人柱(ひとばしら)
長めの短編といった感じで書きました
「お前さん、人柱っちゅうんを知っとるか?」
夏の厚い日差しの中で、そんな話を聞いたのは俺・大間和磨が深い山奥で土方のバイトしていたある日の事だった
独身。尚且つ女の話が好きで月二回は風俗通いをする現場班長・野上源太郎班長が
肥えた蟇蛙の様な顔で笑みを浮かべ話しかけたのは
「人柱って言うと。昔の治水工事なんかで人身御供を差し出すとか言うやつでしょうか?」
「ああ、そいの事や」
人柱。後であいつから聞いた知識から言わせてもらうと
世界各国で似たような文化はあったらしい、有名所だと南米のアステカ、日本の治水工事、エジプトのピラミッド…
様々な理由で人身御供を差し出す風習は広義で表すとそれこそきりが無いという
過去の蛮行を専門家ですらない自分が、現在の価値観で非人道的だと切り捨てる気は毛頭無い
だが、それほどまでに人類は生贄を欲するものなのだろうか?嘗て神話上の神々の存在が信じられた頃でさえも人は残虐になれるのか?
ある意味では人間は常に生贄を求めているのかもしれない。踏みつける弱者がいれば己の存在を肯定する材料にはなるのは真理だ
しかし、俺はそんな文化を認めるものがいても、昔の人間が何故に無駄な犠牲を強いていたのかはついぞ理解できなかったが
「嫌ですよね、人が死ぬって」
「そいか?ぐうたら一人の命で工事がすすむちゅうんなら、割に合わなくもないやろ?」
そう言って野上班長は嫌な笑みを浮かべた。何か企んでいるかのような一物噛んだ表情を
「それは…判断いたしかねますが。でも、今はそんな時代でもないでしょう?」
「まぁ…例えばの話や。そいえばこの辺、昔そんな事があったらしくて
【出るん】だとよ家族を求めて埋められた場所から。大昔の呪いを司る神が生贄の血肉を啜りにな…」
「初めて聞きますね、この土地の伝承ですか?」
「まぁ、ワシもちょいと小耳に挟んだだけや。おまいさん?故郷に家族いるんか?」
源太郎さんは相変わらずにこやかな顔を浮かべて尋ねてきた
相変わらず、ビール腹の目立つ彼の笑い顔は顔の造詣にかかわらず人懐っこさを感じさせる
しかし、目は笑っていない。何かを探り出すような…ヒキガエルを連想する顔に獲物を品定するような眼光で俺を射抜いていた
「……大学の同級生なんですが、婚約者が一人」
「そいか」
既に、源太郎さんの瞳に剣呑な輝きは無かった。あいも変わらずぶ厚い唇を歪ませて口元はニヤニヤ笑いを浮かべている
まるで俺をからかうようだった。決してこの人に悪気はないかもしれないが、見下されるような視線はあまり愉快ではない
だが、表立って不快感を表して現場環境に亀裂を作るような行いは愚かだ。だから俺もぎこちなく愛想笑いを浮かべた
「そん子、別嬪さんか?」
「まぁ、そこまででは……」
「それより、することやったんか?」
「…はい?」
「今は少子高齢化やからな。あんた等のような若い人間がドンドンガキ作って産まなきゃアカン!」
「まぁ…ボチボチとは…」
「はっはっは!!頑張って税金払ってどんどん人口増やしんな。わし等の年金の為にナァ!」
「はぁ…頑張ります」
「体が若うてアソコも元気なモンは羨ましかのう、ワシも早う嫁が欲しいわ!」
背中を二、三度軽くぽんぽんと叩き、のっしのっしと去っていく野上班長
彼のねっとりとしたテンションと勢いについていけず、再び俺は溜息を吐いたのだった
「利弘さんは田舎出身なんですか」
「ああ、僕みたいなアラフォーはこうでもして人様の役に立ったほうが良いんだよ」
この人、小太りだが大人しげで眼鏡が似合う風貌の山根利弘さんは三十代でこれまた独身だ
だが、昔は結婚していたらしく、たまにその頃の事が話題に上る事がある
しかし彼はその頃の事はあまり進んで話す気はないようだった
山根さんは起業しようと思ったが、詐欺に遭い借金を抱えていた。奥さんとは離婚し、娘さんも事故に遭い亡くなられた様だ
