第一話「異世界初出勤」
第一話「異世界初出勤」
「ふむ……異世界か」
気づけば知らない空間に立っていた。
味気のない場所だった。白い床に白い壁。どこまでも続くかと思われる無機質な空間の真ん中で、目の前には一人の女性が立っている。どのような経緯でここに来たかは——そう考えた瞬間、真の腕に、かすかな痺れが走った。
バチン。
あの音が、まだ骨の奥に残っている。
「異世界召喚ってのは、もっとこう、派手なものだと思っていたなぁ」
光の柱だとか、神殿の階段だとか、あるいは神々の声が頭に直接響くだとか。そういうものを期待していたと言えば嘘になるが、少なくとももう少し、ドラマチックな展開を想像していたのは確かだ。現実は違った。
「……独房の方がマシだわ」
あの日も、朝から雨だった。
配達リストは残り四十七件。アパートの外階段は鉄骨むき出しで、手すりは雨に濡れて鈍く光っていた。四段目を上がったところで、靴底が滑った。とっさに手すりを掴もうとした左手が、濡れた鉄を滑る——バチン、という音のあと、視界が白く染まった。心臓が一瞬で握り潰されるような感覚。頭をよぎったのは「配達リスト、まだ終わってない」だった。
発見されたのは翌朝だったらしい。ニュースにもならない、小さな事故死。ポストに入りきらなかった通販の段ボールが、雨に濡れてふやけていたという。四十二年間、誰よりも正確に、誰よりも早く届けてきた男の最期が、たったそれだけだった。
だから、なのかもしれない。
真は目の前の白い空間を見渡しながら、妙に落ち着いていた。死んだはずの自分がここにいることも、これから何かが始まることも、すべて「新しい職場に配属された」くらいの感覚で受け止めている。休むより働く方が落ち着く。予定のない空白の時間ほど、彼を不安にさせるものはなかった。死んだことよりも、配達リストを途中で放り出したことの方が、よほど心に引っかかっている。
「よくぞ来た、勇者よ」
広い空間の真ん中で囁かれた声は、物理的な距離感によってうっすらとしか聞こえなかった。
「……はぁ!聞こえねーよ!」
「よ・く・ぞ・来た——」
「大きな声で頑張ってないで、こっち来いやぁぁぁぁ!」
真ん中にいた女はゆっくりと立ち上がり、駆け足で向かってきた。
その待ち時間で真は考えた。今、自分の頭に入り込んでいる情報を整理する。勇者。異世界。召喚。それから——死。細かい事は分からないが、何かの目的でここに召喚されたわけだ。
(……まあ、何でもいいけど。仕事ならやるだけだ)
「はぁ……はぁ……よくぞ来た、勇者よ」
女神はそう言った。声は澄んでいて、よく通るのに耳障りではない、不思議な響き——そんな期待は見事に裏切られた。よく見れば髪は微妙に寝ぐせがついているし、服の裾には昨日のものか、うっすらとシミがある。なによりその態度には神々しさの欠片もなく、徹夜明けの同僚を見ているようだった。
真は一瞬だけ彼女の顔を見て、それから周囲を見渡した。白い空間には他に誰もいない。つまりこの女性が、自分を召喚した張本人であり、これから指示を出す立場の者だ。
「あの、すみません!」
真は手を上げた。軽く、配達先で「こちらに荷物をお届けに参りました」と言う時の所作だった。
「あんた、女神様だよな?俺がいた世界、俺仕事中だったんだけど、現世は時間が止まっている感じですかね?」
こほん、と咳払いをしてから女は答える。
「いかにも!私は女神であーる!まず質問に答えよう!大黒真よ!お前は急に失踪した行方不明者になる!現世ではお主を見つける事も出来ないから安心するが良い!」
「……了解」
真は短く答えた。表情は変わらない。今の言葉で自分の人生が完全に途切れたというのに、気にする素振りすらない。ただ、新しい職場に配属されただけ——そんな顔だった。
(見つけることも出来ない、か。まあ、誰も探しちゃいないだろうけどな)
実家とは十代で縁を切り、結婚もせず、友人はいつの間にか疎遠になった。職場では頼りにされていたが、プライベートで彼を訪ねる者など一人もいなかった。だから、自分が消えたところで、この世界の誰も困らない——いや、唯一困るとすれば、あの日届けられなかった四十七件の荷物の宛先人だけだ。そのことが、ほんの少しだけ、胸の奥でつっかえている。
「そして、お前を召喚した理由だが……」
