4、少女にもアスピリンを欲しいときがある
母親が退院した。もとより、破裂といっても、言葉から受ける印象程の傷ではなかったということらしい。
それに伴って、施設からは出た。住所は憶えたし、瑠璃ちゃんにも渡しておいた。文通はできるだろう。
さておき、私は今でも病院に通っている。
学校、病院、帰宅。といった感じだ。
とはいっても、そうそうおかしな事ではないと思う。
学校のクラスメイトがクラスの友人と過ごす時間を別の友人と過ごすと言うだけだ。
「こんにちは、智喜」
私の声に、智喜も手を止めて、手を挙げた。
「やあ、歌成ちゃん」
そう言って、少し絵の具の色の移った右手を挨拶の為に挙げた。
私はその手の平に自分の手の平を重ねて。
「くふー」
と笑う。智喜は何が、くふー、なのか分からないという表情だ。
その表情が、可愛く、けれど、少しの時間と共に、自分の頬が熱くなるのを感じる、照れが毒のように回ってきたのだ。
「今日は、何を?」
「色をつけてたのさ。天気が良いから外で」
智喜が手に持っている筆は本格派に見える。太さは私が学校で使っている鉛筆くらいの軸の太さだが作りの品格がまるで違った。
良い筆だ、と言う事は考えなくても分かった。
「森の絵?」
「森……うん、もり、かな」
生と死の絵、だ。構想の段階からどれくらい変わっているのかは分からない。下書きに死の世界を広げておいて、生を上塗りする事で表現したい物があったのかもしれないし、本当は死の世界を描きたかったのに、何らかの理由で方針転換をしなければならなかったのかも知れない。
だが今や、切々とする悲しさは身を潜め、生命の匂いの色濃い作品になりつつある。
「お話、するかい?」
智喜が聞く。筆を止めて、こちらの眼を見て。
その眼は素敵だった、独占したいくらいに、だけど。
「ううん、智喜を見てるから」
「――わかった、じゃあ、そこで見てて」
智喜は動きを再開する。筆を湿らせ、絵の具を搾り、色を混ぜ、作り、置いて、広げ、塗る。彩色が踊る。筆が遊ぶ。
智喜の眼は……真剣で、でも優しい。
筆致は直線で、けれど、柔らかい。
それは、有り方であり、有様だ。
絵を描くという事に落ちていくのではなく。絵を描くという高見を目指すための。
智喜にはきっと見えているのだ。迷いながらも。
生きていたいのか、死んでいきたいのか。
そんな事は決められないけれど、それでも、真っ直ぐにどこかに向かおうとする魂がある。
「ぁ……」
嬉しい、という感情が溢れる。心の泉の様な所に。
嬉しいという感情が表面張力を突破し、涙になる。
嬉しくて涙が流れるという初めての経験。
それはしゃくり上げる嗚咽の邪魔もなく、感情の異常な振幅もない。そこにあるのはもっと単純な充足感に似たもの。満足感に似たもの。
声を殺す必要もない。ただ、涙だけが溢れて――。
そんなものに、気がつくのだとしたら、それは私の涙の音を聞いてくれる人だけだ。
――だから気付いた。
「……どうしたの、歌成ちゃん」
智喜の表情は、こちらを見ていて。
けれど、涙を流す少女に対して、心配するという表情ではない。
そこにあるのはもっと深い物。分かっているという笑みだ。
「なん、でもないの……なんでもないけど、涙が」
「そっか、……僕はどこかに行った方が良いかな? それとも、そばにいた方が良い?」
それを言葉にして問うてしまう智喜はきっと女たらしにはなれないだろうな、と思いながら。その真っ直ぐさが心地良いと思ってしまう。痘痕も笑窪という奴か。
「そこに、いて」
近づく事を望むのでなく、遠ざかる事を望むのでなく。留まる事を望んだ。我が侭な私の最適な距離感。
近くに来て貰うのも、遠ざかってしまうのも、等分に怖い。
そんな思いはあくまでエゴだ。
けれども、頷く風を一つ残して智喜は絵を描く事を再開した。
そんな事に安心する。そんな事に喜びを感じる。
(あぁ……)
それは多分、私の嫌いな生き方だ。
連星のように、近くて、遠くて、そのままだ。
別れていくのでなく、ぶつかって何かになるのでなく。
一定の距離を保って、ぐるぐると回る。
けれど、そんな、嫌いな自分が好ましい。




