第1話 婚約破棄されました
「シイラ・フォン・ヴァレンシュタイン。お前との婚約を破棄させてもらう!」
王国の王太子、レオンハルト・クラウゼルの声が、天井の高いパーティ会場にこだまする。
大好きな、大好きだった人。一生懸命作法を覚えて、勉強をして、王太子妃になるための教育を受けて。
この17年間、お母様の修行も耐えてきた。そしてやっとこのお方の婚約相手になれたのに。
いったいどうして——?
次の瞬間、視界が真っ暗になって、思わずその場にしゃがみ込んだ。
朦朧とする意識の中に、ある記憶がよみがえってきた。
(え? たくさんの人が乗っている電車で、小説を読んだ過去? それに、会社員の私!?
ここって、もしかして……前世で読んだ、『王太子に溺愛されすぎて困ってます』の世界!?)
異世界恋愛小説『王太子に溺愛されすぎて困ってます』は、レオンハルト・クラウゼル王太子と、ヒロインのエミリア・アーデルが結ばれる、ハッピーエンドのお話だ。
剣と魔法がある世界の、王立アカデミーを舞台にした恋愛小説なのに、くだけた感じの令嬢が出てきて、彼らの掛け合いの面白さにいつも元気をもらっていた。
日本で会社員をしていた私は、連日続く激務に悲鳴をあげていた。帰宅はいつも終電間近。
それに、なんとか会社を辞めたくて、同時に転職活動もしていた。
通勤時間に小説を読む時間だけが癒しだった。これが文庫化したときは手を叩いて喜んだし、レオン様のグッズを死に物狂いで集めて自室に神棚を作っていた。
しかし、どうやら、たった今婚約破棄をされてしまった私は、悪役令嬢のシイラに転生してしまったらしい。
思い返してみれば、金髪のロングヘアにゆるめの巻き髪、つり目に鮮やかな赤色の瞳は、全てが悪役令嬢の定番要素だ。
そして、婚約破棄された悪役令嬢は、しまいには……。
(……あれ、一体その後、私はどうなるんでしたっけ……)
次第にめまいが収まっていき、恐る恐る顔を上げると、訝しげにこちらを見下ろすレオン様と目が合った。
驚くほど洗練された光り輝く金髪に、エメラルドグリーンの宝石のような瞳。
心の奥底には、シイラがずっと抱いていた、レオン様が好き、という気持ちがまだ残っているようだ。
でも、前世の記憶を取り戻した私は、自身が悪役令嬢で、レオン様とエミリア様が結ばれると知っている。
ここは一刻も早く、身を引かなければならない。
ほら、皆、私の返答待ちだ。
「……し、承知いたしました。婚約破棄を、お受けいたします」
震えそうになる声をなんとか抑えながら、やっとの思いでそう答えた。
周囲にどよめきが広がっていく。
大好きだった、レオン様。こんなに好きになった方は、前世も今世を探しても、彼一人だろう。
もう二度と恋なんてしない。
私がうずくまっていても、誰も手を差し伸べてくれる人がいないどころか、声さえかけてくれなかった。
持参していたハンカチでは隠し切れないほど、大粒の涙が頬を伝り、パーティ会場の深紅の絨毯を汚していく。
しばらくして、誰かが背中をさすってくれているのが分かった。
「シイラ様、お顔色が悪いようですので、救護室までご案内しますわ」
ヒロインのエミリア様のようだ。
彼女にそう促され、私はパーティ会場を後にする。
「あの、今日は帰ります。迎えの者も待機してもらっています。もう、本当に大丈夫なので」
「あら、そうですか……では、お気をつけてくださいね」
私に声をかけてくれた上、廊下まで見送ってくれたエミリア様は、なんて優しいんだろう。
でも、あのときの私は本当に間抜けで正真正銘のアホだったということに、後から気づくことになる。
♢♢♢
帰りの馬車の中で、私は泣き続けた。護衛の者が心配そうに何度もこちらを振り返っていたが、どう接していいか分かりかねているようだ。
泣きはらしてようやく涙が止まってきた頃、ゆでた卵のような、不思議なにおいが鼻をくすぐった。
「……これは何の匂いでしょうか?」
「硫黄の匂いですね。この先に温泉があるんですよ」
「温泉……?」
(そうだ。社畜時代の休日の楽しみは、温泉に入ることだったわ。
スーパー銭湯。1回550円。入浴後にいつもかかさず飲んでいた、きんきんに冷えた牛乳を思い出す。
それに、泣きはらした顔を洗いたい気持ちもあった。このまま帰っては、お母様に心配されてしまうだろう。
「……ねえ、寄ってくださらない? あの温泉」
♢♢♢
パーティ会場からの帰り道に見つけた温泉は、控えめに言って天国だった。
特に窓から見える景色は絶景だ。近くが海岸になっていて、遠くの方まで見渡せる。
(気持ちいい……こんなに気が抜けたのは、いつぶりかしら)
涙も枯れ、久しぶりにリラックスできた気持ちになって、いろんな感情が湧き出てくる。
婚約破棄をされて取り乱してしまったけれど、私はまだ、国外追放されたわけじゃないんだ。
『王太子に溺愛されすぎて困ってます』の世界では、婚約破棄された悪役令嬢は、さらにヒロインへの嫌がらせを行い、最後には国外追放されるという展開だった。
ヒロインをいじめた記憶がないのが不思議だけど、前世の記憶が入ってきて、まだ混乱しているのかもしれない。
(これ以上、2人には近づかないようにしよう。そうすれば、きっと大丈夫よね)
でも、これまで期待をかけて教育をほどこしてくれたお母様とお父様には、何と伝えたらいいのだろう。
怒られる? 呆れられる?
こんなにのんびりとしていられるのも今日だけかもしれない。
ほんの、束の間の幸せ。
明日から、私は一体どのように過ごすことになるのだろう。
(毎日温泉で、こうしてのんびりできたらどんなにいいでしょうか……)
世界各地の温泉を巡って、いろんな景色を見られたら、どれだけ幸せだろうか。
そんなことを考えていたら、すっかりのぼせてしまった。私は意外と、のぼせやすいのかもしれないというのは新たな発見だった。
受付で買ったふかふかのタオルに身を包み、濡れた身体を拭いていく。
洗面所で速乾ドライヤーを見つけて、その風の威力には驚いた。
もうじき日が暮れてしまいそうだった。今日はひとまず、急いで帰ろう。
けれど、温泉施設を出るところで、私は重大な過ちを犯していることに気がついた。
(あれ……靴箱の鍵、どこにしまったのでしたっけ……?)
どれだけ鞄の中を探しても、鍵が見当たらない。それに、どこかにしまった記憶もない。
脱衣所のロッカーや歩いた経路を探しても、どこにも落ちていなかった。
フロントに行ってみるものの、休憩中の看板が置かれ、不在用のベルを鳴らしても音だけが虚しく響いた。
(誰も、いない……どうしましょう。このまま裸足で外に出たら危ないかしら)
すっかり困り果ててしまった。迎えの馬車を停めている駐車場まではかなりの距離だ。
どうにかしてここを脱出しなければと、考えていたその時。
「何かお探しですか?」
「え?」
すぐそばで声がした。
振り向くと、銀髪にコバルトブルーの瞳が綺麗な、背のスラリとした青年が、心配そうにこちらを見つめていた。