彼はこの年でも勤勉かつ辛い仕事を率先して引き受けていたので、ある意味では現場の人間から信用されていた
そう、班長よりも…それ故に彼との確執の噂が作業者の中で広まっていったのだが
「立派な心がけだと思います。俺なんか遊ぶ金が欲しくてバイトに来ただけですから」
「僕は特に趣味も無いし、生き甲斐も無いからね。日雇いで似たような仕事を続けながら、空いた時間はボランティアにも参加してる」
「すごいです、今度俺も一緒に参加して良いですか?」
山根さんは静かに笑った。教え子を諭すような教師の言い方に近い口調で言う
「はは…駄目だよ。君みたいな若い子は思いっきり遊びなさい。彼女がいるんだよね?」
「はい。とても優しくて気丈な子です…少し困ったところがあって頑固ですが」
「その子の写真とかあったら見せてくれるかな?嫌なら別に構わないけど」
一瞬迷った。しかし山根さんは俺が昼飯を忘れてきたときに、自分のおむすびを分けてくれたり、仕事を手伝ってくれたりと
このきつい仕事で色々と助けてくれた恩人なのだ。人前に知り合いの写真を無闇に晒すのは流石に軽率だが
山根さんならば大丈夫だろう。むしろ心優しい彼女なら笑って許してくれるはずだ
そう思ったので、俺は携帯のファイルを探り画面の中で朗らかな笑みを浮かべた彼女の姿を彼に見せた
「この子です」
「…とても綺麗な子だね、それに君が言った通り穏やかな顔をしていて気品がある。名家の生まれかな?」
「いいや、只の牧場出身の歴史オタクですよ。何かに興味を持つって事自体は、悪いとは思いませんけどね」
彼は画面を見ながら感心していった。俺は思わず尋ねてしまう
「山根さん…どうかしました?何か具合でも?」
「いや……何でもないよ。とにかく済まなかった。それより、彼女みたいな子はなかなか居ないと思う
君がずっと守ってあげるんだ…写真を見ただけで僕は人となりがわかる。彼女が歪まないように支えてやってくれ」
「どうしてです?」
「人間の醜いところは一杯見てきたからね。昔は誰もが善人だと信じていたからね…」
無理に丸顔に笑顔を取り繕って、彼は携帯を返した
俺は山根さんの態度が気になったが、深く追求する事はしない。親しき仲にも礼儀ありという奴である
俺達の宿舎は近くにある。何でも早朝からダムの作業をなるべく早く取り掛からせる為だと言う
そこにはクーラーはない。扇風機だけが一部屋に一つ、それもかなり埃を被ったような古い型のものが用意されているだけだ
都心部の電力は原発の停止製作によって、市制は自然エネルギーを利用する発電に重きを置く政策を採った
俺から言わせれば電気なんで何処で作られていも関係が無い。事故が起こったとしても安全性を重視した施設を設計すれば良い
何よりも、選挙対策の為だけに理念をコロコロ変える政治家どもを俺は信用できない
政治屋の甘言に乗せられてタレント議員に投票する愚かな連中共にもだ。阿呆に投票権を与えると碌な事にならないのは自明の理である
口ではああいって謙遜したが、俺は大学でのうのうと時間と金だけを浪費するのは我慢ならなかった
夏休みにこんな田舎までを運んでボロアパートよりも悪質なタコ部屋に押し込まれながらもバイトしているのは
公共事業が噛んでいる事も有り、金の支払いが悪くない事も遭ったが。比重が大きいのは修行の為だった
友人からすれば俺は自分に厳しすぎるのだという。夏休みなのだからもっと満喫すべきだと何人にも言われた
それが痩せ我慢なのは承知している。事実、現場の人間と打ち解けるまでは何度も仕事を放り出して帰ろうと思った事か
そうしなかったのは一重に彼女の存在と山根さんのことが大きかった
自分より苦労している人間は多い。そして大学卒業後は就職し貯金もしなければいけない、学業を終えた後に彼女とは結婚するつもりだった
(…あいつ、今何をしてるんだろうか?)
