5.書記官令嬢の婚約
療養所に戻ると、母は静かに寝息をたてていた。
部屋の隅にあるクローゼットをそっと開けると、やわらかなくちなし色と甘い香りがふわりとあふれ出た。母が昨日買ったばかりの新しいドレスだ。やせた体に負担にならないよう柔らかく軽い布で仕立てられていて、それでいて貧相に見えないように工夫が凝らされているし、焚き込まれた香はいやらしくなく優しく香る。染め方や刺繍の仕方に技があるのだろう、淡目の色合いであるにもかかわらずとても華やかな印象だ。ひとりでは着替えられないデザインでもあるし、療養所で気分転換に着替えるにしてはあまりにも豪勢すぎて、
(…まるで、結婚式かなにかに参列するための、装いのような)
母はやはりルデアの結婚を見届けてから逝きたいのだろう。母にとっては、それが幸福の定義なのだから。
ルデアの母親は富も権力もさほど強大ではないが由緒正しい貴族の家の末娘である。適齢期になって婚約者を探していた母は、家族とともに北州に旅行に来た折に、州都で書記官をしていたルデアの父親が市場で詐欺まがいの商売をしていた商人をやりこめたところに居合わせて、そのまま一目ぼれして押しかけるかたちで結婚した。書記官としての勤勉な仕事ぶりが評価されていたルデアの父親は、州侯の推薦によって国王から一代限りの貴族位を授与されていたから、家柄にずいぶんな格差があるとはいえ無理すぎる結婚でもなかったそうだ。
つまり、ルデアは名目上は貴族令嬢として生まれたわけである。普通の平民とほとんど変わらない暮らしをしてはいたが、母親は自分が施されてきたのと同じ教育をルデアに施してくれた。そしてルデアが15歳の時には、自分の実家のつてをたどって、ルデアに婚約相手を見つけてきたのだった。それが母としてルデアにしてやれる最高のことだと、真剣に考えていたのだろう。
ルデアは11歳の時に能力を発現させて、書記官の訓練を父親から受けていた。書記の能力は貴重であると同時に狙われやすくもあったから、ルデアの両親は彼女が能力持ちであることをできるだけ隠しておこうとしていたのである。婚約者はルデアの母親の実家よりも格上の大貴族の家の三男で、これはその家がゆくゆくは書記官ルデアの庇護者となってくれることを期待しての措置でもあった。初対面の相手と婚約するというのがどうにも自分には合わないような気がしていたルデアだったが、母がこんこんとこの婚約の利を説くので、とくに言い逆らうこともしなかった。
身分的に格差のある婚約がなぜ成ったかといえば、ルデアの婚約者が貴族にしては珍しく特殊能力を全くもたないという、ある種の瑕疵があったことによる。能力持ちの中にも強弱はあるし、高位貴族の子女であればわざわざ訓練を積んで能力を活かした職につく必要もないので、かならずしも能力なしが社会的に不利というわけでもなかったが、彼は北州の州軍訓練所に、ルデアは書記官訓練所に通い始めると、2人の間の溝は広がる一方になった。
今から振り返れば彼の気持ちも理解できないこともない。自分に能力がないばかりにずっと格下のほとんど平民のような相手、しかも特段美人でもなければ愛想もない相手と婚約して、家族から離れ、住み慣れない北州に引っ越すはめになったのだから。
しかしルデアもあの時は訓練でいっぱいいっぱいだったのだ。能力を持って生まれたからといって自動的にそれを使いこなせるわけではない。いくら父親から少しずつ習っていたとはいっても、はじめのうちは失敗ばかりで両手は火傷だらけ、体力の消耗も激しかった。それに、正確な記録には正確な語彙と正確な知識が不可欠なので、覚えなければいけないことが無限にある。書記官の必要な商取引や司法取引に関しては、裁判官に引けを取らないくらいの知識量が必要だし、施薬院や医療院で医術研究の記録をする書記官たちは、薬師や医療士たちのつかう、数種類の外国語が混じった言葉に精通していなければならない。そうして心身ともに疲れ切っているところに、気分転換に遠乗りに行こうなどと誘われても、生来の性格があまり外交的でないルデアの心は頑なになるばかりだった。
折しもルデアの父親の体調が悪化し始め、婚約者の姉と妹の嫁入り準備は佳境にはいって、どちらの家族のおとなたちも二人の関係が冷え切っていることに気が付いてやる余裕はなかった。18になったルデアが書記官訓練所の卒業試験に無事に合格するのを見届けて、父は息をひきとった。
国立医療院北州分館付きの書記官になったルデアはますます忙しくなった。薬師や医療士たちが獣皮紙に書き取ったさまざまな記録や報告のうち重要なものを、いわば”清書”していくのが彼女の最初の仕事だったが、家に帰って眠ることができるのは3日に1回程度というありさまで、年頃の女子らしく装うことも、本来ならそろそろ結婚の準備に入るはずの婚約者とのことをまともに考えることもしていなかった。