ここから、ひたすら長い説明が五分ほど途切れなく続いた。
「女神さん!何か?要約すると、この世界を守ってください、ということでよろしいですか」
女神の眉が、かすかに動いた。
彼女はその後、さらに長々と説明を続けた。魔族のこと。人間界の危機。勇者に与えられたチートスキル。神界の役割。世界の成り立ち。
真は黙って聞きながら、そのすべてを頭のなかで三点にまとめた。
一、この世界には困っている人が大勢いる。
二、自分にはそれを助ける力がある。
三、つまりやるべきことは一つ。
「わかりました。では、早速仕事に取り掛かります」
真がそう言った時、女神の話はまだ終わっていなかった。なにせまだ、勇者としての権能や、神界が与える加護、魔王軍の脅威度に至るまで、説明すべき項目は山ほどあったのだ。
「ちょっと!……話は最後まで聞きなさい」
「すみません、長い説明はあまり得意ではなくて」
「これでも要約したのだけれど」
「そうなんですか。では要点だけもう一度」
真の目は真剣だった。嫌味でも反抗でもない。本当に、要点だけ知りたいのだ。配達員は長話をしない。相手の要望を聞き、宛先を確認し、最短で届ける。それが彼にとってのコミュニケーションだった。
女神は何かを言おうとして、やめた。
神界で幾人もの勇者を送り出してきた女神だが、こういうタイプは初めてだった。異世界に召喚された驚きも、女神を前にした畏怖も、勇者に選ばれた栄誉も、まるで感じていない。ただ、新しい職場と新しい上司を前にしたかのような冷静さだ。何より気になったのは、その目の奥だ——生きている人間の目ではない。一度死んだことを、すでに受け入れきっている目だった。
「……まあいいわ。あなたを下界のギルドに配属する。まずはそこの指示に従いなさい」
「了解しました。配属先はどちらでしょう。できれば地図をいただけますか。なければ描きますが」
女神はため息をつき、手をかざした。
「もういいわ……あなたの身体は二十歳くらいの状態に構築しておく。下界のことよろしくね。……ったく、話を聞かない男は嫌いよ」
最後の一言は小声だったが、真には聞こえていた。だが彼は特に気にした様子もなく、「了解です」とだけ答えた。
(嫌われるのには慣れている)
上司にはいつも煙たがられた。正確すぎるからだ。効率的すぎるからだ。休まず働くから、周囲がサボれなくなるからだ。だから異世界でも同じことを言われるなら、むしろ安心するまである。
次の瞬間、真の体は光に包まれ、下界へと転送された。
「おお!これは美しい景色だ!」
転送された場所は、RPGのような世界観の街並み。学生時代はゲームが全てだった彼にとって、心踊るものがあった。
石畳の道の両脇に立ち並ぶ木組みの家々。遠くに見える城の尖塔。空を横切る見たこともない鳥の群れ。風に乗って届く、焼きたてのパンと干し草の混ざった匂い。
「マジかよ……完全にファンタジーじゃねぇか……」
真は思わず笑っていた。四十二歳、元郵便局員。そんな自分が、今、ゲームの世界に立っている。人生何が起きるかわからない。
しかし、次の瞬間には彼の目つきが変わっていた。
無意識に、街路の両脇を確認していた。表札はない。郵便受けもない。呼び鈴も、インターホンも、建物に取り付けられたどの装置にも、配達先を示す印は一切なかった。道には番地の表示すらない。
(届け先がわからん……いや、今は配達じゃないんだった)
真は小さく首を振った。四十二年間染みついた習慣は、異世界に来ても彼を離さないらしい。
それどころか、彼の脳裏には別のチェックリストも浮かんでいた。郵便受けがないなら、呼び鈴もない。表札もなければインターホンもない。これ、どうやって住人を呼び出すんだ?直接ドアを叩くのか?現世の郵便配達員として、真は毎日三百件以上の配達先を回っていた。そのたびに、郵便受けの位置を確認し、呼び鈴を押し、表札と宛名を照合し、インターホンがあれば応答し、不在なら不在票を入れる——その一連の動作が、もはや呼吸と同じレベルで身体に刻み込まれている。異世界に来ても、そのスイッチは切れなかった。
(まあいい。そのうちわかるだろう)
真は気を取り直し、歩き出した。
「ギルドかぁ!行ってみるか!」
女神から渡された地図を確認する。
【街のはずれに位置するその建物は、石造りで二階建て、入口には「冒険者ギルド」と書かれた看板がかかっている。】
