」
俺はテーブル中央に置かれた鍋の蓋を取った。中には非常に具は小さいが、美味しそうなシチューが中に入っている
ほのかな香りが、鼻腔の神経を刺激し食欲を沸きたてていく。そういえば食事はバスの中で握り飯を食べたのが半日前
となると、今日はじめてまともな料理が食えるという訳だ。最後の晩餐にしては申し分ない
これは愛するチアキが作ってくれた極上の料理なのだから
「チアキ。お前やっぱり料理すごいんだな」
「早く食べて…感想をお願い」
チアキは俺に皿とスプーンを渡し、試食を進めてくる
「チアキも食えよ」
「…カズ君が先にどうぞ」
「そうか…じゃあ、いただきます」
俺は手を合わせ、地上の恵みに感謝した後にお玉で湯気漂うシチューを掬い皿に入れた
鼻を近づけ匂いをある程度楽しんだ後に、スプーンで掬って口の中に入れる。うまい
中の具は小さく切り刻まれていて、ほとんど濃厚な野菜スープと化していたが味は香りに劣らず一級品だ
問題は野菜や肉の切り方だった。細かすぎるのだ、歯の無くなった老人食ではあるまいに
それ以外は完璧だった。隠し味に含まれたチーズが舌の中に二十の味わいを生み出し
口の中で風味が広がり、拡散して食欲をそそって行く…さすが牧場育ち、乳製品の扱いを良く心がけている
「…美味しいですか?」
「最高だ、店を出せるレベルだよ。ただ…野菜の切り方はこれから気をつけたほうがいいな」
「…わかった。それから今夜はここにいますから」
「へ…?」
いきなりチアキの言ってきた言葉に俺は驚きを隠せない。俺は飯を食い終わった後チアキを帰すつもりだった
理由は無論、巻き込まないためだ。彼女をこの一連の騒動に巻き込むわけには行かない
たとえ俺が帰ってこなくても…チアキは別の男が幸せにしてくれると考えていた
「…また私に内緒で無茶な事するつもりでしょう?」
「手に負えないんだ。今回は俺でも…」
「……カズ君」
チアキは俺の手を自分の両手で包み込むようにして包んだ
俺は戸惑った。次にこいつが言った言葉がとても信じられなかったからだ
「カズ君が何も言えないならそれで良いよ。でも今夜は一緒にいるって決めたの
私が居た方が良いって、そんな気がするから…」
「チアキ…」
俺は馬鹿な男だと自分を卑下した。なんという愚か者のだろうと
自分の隣には世界で一番信頼できる味方が要るのだ。彼女がいれば全てが上手くいく
その事に何故気付かなかったのか?この時ばかりは本当に自分の愚鈍さを呪った
「判った。お前に話すよ俺がここ数日で体験した事全部を」
「ありがとうカズ君…信じてくれたんだね…」
「ああ、まずは料理を食べよう。チアキが作ってくれたシチューが冷めてしまうからな…」
俺は食事を終えた後、チアキに全てを話した
親しかった山根さんの事。そして受け入れたくなかった彼の死…野上班長の横暴で閉じ込められた俺
そして…あの豪雨の中で見た『荒神』の存在。川に流された自分を救ったチユさんの事、彼女に渡された包み…
さっき見た【祟り神】の事まで話すと彼女は妙に納得した感じだった
「きっと昔に封じられていた悪い山神の事なんじゃないかな?」
「山神…ヤマタノオロチみたいな奴か?」
「うん…そこまで有名じゃないから力は劣ると思うけど。天候を操って台風を呼び込むくらいだから
無名な土着神かもしれないけどかなり高位な存在なんじゃない?カズ君の夢の中に出てきたんでしょう?
相当人の怨念を取り込んでるからとても強い神様だと思う。何人もの生贄で怒りを静めて…どうやって封印したのかな?
