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鹿の神様、現る

第二話「鹿の神様、現る」


―――――――――――――――――――


 朝になっても、道路はなかった。


 一晩中眠れなかった。


 助手席でフロントガラスの暗闇を見続けながら、ずっと言い聞かせていた。バグだ。ハンドルを切り損ねただけだ。朝になれば道路が見える。


 だが朝になっても、現実は変わらなかった。


 車を降りた。


 崖の上に立って見渡すと——その絶景に、息が止まった。


 山々が連なっている。川が光っている。朝霧が谷間を漂っている。


 人工物が、何一つない。


 美しかった。


 そして、恐ろしかった。


「無い! どこにも道路がない!」


 崖の前で叫んだ。


「ここはどこなんだ!」


「だから」とユキヒコが後ろから言った。「ここは西暦240年なんだよ」


 振り返った。


 ユキヒコが、静かな顔で立っていた。


「お父さん、多分ここは……」


 一拍おいて、息子は言った。


「『邪馬台国』の時代なんだと思う」


―――――――――――――――――――


「邪馬台国……ばかな」


 思わず繰り返した。


 でも頭の中で、何かが動き始めていた。


(いや、待て。西暦240年ということは……)


 年表が頭の中に浮かんだ。


 238年——卑弥呼が魏に使者を送る。


 240年——魏の使者が倭国に到達。


 248年——卑弥呼、死去。


(240年……卑弥呼が死ぬ8年前だ!)


「いやいや、そんなこと現実に起きるわけがない!」


 自分に言い聞かせるように言った。


「でも僕は鹿の神様から聞いたんだ」


 ユキヒコが言った。


「!」


「時を遡り、冒険に誘おうって」


「僕たちは時を遡って、古代日本に冒険に来たんだよ」


「し、鹿の神様って……昨日見たあの光る鹿か?」


「いかにも!」


 その瞬間だった。


 ユキヒコの体が、発光した。


―――――――――――――――――――


 眩しくて、思わず目を細めた。


 ユキヒコの全身に、あの鹿と同じ紋様が浮かび上がっていた。


 そして——ユキヒコが、浮いた。


 地面から、ふわりと体が離れた。


「な、な、な……」


 言葉が出なかった。


「そなたの息子が願ったのは冒険の旅!」


 声が響いた。


 ユキヒコの口から出ているのに、ユキヒコの声ではなかった。


 もっと深く、古く、遠い場所から来るような声だった。


「我はその願いを叶え、時を遡りこの地に導いたのだ!」


「お願いだ、夢であってくれ!」


「夢ではない。我は神である」


―――――――――――――――――――


 朝の光の中、ユキヒコが宙に浮いていた。


 全身に紋様を纏ったその姿は、もはや十歳の息子には見えなかった。


「我が名は——時を巡る鹿の神、鹿光なり!」


 草原に、その名が響き渡った。


「本当に神様……?」


「いかにも」


「そなたら二人の願いを、神である我が叶えたのだ」


「ちょっと待て!」


 私は叫んだ。


「ユキヒコはともかく、俺が何を願ったっていうんだ!」


「貴様も昨日言ったではないか」


 神が言った。


「『邪馬台国の時代に行けるなら行ってみたい』との息子の問いに——」


 昨日のボートの上が、頭の中に浮かんだ。


 ユキヒコに問われて、私は答えた。


 行きたいに決まってる、と。


(え、あれ……? あれが本当になっちゃったってこと?)


 心臓が、跳ねた。


「……わかるぞ? お主の胸が高鳴っているのが」


「!?」


「父と子が願い、古代へとそなたらの肉体は誘われた」


 神が両腕を広げた。


「親子よ! 思うがままにこの時代を生き、知りたかった謎を解き明かすが良い!」


―――――――――――――――――――


「いやいやいやいや、困る!」


 私は手を振った。


「俺たちを元の世界に帰してくれ!」


 神が、眉を寄せた。


「困る? なぜ?」


「だって私には会社が、ユキヒコには学校が……!」


 神が、少し間をおいた。


「会社?」


 静かな声だった。


「お前が行っていた、あの小さな営みのことか?」


「学校? あの、つまらなきを学ぶ童たちの寄り合いが?」


 神の声に、かすかに呆れの色があった。


「そんな瑣末なことは気にするな」


 神の目が、まっすぐ私を見た。


「なぜならお前の息子は——我の依代にて」


 一拍の間があった。


「王の器なのだから」


 草原に、風が吹いた。


 宙に浮いたユキヒコの紋様が、朝の光の中でゆっくりと輝いていた。


 私は、その言葉の意味を、まだ理解できていなかった。


 王。


 この子が。


 十歳の、私の息子が。


―――――――――――――――――――


第二話 了

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