「……これ、地図じゃなくて建物の特徴しか書いてねぇぇぇぇ!」
まだ夜が明けたばかり。朝日が東の山を白く染め始めた時刻だ。街の人々はまだ眠っており、聞こえるのは遠くの鳥のさえずりだけ。
「まあ、配達と一緒だ。知らねぇ町は歩いて覚えるしかねぇ」
真は地図もどきをポケットに突っ込むと、迷いのない足取りで歩き出した。新しい配達区域を任された時にやってきたことだ。道を覚え、目印を見つけ、家の並びを把握し、最短ルートを頭に叩き込む。異世界の街中を歩きながら、真の頭の中にはすでに「この街の全戸を回るとしたら、どの順番が最短か」という計算が走り始めている。もちろん今は配達の仕事ではないのだが、その思考を止める術を、真は知らなかった。
街を彷徨い歩き、ついに該当する建物をみつけた。
「ごめんくださーい!……鍵が空いてるな」
ギルドの中に入り、まず周囲を見回した。フロアには長机がいくつか並び、壁には依頼書が貼られた大きな掲示板がある。受付カウンターの上には書類の束、使いかけのペン、飲みかけのカップ。昨日の誰かの業務の残滓があちこちに散らばっている。
「これは……」
真は無言で袖をまくった。
隅に置かれたホウキを手に取り、まず床の埃を掃き始める。次にカウンターの上の書類を手に取り、一枚一枚内容を確認しながら分類し、整頓していく。飲みかけのカップは洗い、ペンは一本にまとめて立てた。掲示板の依頼書は期限順に並べ替え、破れかけた端を丁寧にテープで補修した。
机の隅で、封の切られていない一通の手紙を見つけた時、真の指が一瞬止まった。差出人の名はなく、宛名だけが丁寧な字で書かれている。ただし、その宛名はかすれて読めない。
(開けるわけにはいかないが……捨てるのも違うな)
「手紙は届いてこそ意味がある」
真は手紙の埃を丁寧に払い、カウンターの引き出しにそっとしまった。持ち主が現れたら渡そう。たとえ中身を知らなくても、届けるべき人がいるなら、そこに届ける。それが配達員としての流儀だった。異世界でも、それは変わらない。
そういえば前の職場でも、朝一番にすることは決まっていた。掃除。整理。今日の配達リストの確認。異世界に来ても、やることは変わらない。むしろ——
(さて、と…仕事があるっていいな)
この感覚を、真は当たり前のものだと思っていた。休むことの方が落ち着かない。空白の時間ほど、彼を不安にさせるものはなかった。配達リストに追われている方が、まだ息ができる。
三十分後、最初の職員が出勤してきた時、ギルドの床は磨き上げられ、受付カウンターの上は完璧に整理され、来客用の椅子はひとつひとつ整えられていた。窓から差し込む朝日が、きれいになった床を輝かせている。
「な、なんだこれは……?」
職員の男——四十代半ば、少しくたびれたシャツを着た、このギルドの副長だ——は、自分の目を疑った。昨日まで散らかっていたカウンターが、まるで違う場所のように整然としている。そればかりではない。床には埃ひとつなく、窓ガラスに至っては指紋の一つも残っていない。
「おはようございます」
声がして、副長は飛び上がらんばかりに驚いた。カウンターの影から、見慣れない男が立ち上がる。見た目は二十歳そこそこだが、その所作は妙に落ち着いている。手にはモップが握られ、袖はまくられたままだ。
「本日着任しました、大黒真と申します。朝の清掃、ひと通り済ませておきましたが、至らない点があればご指摘ください」
「お、おはよう……ございます」
「ギルドの規則についてご教示いただけますか。就業時間、休憩時間、依頼の受注方法、報告書の書式など、一通り把握しておきたいのですが」
副長はしばらく呆然としていたが、やがて思い出したように声を上げた。
「おまえ、まさか勇者様か……!?」
「勇者と呼ばれることもあるようです。ですが、どうぞ真と呼んでください。肩書きはあまり気にしませんので」
「肩書きを気にしない勇者……」
副長は頭をかきながらも、とりあえず真を中に招き入れ、ギルドの業務について説明を始めた。依頼の受け方、報酬の仕組み、ギルドの階級制度。真はそれを一言も聞き漏らすまいと、真剣な表情で聞いている。
「で、今日の依頼——」
「ありがとうございます。どれから手をつけましょうか」
