1ヶ月、生き残れ
第三話「1ヶ月、生き残れ」
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「ユキヒコが王の器??」
「そうだ」と神が言った。「お前の息子はいずれ王となり、国を作るのだ」
「そしてお主は、この息子を王へと導き育てるがよい」
「な、何言ってるんだよ」
私は頭を振った。
「ユキヒコが王? そんなわけないじゃないか」
「ほう」
神の目が細くなった。
「貴様はユキヒコの何を知っているのだ?」
「いや、だってユキヒコは」
俺の息子で——
そこで、言葉が止まった。
(あれ?)
続きが出てこなかった。
ユキヒコの好きな食べ物。ユキヒコの得意な科目。ユキヒコが学校で仲良くしている友達の名前。
何一つ、出てこなかった。
(ユキヒコって……どんな奴なんだろ?)
「ほれ、答えられんではないか」
神が静かに言った。
何も言い返せなかった。
「ユ、ユキヒコは現代人の普通の男の子だ。こんな場所で生きていけるもんか!」
神が顎に手を当てて、しばらく考えた。
「ふむ。それもそうだな」
「はあ!?」
神が、人差し指を私に向けた。
「この体も我の依代としては細く弱い。まずは我の力なしで、この地で一ヶ月生きてみよ」
その瞬間、ユキヒコの体から何かが分離した。
光の塊が、するりとユキヒコから抜け出して宙に浮いた。
「話はそれからだ」
「待って! 俺たちを元の時代に戻してくれ!」
光の塊が上昇していく。
「それは叶わん」
遠ざかりながら、神の声が降ってきた。
「時を超えた時に、世界は分岐し新しく生まれたのだ。そなたたちはこの世界で生きる他ない」
「だから無理だって! それ以前にこんな山の中に置き去りにされたら——」
「それで死ぬなら死ぬが良い。それもまた運命よ」
光がどんどん薄くなっていく。
「それでは——健闘を祈る」
声だけが残って、消えた。
草原に、風が吹いた。
私は、しばらくの間、動けなかった。
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どのくらい時間が経っただろう。
気づくと私はユキヒコの隣に座り込んでいた。
鹿光が分離した後、ユキヒコは意識を失って倒れていた。今も草の上に横たわったまま、ぴくりとも動かない。
顔色は悪くない。
ただ眠っているように見える。
だが私は立ち上がれなかった。
一ヶ月、生き残れ。
それで死ぬなら死ぬが良い。
神はそう言って消えた。
「う……」
ユキヒコが目を開けた。
「良かった。目を覚ましたか」
「体、大丈夫か?」
起き上がろうとする息子の背を支えた。
「う、うん」
ユキヒコが、笑った。
「僕、全部聞こえてたよ。全部見えてたよ」
目が、きらきらしていた。
「一ヶ月生き残らなきゃだね」
「……ユキヒコは怖くないのか」
私は思わず聞いた。
「怖くないよ」
ユキヒコはあっさり言った。
「だって僕、冒険が楽しみだもん」
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「冒険……いや、こんな山の中で親子二人に置き去りにされただけで、どうなるか」
「それはそうだけど」
「だろ?」
「でも」とユキヒコが言った。「お父さんと冒険できるなら、僕はやっぱりワクワクするよ」
「ワクワク……」
その言葉が、胸に刺さった。
「お父さんはワクワクしないの?」
「!?」
「だっていつも言ってたじゃないか。お父さんは昔の日本のことが知りたかったんでしょう?」
頭の中に、古い記憶が浮かんだ。
邪馬台国の本が山積みになった、学生時代の自分の部屋。
アカリと二人で、まだ発掘されていない遺跡の近くまで行って、土を素手で掘ったあの夏。
「これが本物の邪馬台国時代かもしれないんだよ?」とアカリは笑っていた。「タカシの夢じゃん」
そうだ。
ずっと、知りたかった。
この時代のことを。
「それより」とユキヒコが立ち上がった。「水と食べ物を手に入れようよ。お茶とおまんじゅう、あと少ししかないんだから」
「……ああ」
これが夢か現か。
だが私は、息子と、心の中の衝動に従うしかなかった。
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「まずこの崖を降りるのは無理だ」
目の前の絶壁を見上げながら言った。
「となると、後ろの森に入って水を探そう」
「了解」
「山に入るのに道具も必要だな」
私たちは車の中から使えそうなものを拾い出した。
元々ユキヒコとデイキャンプをするつもりで色々と積んできていたのは、不幸中の幸いだった。
着火装置と携帯燃料。BBQセット。小ぶりのキッチン用ナイフと鋏。ビニールシートと小さな椅子。
「食料さえ手に入れれば、なんとかここでキャンプできそうだな」
「うん!」
「じゃあ、行くぞ」
森の入り口に立ちながら、私は内心でつぶやいた。
(本当にここが西暦240年なら、簡単にはいかないだろうな。文明の力がほとんどない山の中で、いつまで持つだろうか)
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森の中を歩いた。
「現代とそれほど植生は変わらないな」
ツブラジイ、カシ、クスノキ。足元にはワラビとゼンマイが生えている。
「ユキヒコ、あれを見ろ」
足元のワラビを指差した。
「ワラビだ。灰汁抜きすれば食べられる。縄文人はこれを石でたたいて粉にして、団子にして食っていた」
「灰汁抜きってどうやるの?」
「焚き火の灰を水に溶かして、一晩漬けておくだけだ。着火装置があるから火は起こせる」
頭の中で、知識が次々と繋がっていく。
ワラビ、どんぐり、クスノキの実——食べられるものは思ったより多い。川さえ見つかれば魚も獲れる。
縄文・弥生時代の人々は、この土地で何千年も生きてきた。
同じことが、できないはずがない。
(なんとかなるかもしれない)
そう思い始めた時だった。
「え? あれ鹿?」
ユキヒコが上を見上げた。
大きな岩の上に、ウサギが座っていた。現代のウサギの倍はある巨体で、じっとこちらを見下ろしている。
「ウサギだよ。でも異様に大きいな。アレを狩れれば食糧問題は解決だろうけど……」
「どうやって狩るの?」
「弓か罠が必要だな。木の枝と蔓があれば罠くらいは——」
その時、ユキヒコがぱっと顔を輝かせた。
「お父さん、もしかして歴史の知識ってここで全部使えるんじゃない?」
「……そうか」
私は思わず立ち止まった。
邪馬台国時代の食生活。縄文の狩猟技術。弥生の農耕知識。信仰の構造。言語の変遷。政治の力学——
三十六年かけて詰め込んできた全部が、ここでは実践できる。
図書館の中でしか使えないと思っていた知識が、今この瞬間、本物の武器になる。
「ユキヒコ」
「うん?」
「……ちょっとだけ、ワクワクしてきた」
ユキヒコが、満面の笑みになった。
二人で顔を見合わせて、笑った。
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その笑い声が、森の中に響いた。
二人の真後ろ、木々の間の岩の上に、三つの人影があった。
左に立つ大柄な男は槍を構え、右の男は弓に矢をつがえていた。二人とも顔に複雑な刺青を刻み、目つきが鋭い。
そして中央。
小柄な少女が、二人の現代人を無表情で見下ろしていた。
十一歳くらいだろうか。だがその佇まいに、年齢にそぐわない静けさがあった。狐か鹿かわからない動物の仮面をつけ、白い毛皮のマントを羽織っている。全身に幾何学的な紋様が刻まれ、風に髪が揺れていた。
少女の目が、細くなった。
タカシとユキヒコは、まだ笑っていた。
何も知らずに。
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第三話 了




