第1話 ダンジョンが生まれた日
安田竜之介に千円を貸すのは、一日を平穏に終わらせる為の必要経費だった。
「おーすまんな、借りるわ」
俺が差し出した千円札を、竜之介は当然のように受け取った。
借りると言っても返ってきたことは一度もない。
だが、それで一日が終わるのなら安いものだと思ってしまう。少なくとも中学時代のように殴られたり、弁当をひっくり返されたりするよりは。
中学三年間と、高校一年目。
俺はずっと、こいつにいじめられている。
「しかしお前、不細工だよなぁ。眉毛剃った方がいいぞ?」
「はは、考えてはいるんだけどね」
「暁一がイメチェン? キモ、ウケるわ」
俺が何を言っても否定してくるそのやり口は、もはや日常の一コマに近い。何年も似たようなことが繰り返されれば多少は慣れてくる。だが、こう思わざるを得ない。
……死ね。
「よー、おはよー」
俺の肩に腕を回しながら、竜之介が堂々と教室の扉を開いた。
口々に返されるおはようの挨拶は竜之介に向けられたもので、俺の存在は見て見ぬふりだ。今更クラスメイトに期待などしていないのだから、別にそれは構わない。高校生にもなっていじめかよと嫌悪する奴も中にはいるが、そういう奴ほど関わってこないものなのだから。
「おー、どしたー? 朝から三橋なんかに構って」
竜之介の友達……鈴木が気持ち悪い笑みを浮かべながら近付いてきた。
……朝から二人目かよ、最悪だ。
「いやな、こいつがイメチェンしたいとか言うからおかしくてな。普通そういうのは自分の顔やスタイルに合うかどうかで決めるだろ? なのにいきなり印象変えたいとか言い出すから……ぷ、はははは!」
「マジかよウケるわ! おい三橋、お前はその陰キャ顔に陰キャヘアーが一番似合ってんだから、マジで身の程弁えてけ?」
「はは。だよね」
俺は内心の嫌悪が出ないよう努めながら、顔に愛想笑いを貼り付けた。
こうしてやり過ごしていれば、勝手に満足して終わってくれる。だが、いくら期待していないとはいえ、クラスメイトに聞こえるよう大声で笑われるのだけは恥ずかしい。そしてそう思うのに何もできない自分自身が、一番恥ずかしかった。
「そうだ。俺の兄貴が美容師なのは知ってるよな。お前そこで髪切ってもらえ。大丈夫大丈夫、友達から金なんかとらねーよ。お前にお洒落なんて無理だもんな、髪型は俺が決めてやるよ」
その言葉に、俺の笑顔も固まった。
竜之介は楽しそうに「何がいいかな」と笑っている。鈴木はふざけて「坊主だろ!」とか言っているが、こいつはマジでどうでもいい。竜之介がやると言った以上本当にやる。髪型を弄られるのは流石に怖いとしか思えない。
……どうして、こんなことになったんだろうな。
いじめられるようになった切っ掛けを、俺は薄々察している。
中学の頃、竜之介と一緒にサッカーをしている時だったか。あの時に竜之介が好きだった女の子に、俺だけ褒められた思い出がある。それから竜之介の当たりが明らかにきつくなったから、確かに覚えていた。
本当に、それだけ。
……くだらない。
「三橋君には、今の髪型が一番似合うと思うな」
空気を読まないその一言に、竜之介の顔が固まった。
声の主……朝倉詩織は笑顔で俺に近づくと、「うん」と納得したように頷いた。
「やっぱり、三橋君には今の髪型が一番だよ。優しいって感じがいいもん。あ、でももし変えるならどんなのがいいかな、悩むぅ。ねぇ、私も一緒に考えていいかな?」
「あ、ああ、いいぜ」
「やった!」
一瞬で調子を崩された竜之介を見て、俺は内心ほっとした。朝倉さんが介入する以上、最悪の事態は避けられたと言ってもいいだろう。
女の子に助けられて、情けないと思う自分もいる。
けれど俺は、どれだけ情けなくても自分が一番かわいかった。
「じゃあ三橋君。今日の放課後、一緒に本屋行こ? 一番似合う髪型探さないと!」
「え? えっと……」
……なんでそうなる?