すごく気になる…それに、取り殺されなかったのが不思議な位だよ。何かした?」
さすが民俗学を専攻しているチアキだった。俺にはわからないことばかりだ
こういう状況で言うのも何なんだが、心なしか知識を披露しているチアキはいつもより生き生きしていると思う
「いや…これのお陰かな?」
俺は例の包みを取り出した。赤い布の細長い包みだ
「それってもしかして…私、心当たりがあるかもしれないから開けていい?」
「…ああ」
丁寧な手つきで、金色の紐を解きチアキは袋からあるものを取り出した
そこから出てきたもの自体は俺も良く知っているものの形をしていた。チアキが手にしていたのは古い弓矢だった
「これ…破魔矢なのかな?一般には正月の縁起物として用いられる物なんだけど。新築の家なんかにも良く縁があるの
別名、破邪の矢とも呼ばれる事が多いの。似た意味合いを持つものが伝承や古事記、日本書紀なんかでも良く使われてた
三種の神器の内、草薙の剣はヤマタノオロチの尻尾から出てきてかの怪物を倒した事は有名
本物は平家滅亡の壇ノ浦の戦いで平時子が安徳天皇と一緒に抱えて入水した後、失われたと言われてるの」
「有るんだな…実際にこんなものが」
「この矢のご加護があったから、多分カズ君は取り殺されずに済んだんだよ。結界とか張れちゃうのかな?
それにしても古い、いったい何時の時代に作られたんだろう?…大学の先輩に持って帰ったら喜ぶだろうなぁ…」
うっとりと潤んだ瞳で矢を胸に抱くチアキ。まるで餌を与えられ、嬉しそうに尻尾を振る子犬のように見える
熱心なのは明らかだがこいつの趣向はおそらく一生わからないかもしれないと思った
だが、こういった意外性が彼女の魅力だと考えてはいた。何かに熱心なのは立派な長所だ
俺は物のついでに一時間程度、チアキが開いた即席の神話講座に付き合わされる事になったのだが…
「ゆっくり眠れよ。チアキ」
俺は話しつかれて眠ってしまったチアキの体をソファに乗せ毛布を被せてやった
書く言う俺は眠るつもりなど無い。敵は何時やってくるのか分らないからだ
眠ってしまったらまたあいつが現れるかもしれない。今度こそは取り殺されてしまうかもしれない
(来るなら来い…また封印してやる)
俺は起きている。携帯は野上に取られて持っていない為にテレビの時刻表示で時間を知る…現在午前二時
被害届を出すのは全てが終わった後だ。俺はもう死ぬに死ねない
絶対に生き残る。チアキと一緒に暮らすためにもだ
テレビは深夜番組を移している。バラエティ番組のようだが昼のそれとは違い有名人はあまり出ていない
見てみると意外と面白いので見入ってしまう。流行り物が嫌いな俺からしてみれば丁度いい塩梅だった
だから反応が遅れた。窓から黒い影が迫っている事に
ドンドンと、強く窓を叩く音がして俺は立ち上がり傍に置いてあった木刀と矢を手に取る
ベランダの奥でこちらを伺っているであろう黒い影は、カーテンの隙間から血走って濁った視線を垣間見せる
一瞬、目が合ってしまった。そしてカーテンの奥に潜む黒い影はこちらの様子を伺うようにして、待機しているようだ
「何かあったんですか?」
「…窓の外に何か居る」
「それって…」
チアキはいつの間にか目を覚ましていた。俺は彼女を守るように窓とソファの間に割って入り影の様子を伺った
「逃げろ。奴かもしれない」
「絶対に嫌です」
即答。しかしチアキは俺の傍を離れないといいながら、邪魔にならないように部屋の隅に退避している
彼女の気遣いに感謝する。傍に居られたのでは得物が振り回しづらいからだ
そして再び、窓を叩く音が聞こえる。何か堅い物を激しくぶつけているような轟音
チアキが身を縮ませる気配が背を通して伝わってくる、きっと彼女も怖いのだろう
守らなければ…そう思った。俺が助けられなかった山根さんの変わりに…
ガシャアン!とガラスが一気に砕かれ窓が破られる
同時に部屋に侵入してきた黒い影に俺は目一杯、全力の木刀を振り下ろす
影は建った一撃でよろめいた。俺は止めを刺すためにもう一撃、止めの一発を…
「カズ君やめて!その人は人間よ!」
(何だと!?)
チアキの悲鳴じみた声が俺の挙動を制止し、俺はうずくまった影を見た
良く見ると黒い風呂敷をまとった中年男のようだった。そして、俺はそいつの顔を良く覚えていた
「あんたは…」
忘れられたくても忘れられない、憎たらしい顔
そうだ…こいつが、こいつこそが全ての発端で山根さんを殺した卑劣漢…
「…痛いやないか大間はん!ワシはあんたを助けに来たっちゅうに…」
野上班長は憔悴で痩せこけた顔にぼうぼうと伸びる無精ひげを生やし
多分の疲労を残しつつも、卑しさと憎たらしさの残る顔で…しかし弱々しく笑った