暑い部屋で携帯の中のあいつの笑顔を見て思い浮かべる
恐らく生真面目なあいつの事だ。きっと今頃は実家の牧場に戻って牛の乳絞りの手伝いでもしているだろうとは思う
彼女は働き者で真面目であり頭も良く、身も心も美しかった
派手な服を持っていないのと化粧っ気があまり無いのでキャンパス内では地味であり同世代の女子と比べると華が無い印象はある
だが、彼女を俺は好きになったことは誇りに思う。女と付き合った経験が無いわけではないが
大抵の人間は最初の内は真面目で綺麗に見えても、甘やかすとすぐに付け上がるからだ
化粧臭い、金が無いのを知っててブランド品を何度もせがむ、耳元で叫ぶ声がデカイ、タバコの吸殻を路上にポイ捨てする
聞いてもいないのに他の男友達の悪口をまくし立て、誰と寝た等と臆面もなく下品に語り……挙句の果てには電車で股を広げて座る
全員が全員そういった連中だけじゃない。中には悪くないように見える女も居たがそういった連中は
大概は俺よりも顔が良いホスト崩れか、小金持ちの中年のいずれかに拾われていく
彼女達だって生活がかかっている。収入や社会的地位のある人間を選ぶのはなんら不思議な事ではなく、自然の摂理だ
そして一番大きかったのは以前の俺は、彼女達を幸せにしてやれる覚悟が足りなかったからである
自分が不器用だとは自覚している。何度も何度も改善をしようとは思ったが上手くいかなかった
俺の母親は水商売の仕事だった。俺を親戚に預け、自分は最低限の養育費だけ渡して他の男と遊び、飲み、寝る
自分が女を見る目に厳しいのは、そういった背景もあるだろう
一時期、育ての叔母以外の異性が、全てあの女と同じような淫売に見えて仕方なかった
自分を必死に矯正してくれたのは、母の妹である養母と養父だ。今でも頭が下がらない
彼等が居なければ自分はきっと碌な人生を送っていなかっただろう。そして自分に自信が持てるようになったのはあいつのお陰だった
『カズ君はもっと自分に自信を持って良いんだよ』
そういって朗らかに笑う、春風のように優しくて透き通った声を思い出した直後だった
あの人…山根さんの悲鳴が外から聞こえてきたのは
「こりゃあ…死んどるわなぁ」
山根さんは足場から転落して、遥か下に仰向けに倒れていた。その様子は血が池のように広がりる程の惨状で
頭から少なくない量の血を流しており、遠くからでは見えないが、内臓らしき黒いものも少し飛び出している
俺は信じたくなかった。あれが山根さんなんて嘘だと思いたかった
呆然としている俺の背後にあの人がポンと手を当て、元気な山根さんが笑顔を浮かべこう言うのだ
『良く出来ている死体だろう?俺達は現場の新人をこうやってからかうのが楽しいのさ』と、
「嘘だろ…山根さん」
「やっぱり…野上さんが命綱なしであっちの測量をして来いって行ったから」
「なんだおめぇ…班長のせいにするンっちゅうか!」
「近くに病院はねぇ…こんな山奥じゃ救急車は来ない」
「おい、どんすんだよコレ!人が一人死んでんねんで!」
俺が上着を羽織ってくる前から、現場にいた三人は言い争いを続けていたようだ
彼等に山根さんを救助しようとする気は無い様だった。俺は我慢ならなかった
「命綱を繋いで下さい。俺が山根さんを救助します!」
「馬鹿!ドンだけ距離はなれてる。経験者でもないのに危険な事したらあんたも落ちてしまうぞ
…それに山根はもう死んどるんだ。オレらだけでやるもんじゃない、引き上げは目処がついてからで」
「もし彼が生きていたらどうするんです!俺達全員責任取れるんですか?」
俺の言葉に数人が目を背ける、異論は無い様だった
そして俺が簡易プレハブの仮説倉庫に道具を取りにいこうとした。しかし目の前に立ち塞がったものがいた
「待てや、班長の許可無しに勝手な事やんなや」
「……班長」
「あーひどい所落ちたな、あれじゃ回収は難しいやろ。ま、あそこ上から土砂かぶせて埋めるからええやな」