いや、朝倉さんが唐突に変なことを言うのは今に始まったことではない。むしろよくあることだ。
可愛い顔に、制服の上からでも分かるスタイルの良さ。そして天然。クラス一の人気者と言ってもいい朝倉さんから誘われるのは、本当なら滅茶苦茶幸運なことなのだと思う。
でも、俺にとってはありがた迷惑だった。
「こいつにお洒落なんて無理だろ。だからよ、朝倉。俺と二人で決めようぜ。丁度放課後空いてるからさ」
「え? なんでかな?」
……始まった。
予想通りの展開に、俺はため息を吐きたいのを我慢した。
竜之介が平気な顔を装って、取り繕うように続ける。
「なんでって、普通そうなるだろ? 俺と朝倉で決めるんだから」
「なんで安田君が決めるの? 三橋君のことを決めるのは三橋君だよね? 私何かおかしなこと言ってる?」
「いや、おかしくはねぇけど……」
「けど、なに? 安田君てたまに変なこと言うよね」
朝倉さんが眉を寄せると、竜之介の顔が見るからに引きつった。
竜之介は朝倉さんのことが好きなのだと、本人以外はみんな知っている。だから何とか気を引こうとしているが、こうして相手にされないのもまた、いつも通りの光景だった。
だからといって、口を噤む竜之介にざまぁみろとは思えない。朝倉さんに振られた腹いせに、このあとはいつものように嫌がらせをされるのだろう。せっかくの千円が無駄になる。
だから俺は、朝倉さんのことをありがた迷惑だと思ってしまう。
助けてくれたことに感謝しても、そう思うことが止められない。
人の善意を迷惑だと感じる自分が、本当に嫌で仕方ない。
無理矢理自分の汚い部分を見せられているようで、余計に。
竜之介が何かを言う前に、ホームルームのチャイムが鳴った。
図ったように担任が教室に入ってくる。
それぞれが自分の机に戻る中、朝倉さんは俺に笑顔で手を振りながら椅子に座った。竜之介の刺すような視線を感じながら、俺も自分の席に着く。
……嫌だな。
いつまでこの生活が続くのか、ではない。
女の子に助けられ、ありがとうの一つも言えない。愛想笑いばかり浮かべてされるがままで、「止めて」の一言も言えない自分がとにかく嫌だ。
強くなりたいなどと大それたことを言うつもりはないけれど、せめて嫌なことは嫌だと言える自分になりたい。そうすれば、きっと少しは自分に自信が持てるのに。
なにか、切っ掛けでも落ちてないだろうか。
そう考えて、俺は一人で苦笑した。
……バカバカしい。
切っ掛けは自分で作るもの。そこまで分かっているのに、何一つ動いていないから俺は情けないままなのだろう。変わるために何もやっていない俺が、そう願ったところでただ虚しいだけだ。
俺に願える現実的なことは、一つしかない。
……早く一日が終わってほしい。
実際、その願いは半分ほど叶った。
いつものように授業を受け、休憩時間は机にうつ伏せて寝た振りをする。朝倉さんには放課後の約束を何度も確認され、その度に竜之介から睨まれた。それ以外、特に何もない一日だった。
気が付けば、放課後のホームルームが終わっていた。
「三橋君、行こ!」
待ち構えるように立っていた朝倉さんに、ため息を吐かなかった自分を褒めたい。
「ごめん、やっぱり今日は用事があるんだ。また今度でいいかな」
「今度って、明日とか?」
「明日もちょっと……機会があったら声かけるでも大丈夫?」
「うん! 待ってるね!」
素直に可愛いと思える笑顔に、少しどころではない罪悪感が湧いてくる。また今度と言ったけど、多分その機会は来ないだろうから。
まぁでも、大丈夫。
どうせそのうち忘れるだろう。