「勇者様にはまず、手始めに流れから、簡単なものからと思っております。この薬草採取なんか如何でし——」
「ちょっと待ってください!」
真は説明に割り込んだ。
「その、様とか敬語とかやめてもらえませんか?どうも苦手で…普通に話してください。あと、簡単な依頼ということであれば、なおさら早めに終わらせて他の業務にも入りたいので」
「他って…まだ何も始まってないんだが…」
「いえ、戻ってきてから出来ることは山ほどあるかと。書類の整理もまだ途中ですし」
副長は少し呆気にとられたが、気を取り直して続けた。
「あ…あぁ、じゃあ続きを…今日の任務は森の浅いところで済む。指定された薬草を十本採ってくるだけの簡単な依頼だ…まずは流れを掴んでもらえたらと」
「薬草採取、了解しました。何か分からないことがあればまたよろしくお願いします。報告、連絡は都度で大丈夫ですか?」
「う、うむ…出かける前と帰ってきてからで問題ない!報酬は成功報酬でその場での支払いになる」
副長は少し圧倒されながらも、依頼書を真に手渡した。
真はそれを受け取り、書かれた内容を隅々まで読み込む。依頼主は街の薬師。薬草の図版と特徴。採取場所の地図。納品期限と報酬額。
「この薬草は、どのような症状に用いるものですか」
「え?いや、まあ、風邪薬の原料だな。熱を下げる効果がある」
「なるほど。では、状態の良いものを選んで採取します。薬効が落ちては元も子もないので」
副長は目を丸くした。そこまで考えて依頼を受ける者など、このギルドではほとんどいない。たいていは報酬だけ見て飛びつくか、面倒だからと敬遠するかのどちらかだ。だがこの男は、荷物の中身を気にする配達員のように、依頼の本質を理解しようとしている。
真は薬草採取の依頼書を手に取り、必要な情報を手帳に書き写した。字は几帳面で、数字も明確に読み取れる。それから背負い袋を手に取り、中に水筒と応急用の包帯、携帯食料を入れていく。
「それでは、行ってまいります」
「ちょっと待て、まだ朝の六時だぞ。森に行くにしても、もう少し明るくなってからでいいんじゃないか」
「移動時間を考えますと、今出れば現地到着は七時前。薬草は朝露のついた状態のものが質が良いと聞きます。それに、早く終われば他の業務にも取り掛かれますので」
「他の業務って…いや、お前さんは休まなくていいのか?こっちの世界に来たばかりで疲れてるだろう」
「休む?」
真はきょとんとした顔で副長を見た。まるで「休む」という言葉の意味を初めて聞いたかのような反応だった。
(——休む。ああ、そういえば休んだことなんてあったか?)
最後に休日を取ったのはいつだったか——思い出そうとして、思い出せなかった。休日はシフトの穴埋めで誰かに譙っていた。有給はすべて流していた。休むということを、彼は文字通り忘れていたのだ。
「いえ、大丈夫です。休憩は5分あれば十分ですので」
「…5分」
「はい。それ以上は逆に体がなまります」
副長は口を開けて何か言おうとしたが、結局言葉にならなかった。真はそんな副長にわずかに口の端を持ち上げてみせる。それが笑顔だと、副長が理解するまでに数秒かかった。
「じゃあ、気をつけてな」
「はい。行ってまいります」
真はギルドを出た。
晴れ渡った空の下、街はようやく起き出し始めている。パン屋が窯を開け、鍛冶屋が炉に火を入れ、市場の商人たちが露店を広げている。誰もが新しい一日を始めようとしている。その中を、真は迷いのない足取りで通り抜けていった。
(さて、と。まずは目の前の仕事だ)
異世界で初めての業務が、静かに始まろうとしていた。あの日届けられなかった四十七件の代わりにはならないけれど。それでも——どこかで待つ誰かのもとへ、今度こそ届けるために。
副長は、遠ざかる真の背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……5分て。人間、5分でどう休むんだ」
誰に言うともなく漏れたその言葉は、朝の静かなギルドの空気に溶けていった。
そして副長はもう一つ、小さな違和感を胸の奥に抱えていた。
あの新人の目は、どこかで見たことがある気がする。
そう——昔、ギルドに来た老練の冒険者の目に似ている。何もかもを見尽くした後の、静かな目だ。だがあの男はまだ二十歳そこそこに見える。その違和感の正体を、副長はまだ言葉にできなかった。