「あんた…何を言ってるんだ?」
班長は山根さんの姿を見て。まるで飲み会で嫌いな球団が勝ち星を逃したのを喜ぶように、歓喜の色を滲ませながら告げる
俺だけじゃない。流石に不味いと思ったのか、周りの中年作業者達もまるで異質なものを見るように野上を見つめていた
幾対の視線を浴びながら、それでも班長は平然としていた。全く予定通りといわんばかりに
虫けらの視線など意にもかえさないと無言で宣言するかのように
「丁度ええやないか。こん辺りは前にも人が落ちて死んどるんや、ちょうど人柱ってとこやな」
こいつは何を言っている?あまりの非常識ぶりに俺は言葉を失った
他の人間も同様のようだが、前に立って異議申し立てをする人間は居ない様だった
憤慨しつつ、俺は抗議する事にした。このまま見ている事なんて出来なかった
「…人が今あそこで倒れてるんですよ!」
「せやな。まぁ、悪霊に取り付かれたんやろ?冥福は祈ってやらな
だがな、現実問題としてあんな深いとこ落ちたら回収も大変なんや」
「その言い草は流石にないと思います!」
「じゃあ、あんたが山根さんの遺体持って来てくれるんっちゅうか?おい、この場でこのガキの手伝いしたい奴は手挙げや!」
「……。」
「………」
「お利口さんばかりや。ワシに逆らったらどうなるか、皆知っとるからな…もう三十後半、この不況の中で仕事探すのも大変やからなぁ」
他の人間は黙っていた。恐らく、班長である野上が怖かったのだろう
野上だけは建設会社の正社員で指導員だった。良くわからないが、奴の会社は地元有力議員一派と強力なコネを持っていて
公共事業のおよそ過半数を受け持っているという噂だ。つまりは絶大な権力を持つバックが野上の背後に控えている
だが、俺はその程度の事で引き下がりたくはなかった。権威に跪くなんて許せなかったのだ
「それであんたは山根さんを引き上げないって言うんですか?」
「引き上げてもええで。あんた一人ならな、ここにいる連中はみぃ―――んなオレの言う事を聞きよる
それに此処は山の上や、いつ雨が降ってもおかしくない。そうなったら死体の回収は難しいんや
コレはあんたの将来を案じて言っとんねんで、素直に言うこと聞きや」
「あんた死体、死体って……山根さんが生きてると何故思わないんだ!あの人の家族はどうなるんだ?」
「家族っておらんやん。離婚した奴の奥さんも今頃は若い男とよろしくやっとる筈やで
女は正直やからなぁ…糞真面目なつまらん男より、体もアソコも若いチャラ男と遊ぶ方がええんやろ
両親もボケて娘もおっ死んじとる言うやないか。別に騒ぎ立てる輩はおらんえ?」
頭の中は沸騰していた。山根さんを助けようともしないで彼の尊厳を傷つける野上を許せなかった
完全にブチ切れた俺は野上に詰め寄り、作業服の襟首を掴んだ。それでも、奴は余裕に満ちた顔を崩さない
「てめェ…言って良い事と悪い事があんだろ!何故、無神経にそんな事が言えるんだ!!」
「おぉ…怖ッ。やっぱり最近のガキはゆとりの犯罪予備軍やわぁ…すぐ煽っただけで人を殺しそうな目になりよる」
「こいつ……ッ!」
野上班長は俺に作業服の胸倉を掴まれながらも平然としている
只でさえヒキガエルのように醜悪な顔が尚更の事歪んで見えた。我慢できずに手を挙げようとしたその時だ
後頭部に鈍い衝撃を受け、俺は倒れる。最後に慌しく指示を下し、俺を見下す班長の声が聞こえた
「オイ、早くこいつをプレハブに縛って入れとけ。携帯も取り上げて連絡も出来へん様にしとき
処分は後から決める。バレたらお前達も終わりや、一蓮托生やさかい徹底的に隠蔽するんや!」
「……班長、先程ですが別の現場の発掘中に古い石碑のようなものが出てきました
文字は潰れて見えなかったのですか、どうします?」
「邪魔になるならシャベルで退かせ、たかが石やろ?