クラス一の人気者が、わざわざ俺みたいな奴を気に掛け続ける理由なんてないのだから。
クラスメイト達の話し声を背中に聞きながら、俺は一人で教室を出ていった。高校生活が始まってから二カ月以上が経っている。もうほとんどクラスの人間関係は固まっていた。
竜之介達は、カラオケだかボウリングだかに行くらしい。
朝倉さんは友達と買い物。
誰にも誘われない俺だけが、いつも通り真っ直ぐ帰宅する。
慣れた光景だ。
上履きを脱いで革靴に履き替え、校舎を出た辺りでふとスマホを確認した。妹からメッセージが入っている。
……そういえば、買い物頼まれてたんだっけ。
なんてことない日用雑貨。小物入れ。
そんなもの自分で買いに行けよと思うも、特にやることのない俺は頼られるのが少し嬉しかったりする。
……百均か、駅前の雑貨屋にでも行ってみるか。
――地面が揺れた。
最初は地震かと思った。いや地震だろう。
ただ、俺が経験したことのないような大地震だった。
「――――」
声にならない声を上げ、身をかがめて揺れに耐える。
俺と同じ帰宅途中の生徒からも悲鳴が上がっている。
俺は耐えきれず、何度か地面を転がった気がする。上下左右の感覚が壊されるほどの大地震に、俺はなす術もなかった。
……数秒。
いや、体感ではもっと長かったかもしれない。
やがて揺れは収まり、恐る恐る顔を上げた。
……なんだったんだ、今の。
地震だろう。それは分かっている。
だが、こんなに早く地震というのは収まるものなのか。詳しくは知らないけど、こんないきなり起きていきなり収まるなんて、どう考えても普通では――
……バキッ、と、乾いた音が響いた。
最初は何の音か分からなかった。
足元だった。
アスファルトに、一本の亀裂が走っていた。
亀裂は止まらない。
生き物みたいに地面を這い、校門へと伸びていく。
次の瞬間――地面が割れた。
「うわあああああ!?」
「逃げろ!」
誰かの叫び声を皮切りに、あちこちから悲鳴が上がる。
だが、俺は大きく開いた地面の裂け目に、目が釘付けになってしまった。
……綺麗だ。
地面の裂け目は、底が七色ともつかない複雑な光に満ちていた。それぞれの光が生きているようにうねり、絡み合っている。少なくとも、今まで生きていて一度も見たことのない景色だった。
現実とはとても思えなくて、状況も忘れてしまうほど俺は見とれた。
その不思議な光景に気付いたのは俺だけではなく、続々と人が集まってくる。教師は流石に避難を優先させているが、生徒や通行人がスマホを構えて珍しい光景を収めようとしていた。
見れば、不思議と他の建物や道路に被害はない。それに地震が収まったことで、恐怖より好奇心が優先されているのだろう。考えてみればこんな珍しい光景二度とないのだから当たり前だ。俺もその内の一人だし。
「ちょ、押すなよ危ないだろ」
誰かが言うように、人が集まり過ぎたせいで後ろから押されるようになってくる。
こうなってくると早く退いた方がいい。いつまでも最前列にいると本当に落ちそうだし、何より騒がしい。うるさいのはそんなに好きじゃないし、それになんだか冷めてしまった。
……帰るか。唯愛に写真でも見せてやろう。
俺は名残惜しさを消すように視線を切って――背中を押された。
「え?」
前のめり、咄嗟に足を踏ん張ろうとしたが遅かったらしい。藁をも掴む思いで手を伸ばして振り返ったが、しかし誰もこの手を掴む人はいなかった。
俺の背後には竜之介が立っていた。一瞬だけ目が合う。
その目は、少しだけ歪んでいた。
次の瞬間――足元が消えた。
いじめ描写は第一話で終了になります。
成り上がりものなので、底辺からの始まりです。




