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7.書記官令嬢の自覚

曲がるべきでない方向に曲がった自分の左手の指に妙に見覚えがあり、ああこれは夢の中だ、と、すぐにわかった。

アレクがまだずいぶん若く、身につけているのも五つ花の隊長の軍服で、将軍のみが身につけることを許されている特別製ではない。

痛みに悲鳴を上げて暴れる自分を小脇にかかえるようにあっさり押さえつけて、アレクははずれた指の関節をはめ、木の枝を添え木にして応急処置をしてくれた。


ふ、と意識が浮上して、目を開ける。

(…目が覚めてしまった)

朝なのだから目が覚めてよかったのだが、夢が終わってしまったことをルデアはほんの少しだけ残念に思った。あれはたしか、雷狼の討伐のときだ。

今よりもっと馬に乗るのがへただったルデアは、戦闘中よりもむしろ何でもない移動中によく怪我をしていた。あの時はとくにひどくて、馬から落ちかけた時に手綱に絡まった指が脱臼したのだ。

そのあとはもちろん自分で手綱を握ることはできず、結局アレクの馬に一緒に乗せられることになった。その日は痛いのと恥ずかしいのとで涙がなかなか止まらなかったが、腕の中でぐすぐす泣き続けるルデアが鬱陶しかったのか、アレクは頭上にあった赤い花の一枝を折って、ルデアの顔に押し付けるように持たせた。

「これでも見ていろ」

それは、以前にルデアが好きだと言った花だった。ちぢれたような花弁がぎゅっと集まって小さな花を咲かせ、ほのかに甘く、それでいて爽やかな香りのする…

「ルデア、何を…考えているの?」

母のかすれ声がして、ルデアは今度こそ、完全に夢から覚めた。上半身を起こしたままで、夢の続きを追ってしまっていたようだ。

「お母さま、ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてしまって。何か食べる?」

「いいえ…今は…いいわ。それよりも」

母があまりにも穏やかに、幸せそうに笑っているので、ルデアは首をかしげた。

「あなたも…そんな顔を…するのね」

「え?どんな顔?」

「幸せで…愛おしくて…たまらないっていう…顔よ」

「……えっ?」

母はルデアの戸惑いをよそに、ふふっと笑って、目を閉じてしまった。

「今日は…お仕事は…あるの」

「いいえ、特には。家のほうを見に行こうと思っているけれど、何か持ってきて欲しいものはある?」

「いいえ…でも…帰りに…りんごのジュレ…買ってきてくれる?」

「りんごね、わかった」

母は相変わらず、見たことがないほど満足気な笑みを浮かべている。なんとなく居心地がわるくて、ルデアはさっさと着替えて、出かけることにした。


軍服でない服に袖を通すのは久しぶりだ。雲でも着ているかのようなふわふわとした心地でなんとなく落ち着かないが、これといって任務のない日に軍服を着て出歩くと、無駄に威圧感がある。

瞳の色と合わせた緑色のワンピースは療養所に置いてある唯一の私服で、以前着たときよりも少し緩くなっていた。

(やっぱり遠征は消耗する…かといって、わざわざ別のを買うほどでもない)

外はきんと冷えているが無風で、穏やかな快晴だ。軍靴と比べるとこれまた雲でも履いているような心地の柔らかい革の編み上げ靴で、ルデアはふわふわと丘を下っていった。


いくつかの店に立ち寄りながら最終的に向かう先は、ルデアが育った家だ。母が療養所に入ってからはルデアが一人で住んでいる。遠征で長く空けたあとの家はどこか寂しい匂いがして、ルデアはその扉と窓を全部いっぱいいっぱいに開け放ち、新しい空気を入れた。

災害獣に可能な限り早く対応することを至上命題とする討伐軍は5年ほど前から、王国の一都四州あちこちに点在するように拠点を持つ方法を採っている。災害獣の目撃情報や討伐依頼はまず最寄りの拠点に駐留している部隊が受け、将軍アレクの直属の遊撃部隊が駆けつけるまで、災害獣の被害を最小限に抑えることに注力するのだ。

ルデアが所属しているのはこの、王国中を縦横無尽に駆け回る遊撃部隊なので、家に帰ってこられる時間はとても貴重だった。

古いソファに寝そべって目を閉じる。冷たい風に洗われて、ほこりっぽい匂いの向こうに隠れていた懐かしい我が家の匂いが、ルデアを優しく受け止めている。


そのまま微睡んで朝方の夢の続きを見れないものかと思ったが、冷たい風と空腹とに妨げられてその希望はかなわなかった。小さく身震いをしながら元通りに窓を閉めて回り、これまた長く使っていなかったかまどに火を熾す。

といっても、道中に買い込んできたパンや串焼きの肉を軽く炙るだけだ。いつどれだけ家をあけるかわからない今の状況では、食材を買っておくことはできない。

(…もしだれかと結婚したりしたら、またこの家で料理をする日も来るのだろうか)

唐突にそんな考えが脳裏に浮かんで、ルデアは思わず火かき棒を強く握りしめた。母は絵に描いたような貴族令嬢だったから料理はあまり上手ではなかったけれど、ここで父のためにいつも一生懸命に料理を作っていたし、ルデアは母をよく手伝っていた。かまどの前に立った途端、その光景がまるで昨日のことのように鮮明に眼前に立ち上ってきたのだ。