こちとら県の予算で動いたプロジェクトなんや。あのポイントを水没させんとダムにならへん
今更現場の意見が通るか!知事も予算を出した!社長が絶対に許さへん、中止なんかハナから考えられんのや」
「それが…なかなか動かないんです。動かそうとすると重機のエンジンがどれも掛からないんです」
「なら、念の為に持ってきた火薬を使え。民家一つ無いこの山ン中や、爆破してもバレる事は無いやろ
クソッ、山根といいガキといい…何で今日はこんなにケチが付くんや…オレの出世に響くで」
(畜生…こんな奴に一矢報いる事も出来なかった。山根さん…千秋……)
俺は頭の中で轟くような激痛の中、意識を手放す事しか出来なかった
雨音で目を覚ますと、頭痛がした。辺りは暗い此処が何処なのかもわからず、体の自由も利かない
(此処は何処だ…)
光が一瞬、部屋の中に舞い込み一瞬だが無骨な内装の様子が映し出される。数秒後に遠くで轟音、割りと近い
音はかなり近くで、近くで何かが破砕するような音が鼓膜を叩く
(此処は道具置き場…それに、近くで雷が落ちたのか?)
この辺りが山の上で雲がかかりやすく、よく雨が降ることも知っている
今はこの場に居ない山根さんが教えてくれたのだ。森林が豊富な貯水量を保ってくれるからこの辺はダムを作るに適しているのだと
そして思い出す。山根さんの存在を…彼の体は無事に引き上げられたのだろうか?
(あの班長が仕切っている限り、すぐに救急車を呼ぶとは思えない
恐らく山根さんは、もう……クソッ!何で俺は後ろ向きに物事を考えちまうんだ!)
世話になった山根さんを助けに行かなければならない
今は夜で、なおかつ雨と雷で視界が悪いが躊躇う積もりは毛頭無い
彼を連れて、山を降り病院に連れて行く、これが今俺が出来る事だ。最悪の事態は…考えないようにする
とりあえずは手首と足首を縛っている縄を解くことが先決だった。身動きが取れなければ何も出来ない
何分掛かるかわからない。どうしようかと体をもじらせた時、意外にも縄は簡単に解けた
(始めから緩められていた?いや…もしかしたらここに俺を運んできた誰かが縄を解いてくれたのか?)
恐らく、班長のやり方をあまりよく思っていない作業者が手心を入れてくれたのか
それとも、元々結び方が緩かったのかは判らない。だが、想像など跡で幾らでも出来る
今は与えられた環境を最大限に活用するだけである。手心をくれた誰かに礼を言うと、豪雨降りしきる外に出たのだった
(くっ、視界が悪すぎて何処が何処だかわからない)
プレハブ宿舎から抜け出した俺は、豪雨の中で必死に山道を歩いた
流石に工事の為に申し訳程度の舗装はなされてはいるが。雨に浸され粘土を増した地面は滑りやすく
なおさら足場の悪い場所が多いこの辺では、ひょっとした拍子で滑って下に落ちてもおかしくはないのだ
(確か…この辺りの筈だ)
時々も落ちる雷の光だけを頼りに、俺は足を進めていく
僅かな土地勘だけが頼りだった。この道も山根さんと一緒に歩いた場所だった
俺は短いながらもあの人に教わった事が多かった。仕事も、年上としてのアドバイスも
あの人は中々他の作業者に馴染めなかった俺を快く向いいれてくれた。サボってばかりの班長より皆から信頼されていた
山根さんは野上班長に突き落とされたのかもしれない―――そんな考えが俺の頭の中で過ぎる
あの人は風の噂で以前にも自分の現場で事故者を出したと聞いている
それが、仮に事故ではなく、彼自身がやっていることだとしたら…恐ろしい仮定に身を震わせたのは雨の冷たさ以外にも有るかも知れない
そして俺は例の現場に辿り着いた。当然ながら何も見えない
