表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/7

番外編:香りの中で君を想う

お立ち寄り下さりありがとうございます。


 式部卿邸の西の対で、その美貌から宮中でその名を知らぬ者はいない一人の公達が、真剣な面持ちで壺を眺めている。


「まぁ、気が向いたときに試してみておくれ」


 世界は壺だけになっていた高直に、穏やかな声がかけられた。高直はゆっくりと壺から目を離し、待ち望んだこの壺を持ってきてくれた直信に目を遣った。

 その真剣な眼差しは、高直の整った容姿から厳かな雰囲気を感じさせた。直信は思わず居住まいを正す。高直は真剣な面持ちのまま、口を開いた。


「お試し用に、いくつかもらえないのかい?」

「え?」


 直信は、――離れて見守っていた高直付きの女房達も、目を瞬かせた。


「せっかく直子が作ってくれた香が、試すために減るなんて、おかしいだろう?」


 直信は、――女房達も、やはり、高直の言う意味が分からず、一様に首を傾げた。


「直子が僕の為に作ってくれた初めての香なんだよ。お試しなどには使えないだろう?」

「そ…れなら、どんどん使ってくれれば…」


 何とか言葉と声を絞り出した直信に、高直は追撃を放った。


「初めての香なんだ。一生に一度しかない初めてだ。もったいなくて使えないだろう?」


 直信は、恐らく女房達も、高直を理解しようとする気持ちはもう遠いどこかに消えていた。


「それなら、その壺は飾っておいてくれればいいよ」


 香を壺に入れたまま飾りに使っていけないことはない。あまり見られない使われ方であっても。

 直信は疲れた頭を癒すべく、腰を上げようとしたが、高直は袖を押さえて押しとどめた。


「もちろん、この壺は一生飾る。誰にも触らせない。けれど、直子が作ってくれた初めての香がどんな香りなのか知りたいんだ」


 直信は今日も自分の何かが鍛えられる気がした。努めて穏やかに言葉を紡ぐ。


「知りたいなら焚くしかないね。直子が合わせたものだから、僕もどんな香りなのか知らないよ」


 直信は言葉にしながら、微かに苛立ちを覚えた。直子は恥ずかしそうな顔で、――思わず頭を撫でてしまうほど可愛らしい顔で――、直信にも同じ香をくれたのだが、高直が待ち望んでいたのを知っていたから、こうして、自分は試しもしないままで、こちらに渡しに来たのだ。香を試さず飾ることを選んだ高直に渡すために。

 直信の不満に気づくことなく、高直の顔は輝いた。


「僕の為の、僕だけの香…」


 何やら直信の言葉をかなり拡大解釈して恍惚とした表情を浮かべる高直に、直信は慌てて言い添える。

「いや、だからと言って、君の好みに合うかどうかは分からな――」


 直信の言葉は、高直の強い眼差しに遮られた。瞳に力を込めて、高直は宣言した。

「直子の香が僕の好みになるから、問題ない」


 直信は、出来上がった香を高直が気に入ってくれるかと不安に駆られた直子を励ました一時を思い返し、どっと疲れを覚えた。早く屋敷に戻り、安寧を手に入れたい直信であったが、可愛い妹の為に今一度気力をかき集めた。


「直子は君が即座に香を焚いてくれたと聞いたら、喜ぶだろうね」


 高直はハッと息を呑み、そして、顔を綻ばせて頷いた。

 『初めて』を大切にするよりも、直子の喜びの方に重きを置いたらしい。香の正しい使われ方が為されるようだと一同はほっと安堵の息を漏らした。


 即座に用意された香炉に、そっと香が置かれ、やがて香りが辺りを満たした。

 直信は瞳を閉じて、直子の香を楽しんだ。梅花を基本としたものらしいが、黒方も感じられる。華やかな香りで気持ちが引き立てられながら、ほっとする気配も感じられる、兄の欲目でなくともいつも楽しみたい香りだった。

 薫の中に、ぽつりと呟きが入り込んだ。


「直子だ…」

「え?」

 直信が目を開けると、高直は瞳を閉じて香りを楽しんだまま、穏やかな笑顔を見せていた。

 そして、まるで香りを邪魔しないようにとばかりに小さく囁いた。


「この薫は直子だ。直子そのものだ」


 気持ちが華やいで、けれども安心する――、

 なるほど、確かにそうかもしれない。

 直信は頷いて同意を示し、もう一度直子の香りを楽しんだ。



 それから半年が経ったある日の夜。

 高直は溜息を付いて、廂の間で月を見上げていた。今日は、直子の顔を見に行くことができなかった。元服してから、このような日が増えてしまっている。

 後二年もすれば、直子は裳着を迎えて、直接、顔を見ることができなくなるのに――、胸を掴まれるような焦燥を覚えて、高直は月を眺めた。

 夜の静けさをまとった美しい月であったが、波立つ気持ちが落ち着くことはなかった。

 高直は部屋に戻り、二階厨子から壺を取り出し、夜にもかかわらず、香を焚く。

 ゆっくりと部屋に直子の香りが満ちていき、高直は自分が満たされて行くのを感じた。


 月見ても 晴れぬ心も 梅の香に 君を思えは 満たされるかな


 瞳を閉じて香りに耽る高直が、自分が満たされる理由を知るのはこの日から二年が過ぎた頃だった。


お読みいただきありがとうございました。

予約投稿ではシリーズ管理ができない為、一つ番外編を加えて

シリーズに繋げました。

この話で前世編は完結です。

前世編までお付き合い下さり、誠にありがとうございました。


厳しい評価を頂きました。

精進いたしてまいります。

そのような話にまで、お立ち寄りくださいました方、

ブックマークまでつけて下さいました方、

本当にありがとうございました。


お読みくださいました皆様への感謝の気持ちを

込めまして、

心から皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。


12/6 追記

番外編投稿後、お立ち寄り下さった方、ブックマーク

評価をつけて下さった方

(お心遣いありがとうございます。

ご配慮に甘えることなく励みとさせていただきます)、

誠にありがとうございます。

予定通り、12/7こちらを検索除外とさせていただきます。

皆さま、よいお年をお迎えください。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