7、第二宇宙速度、不退転
家からでない。学校から帰ってきて、母親にあんな話をされて。それでも習慣通りに八時から宿題を終わらせて、お風呂に入る。夏の暑さの残りはあるが、お風呂の熱さは気持ちいい。どろどろとしたものを吐き出して、隙間を埋めて、詰め直しの最適化。
母に対してのわだかまりの感情はお湯に溶けていった。
布団に入り、眼をとじて。
――眠れない。
眠れるはずがない。
本当なら今日はどんな会話をしただろうか?
本当なら今日はどんな表情がみれたろうか?
本当なら今日は……。
と、止めどない『もしも』がある。
可能性を思う事に、心の泉にコインが貯まる。一枚入れる事に水位が上がって。もしかすると、もう一度手が握れただろうか。と思ったときに溢れた。
枕に置いた頭、重力に従って涙が横に落ちる。
枕に、涙という物の湿り気を感じ始めた時。私の心は落ち着きを取り戻し始めていた。
ゆっくりと布団からはい出る、少し寒い。服装はパジャマ。外には野犬の鳴き声が聞こえる。去年使っていたダッフルコートを部屋のクローゼットから引き出す。
面会時間は終わっている、当然の事を再認識、時計は天辺で逢瀬をしている。小学生の私には真夜中と言って差し支えない。
(――いこう)
距離はない。だが、夜の街は怖い。影という影から居間にも何かよく分からない恐ろしい物が飛び出しそうな気がしてくる。
戦う武器はない。あるのは、歩を進める蛮勇のみ。
(――ばか、なのかな?)
半ば自嘲を含んだ思考。一度納得と共に受け入れた言葉を覆して夜の一人歩き。明日、母親に黙って行けばいい、とその程度の事の筈なのに。
理性の思いよりも先に感情の想いがでる。
考え事をしていると、怖くない。その自覚。三歩歩いて途切れる。上空の風が雲を運んで月を隠した。大地には闇が濃くなる。
薄暗いとしか感じなかったそこらの電信柱の影ですら、奈落に繋がる大穴に見えてくる。
かさり、と音がした。びくりと、身が震え足にも揺れがくる。
あ、とも、お、ともつかない一声、両手で肩を抱く、膝の力が抜けるのを感じた瞬間に。
――、と音はない。ただ、風がどこかで吹いて、月が再び現われた。
音をたてた物の正体が分かる。それは、時間を守らずに出された黒いゴミ袋。ビニールが音をたてて揺れたのだ。
(怖い……)
恐怖は足を止める。感情の進行は止まるが、理性を持って体に聞く。進めるか、と。
足は答えた、前に進めると、眼は答えた、前なら見えると。
だから前進の力を生み、一歩を進む。
怖いという感情は停滞を望み。それ以外の部分が前進を勧める。
勧めに乗り体を前に。
月は翳らず、歩みは止まらない。停滞はその場に留まる事だけではない。進みを始めれば、立ち止まる事も変化の一つ。故に、進みを止めないという停滞もある。
全身をもって、止まらずを選択した身はいつしか、病院にたどり着いた。
「……」
一心不乱。
心は一つの事を思い、乱れは無い。
智喜はカンバスに向かっていた。
イメージするのは、歌成。スケッチブックにはデッサン。
けれど、スケッチブックを開いて確認する必要はない。
全ては頭の……否、心の中にある。
顔を思い、手を思い、脚を思い、眼を思う。
胸を……『がんばりましょう』。
ただある事を美しいと思ったのは初めてで。
ただある物を美しいと思ったのは初めてで。
涙を流し、すすり上げる少女の小さな背中にいとおしさを感じたのは間違いの無い事で。
(一目惚れ、なのかな)
知識はある。看護婦さんがたまに持ってきてくれる雑誌は過激さを検閲した後の少女漫画だが。一目惚れというのはままある事のようで、けれど、智喜にとっては未経験のものだ。
それは心拍の高鳴りと共にやってくるもので。
(心も体も喜んでいる、と言う事だよね)
そう思う。
だから、カンバスに向かう。全身の全霊を込めて、一筆を描く。
続け、て。連、という言葉を念頭に置き、リズムを刻むように描く。一つは写し、心の中にある彼女を投影し。次に、顕わ、カンバスに隠れている像を浮かべる。最後に、震え、自分の技量そのものを表す。
結果描かれるのはカンバスと絵具の二つが影響し、自分の技量という限界の下で描かれる心象の絵。
影、ではない。此処にあるのは一つの光。
思いはそれだ。
鏡として、自分の心象が絵になる。
(――ぅ)
と、詰まりを感じる。詰まりの原因は一つで。
「はぁ……はぁ」
呼吸が止まっていた。集中が息を吸わせる事すらも忘れさせた。ただ描く為には呼吸は不要で。
描き続けるためには、この体が呼吸を必要とする。
不便を思う。呼吸の一つに集中を乱された自分を不甲斐なく思う。
(このことだけじゃないか……)
そうだ、僕は本当は。
(遺書を書いていて)
あの森の絵は、遺書のつもりだった。
理解の仕方が間違っているかも知れないけれど、この世界に最後に残す思いを遺書というのならば、あの森の絵は遺書に他ならなかった。歌成が現われるあの瞬間まで。
(僕は逃げた――)
あの絵を描き上げたら、自分が終わりそうで。
死を描く事を止めて、普通の森の絵を描こうと思った。
けれど。
(――歌成が)
隣にいてくれて。
そうする事で描いたあの絵はこれまで自分が描いた作品の全てを超えて生を描けていた。
だから。
(不様に生に縋った)
カンバスに現われたのは例えば、光の様な物だ。
描き手よりも明るい光。だから、直視できるものではない。
無かったのに。
(魅せられた)
生きる事に魅せられ、生の絵に魅せられた。
だから、描きたいと思ってしまった。
もう一度、もう一度で良いから描きたいと思った。
足りない。と思って、青を描いた。
命の熱は『赤』だと直観して、けれど、描きたい命は『青』、海の色、そして、晴天の色。
死体を模写し、静物を描いて、死を描こうとした僕は。
死の下書きを生の色で覆い、祝福の晴天を描いて、最後に命の価値を描こうとしている。
これは背信だ。神様は信じていなくても、自分の歩んだ道に対しての背信であると思う。
けれど、それでいいとも思うのだ。
だから、歌成を……。
(――あ)
と、止まる。それは望みすぎというものだろう。生から遠いのだ。それは間違いない。体は死のうとしている。それは知っている。
もうすぐ、筆を握れなくなる。
一年もない。数ヶ月かも知れず、数日かも知れず。
どれぐらいという正確な事は分からないけれど。
(この絵を描き上げるまでは止まらないだろう)
と思う。希望かも知れないけれど。嘘かも知れないけれど。
だが同時に思う。
(寄り道をする時間はないだろう)
と。
条件ではない。譲歩だ。
運命がその程度には譲歩してくれているという、奇妙な確信。
「――は」
と息を吐く。また呼吸が止まっていた。大きく息を吐いて。
喉に渇きを憶える。
思考で若干集中が途切れている事を自覚し、自販機に行こうかと思う。六階以上は消灯時間がない。自販機も動いている。
(――)
けれど、何の直感か。僕は、窓の外を見た。
夏の暑さが残り、空気が重たい。それは湿気の残滓だけれど。草の匂いと雨の匂いが混じった香り。
暗い外の風景に……あり得ないものを見た。