アレクと知り合ったのもこのころのことである。書記官になって最初の夏に、獣や人の赤子を主食とすると言われている痺光蛇という災害獣が北州南部の田園地帯で目撃され、その討伐のためにやってきた部隊の中に彼はいた。
親衛軍や州軍と異なり、討伐軍には専属の書記官がいない。そのことは書記官訓練所の授業の中で聞いてはいたが、その問題の深刻さを目の当たりにしたのもこのときだった。討伐の行程で蛇の毒にあたった者たちのために、ルデアは数人の医療士たちとともに現場に急行したが、薬が間に合わず亡くなった兵士が数人いた。
「申し訳ないが嬢ちゃん、こいつらの死亡証明書を作っちゃくれねえか」
ルデアは目を瞬いた。
「それはもちろん、そのつもりでしたが」
「ありがとよ、本当に助かる」
「…書記官がいないときは、どうされているのですか」
「将軍や隊長の署名入りで手書きの書面を作って送る」
「きちんと受理されますか」
うーんと言葉を濁されて、ルデアは答を悟った。
「されないのですね。討伐軍への特例として、将軍や隊長の直筆の書面は書記官の書面と同等の拘束力をもつ、と定められているはずでしたが」
「…まあ、破られたり濡らされたりされれば、おしまいだから。そんなものは受け取っていないと言い張られたら、あまり勝ち目がなくてな」
任務中に死亡したことを証明する書面がなければ、死亡に伴う特進もなく、遺族が慰労金を受け取ることも難しくなる。
「慰労金が、払われないということですか」
「払われないことはないな。ただ何度も書面の再提出を求められる」
「なんのために」
「なに、ただの嫌がらせさ。もし本当に慰労金が払われなくなっちまったら、討伐軍に志願するやつなんていなくなるだろ。そうなったらそれはそれで困るのさ、お偉方は」
貴族令嬢として、外泊が多いのは決して褒められたことではない。そのうえ今回は、女性も多い医療院での残業とは違って完全に男所帯の討伐軍のもとでの外泊で、ただでさえ関係の悪かった婚約者との関係はこれで決定的に決裂することになった。生粋の貴族の貞操観念で育った彼に対しては、いくら言葉を尽くして男性と二人きりになったことはない、書記官としての職務を全うしただけだと言っても全く通じなかった。ルデアの母はこの頃になって初めて二人が全くうまくいっていないことを知って衝撃を受けていたが、婚約者がとうとう堪えかねてルデアの悪口を散々書き連ねた手紙を両親に送ってしまった後だったので、もう何をすることもできなかった。ルデアはあっさり男漁りの激しい身持ちの悪い娘ということになって婚約を破棄され、元婚約者はいくらもたたぬうちに、ルデアとは似ても似つかぬ可愛らしい花屋の娘と所帯を持った。
父の死からもまだ立ち直れていないうえ、貴族の後ろ盾をあてにできなくなり、婚約破棄に自分より傷つき落ち込んでいる様子の母と顔を合わせるのが気まずくて、ルデアは仕事に逃げた。婚約など、結婚など、しなくても自分は生きていけるのだと母に証明したかった。
しかしルデアに貴族の婚約者がいることは仕事でかかわる人たちの間でも広く知られていて、明らかな嫌味や当てこすりを言ってくる人たちだっていないわけではなかったし、そうでなくてもなんとなく視線を感じて居心地の悪い日々が続いた。そして半年後に討伐軍がまた州都にやってきたとき、ルデアは討伐軍の直属になりたいと、州侯に直談判する運びになったのだった。
「お前、足を引っ張るなよ」
「お言葉ですけど、引っ張りますよ、わたし馬にだってまともに乗ったことないんですから」
これがアレクとルデアの最初の会話である。当時は50人隊長だったアレクはルデアの護衛と世話を任されることになり、アレクの隊の隊員たちは最前線から遠ざかれたことを喜んでいたが、アレクは相当に不機嫌に見えた。そうだった、あのころは、名前で呼ばれてもいなかったのだ。
それから7年もの月日がたった。アレクは将軍位にまで上り詰め、ルデアも討伐軍直属の唯一の書記官として、名誉貴族位を下賜されている。母はルデアの昇給や勲章に対して、おめでとう、と声をかけてはくれるが、そのたびに目に見えない冷え冷えとした壁のような何かが2人の間に生まれていっているような気がしてならない。
いい加減認めなくてはいけない。自分は母との向き合い方を間違えたのだ。母も自分との向き合い方を間違えていたかもしれない。その間違いを正すために残されている時間は、本当にわずかしかない。この時間を無駄にしたら、きっと自分は一生、後悔を引きずって生きていくことになるだろう。