道具倉庫から懐中電灯を持ってくることも考えたが、どうしても明かりを点けなければいけないので断念した
明かりを点ければ、他のプレハブ宿舎に様子が伝わる事になる
この雨で宿舎に控えているであろう班長に知られたら、何をされるか分からない
下手をすると俺も山根さんと同じように、奴に【処理】される可能性があった故に、実用性より隠密性を選択したのだ
しかし、今となってはそれも惜しい判断だ。こうも視界が悪ければ何も見えやしないのだから
「く…」
ぐっしょりと濡れた髪の毛から滴る水が目に入るのも気にせず、悔しさで唇を噛む
自分の愚かさに嫌気が差してくる。あの時、班長に手を出そうとしたのが間違いだった
もし、素直に彼に従う素振りを見せていたら。状況は違ったかもしれない
山根さんの救出は遅れるかもしれないが、確実な手を打つ事は出来ただろう。それも今より圧倒的な好条件で
頭に血が上りやすいのは自分の悪い癖だ。それで何度も失敗を侵した
もしかしたら俺の中に半分流れているあの女の血がそうさせているのかもしれない。ならば、まるで呪いの様だ
「…クソッ!」
隣の木に怒りの拳をぶつける。皮が破け、血を滲ませるだけの無意味な行動だったが
そうでもしないと癇癪を抑えられない。そう言えばあの女もよく癇癪を引き起こしていた
急に怒り出し、俺に手を上げた事もある。やはりあの女の息子か…力無く肩を落し座り込んだ直後だった
おおおおおおオオオオオオンンンンッ!
遠くから、低い野犬のような声が聞こえてきたのが
驚いた。この雨と暗闇の中で動き回る生き物がいた事に驚きを隠せない
最初は聞き間違いかと思った。雷の音がそう聞こえたのだと、しかし雄叫びはしばらくしてまた聞こえてきたのだ
急に体に力が戻り、谷底の下に視線をやる。相変わらず豪雨は激しい
しかし雷が落ちて運が良ければそいつの姿が見えると思ったのだ。全ては好奇心だった
雷光が落ちる
辺りを一瞬照らす
谷底の奥を青白い光で
そして、そこで見えたのは……
そこに佇んで、無数にある紅く輝く瞳で俺を見ていたのは――――――
「――――――――――――――ッ!!!」
俺は声にならない悲鳴を挙げ、そこから走り出した
大声を上げることで自分の存在が【あいつ】や班長にバレるなんて二の次だった
本能がそれを要求した。体が自動的に声を上げることを強いた
そうでもしなければ俺は金縛りにあったように動けなかったのだから、叫んで体のリミッターを外す必要があった
走る走れ走ろ走る――――、一歩でも早くあいつから遠ざかるように
あいつが追ってくるのが判る、どんなに逃げても追いつかれる
俺の顔は雨と涙でぐしょぐしょになっていることだろう、情けないなんて思うゆとりは生まれない
あいつは徐々に距離を詰めて来る、股間が温かくなってくるのがわかった
漏れたものの事すら俺は考えられなかった、あいつがどうやって崖のを上ったのかは知らない
化け物なのだ、人知を超えた怪物なのだから何が出来ても不思議ではない
その通りだ、人間が幾ら知恵を凝らしたところであのような原初の恐怖には太刀打ち出来ない
近くで巨大な化け物の息遣いが聞こえた。木々をなぎ倒し獲物を捕らえようと疾走してくる
もう駄目だと思った、俺のちっぽけな人生など得体の知れない化け物に襲われて終わるのだと観念しかけた
だが――――
「あ…」
俺は脚を滑らした、しかし滑った先には地面は無い
水嵩の増した川の濁流に体が呑み込まれていた、俺は此処で死ぬのだろうと思った
しかし胸のうちには安心感がある。あの化け物に殺されるくらいなら溺死した方がマシかもしれない
そして、最後の思考も増水で渦巻く流水の渦に呑み込まれ、俺は再び意識を失った