しかし思い出の濁流に流されている暇はなかった。

パンが焦げる匂いでルデアは我に返り、あわてて火を小さくして、温かい昼食にありついた。


昼食を終え、母のためのりんごのジュレを買ったあとも、まだ太陽はずいぶん高い。ルデアは片手に菓子店の紙袋を提げたまま何とはなしにただ歩き続けて、療養所のそばも通り過ぎた。そのまま行くと、やがてこの州都を囲む城壁の一層目にぶつかる。

城壁は人の背の2倍ほどの高さで、ところどころにさらに高い物見の塔が組まれている格好だ。城塞都市とくらべればずいぶん簡素な城壁ではあるが、州軍が絶えず見張りに立って、都市に出入りする人々を監視している。

一般人が上ることができない城壁の上に、ルデアは討伐軍の一員として立ち入ることができる。壁の上からの景色はルデアのお気に入りでよく訪れるので、州軍の歩哨たちもルデアのことを覚えていて、軍服を着ていないにもかかわらず軽く目礼をしただけでルデアを通してくれた。


しかし城壁の上には先客がいて、一人で少し考え事を整理しようというルデアのささやかな計画はあっさり頓挫することとなった。後から振り返ればあるいはそれは、人が運命と呼ぶものに限りなく近いものだったかもしれなかった。

城壁の上に設けられた歩廊には腰の高さほどの石壁が両側に設けられている。これが城塞都市なら矢を射掛けるための銃眼や狭間が設けられるところかもしれないが、この壁はただ手持ちの燭台を置ける小さなくぼみが作ってあるだけののんびりしたものだ。

アレクはその壁に両肘をついて上半身を預けたような格好で、見るともなしに空を眺めているところだった。その力の抜けた様子だけを見れば、これがまさかあの雪豹将軍だとは思いもよらない。

どちらかといえば窓辺で丸くなっている猫のようなその風情に、ルデアは何とはなしに引き寄せられて、並んで空を見上げた。ちぎれた綿花のような小さな雲が風に乗ってゆっくりと流れているのを目で追っているうち、ルデアはふと心に浮かんだ疑問を、そっと声に乗せた。

「引退したら、何がしたいですか」

一般的に、討伐軍の軍人の引退は早く、将軍も5年とたたずに代替わりすることが多い。少しの衰えも許さない過酷な任務であるということもそうだが、現役で十分通用する軍人たちをあえて後進の育成や補給部隊に回すことで、訓練課程と後方支援の質の向上を目指し、ひいては死亡率を低下させようという方針が取られているからである。アレクももう、第一線を退くことを考え始める年齢のはずだった。

一瞬の間があって、アレクはぽつりと答えた。

「本が読みたい」

「本、ですか」

「知っての通り、おれには学がない。訓練課程でしごかれて、いちおうなんとか読み書きができるようになったが、それだけだ」

脳裏に我が家の2階がよぎった。床から天井までぎっしりと詰まった本棚。ゆっくりと腰を落ち着けて本を読み耽ることのできるひとり掛けのソファ、回転させることで明るさを調整できる細工のあるランプシェードに、ルデアが幼い頃から溜め込んできた、色も形も大きさもさまざまな本の栞たち。

「娯楽小説のようなものを、お読みになりたいということですか」

「ああ、そうだな」

空に向いていた視線がまっすぐに、こちらに向けられる。

「何か選んでくれるか」

黄玉の瞳の奥に何か、見慣れないような、それでいて安心するような、不思議な色の光がともっている。

「ええ、もちろんです。引退祝いは本棚にしましょうか」

アレクはルデアの答えに満足げに口元をゆるめて、空を泳ぐ雲に視線を戻した。


しばしの心地よい沈黙の後、今度はアレクのほうが、ふと問いをこぼした。

「なあ、ゼトには話したのか」

「何をですか」

空に据えられたままの一対の黄玉は、先ほどとはうって変わって硬い光を放っているように見えて、ルデアはあれ、と首をかしげた。

「結婚式をする相手を探していること」

「いいえ」

「ゼトなら喜んで協力しそうに思えるが」

「…ゼトさまのご実家やご親戚のことを考えると、あまり」

「貴族の家の力関係とか、そういうことか」

「そういうことですね」

顔を空に向けたまま、彼の視線だけがこちらに向いた。

「他には誰に話した」

「まだ、誰にも」

「そうなのか」

なぜだか機嫌がなおったように見えるアレクに、ルデアはずっと気になっていたことを尋ねてみることにした。

「アレクさまは、変な話だとお思いにはならなかったのですか。もう少しで死ぬ母のために、結婚式だけしたいなんて」

アレクは体ごとこちらに向き直って、答えた。

「今の質問のほうが変だとは思わないか」

「…そうでしょうか」

「おれがもし、それを変な話だと思うような人間なら、まずおれに話を持ってきたりしないだろう」

「…確かに、そうですね」

言われてみればたしかにその通りで、ルデアはこくこくと小さく頷いた。

「なあ、おれは」

そっと差し出すように、言葉が紡がれていく。

「おれは学も品もないし、あなたのお母上に気に入られることができるかどうかはわからないが。しかし少なくともあなたはおれを信用してくれていると思うし、おれもあなたのことは信頼して、尊敬しているつもりだ」

「……それは、どういう」

アレクは天を仰いで、白銀の髪を両手でぐしゃりと掴んだ。

「どういう意味だろうな。おれもよく分からなくなってきた。ただ…」

「ただ?」

「あなたは、あなたが素晴らしいひとだということを、もう少し自覚してもいいのではないかと、おれは思う」

ストックここまでなので、今後はおそらく隔週更新くらいのペースになります。

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