2015年12月5日
2015年12月5日
白い息を吐きながら、屍蝋を探した事を書く。
人の死蝋ではない。鳥か、獣か、いずれかの屍蝋である。
私が不勉強な為であるかは分からぬが、どうも世間一般に屍蝋と言うと、人の死体ばかりが連想される気がしてならぬ。
私は、自然動物の屍蝋を見たいのだ。
彼等雄大な自然の中に生きるもの達が、如何なる理由か命を終えて、自然界の暗い棺に納められ、幾年月、偶然と必然の交わる一点に着地する事で仕上がる、醜い芸術品、屍蝋――
私の人生に於いて、屍蝋に出会った経験は、無い。
死というものに触れる機会さえ、実はそう多くなかった。
肉親が一人か二人死んだ他は、名しか知らぬ親戚の葬式に出た程度が、人の死体を見た経験。獣や虫の死体は散々に見たが、彼等の死は――必然のものに思えて、何とも、特別視をする事が出来なかった。
というのも、理屈的な私の脳髄は、生き物は必ず死ぬものだという事を、そして田舎には生き物が多いという事を、論理として知っていたが為に、鳥獣の死は心揺らすものにはならず――春夏秋冬、移り変わる季節に付随するものとだけ感じて、それ以上を思わず通り過ぎる対象に過ぎなかったのである。
然し、その中に一つ、鮮烈に記憶する死が有る。
猫が道路の真ん中で、破れた腹から腸を零して死んでいるのを、何処かへ出かける折に見た――帰りには綺麗に、血の跡までも片付けられていた。
誰が片付けたのかは知らぬが、それは、何も珍しい事では無い筈だ。車に引き殺される獣の、世になんとありふれた事か!
だが私はその日も、次の日も、それから十数年を経た今に至るまで、かの白い猫の腹からはみ出したピンクの臓物が、赤い血をアスファルトに広げながら、髭ばかりが風にぴくぴくと揺れる様を、脳裡に留め続けている。
何故であるかは、我が事ながら、分からぬ。
だが、私は自らに対し一つの仮定を立てた。私は、自然の産物たる猫が、不自然の産物たる自動車に潰された様の不調和が忘れられぬのではないか、と。
きっと、猫の死にざまが、熊の爪に首を飛ばされていたとか、鳶の群れの爪に引き裂かれていただとか、そういう事であるなら、私はかの白猫を忘却し得たのではあるまいか。その屍の座す場所が、彼或いは彼女の死様を知らせる路上であったから、私は見知らぬ猫の死を記憶し続けているのではあるまいか。
あの猫を思い出す時、私の心には、形容し難い感覚が宿る。
無惨な光景を、愉しいと感じるでも無しに、だが見ていようとした、あの衝動――
可能であったのなら、私は屍の横にまで歩いて行き、じっと猫の腹の破れ目、細いホースのような内臓を観察してから、白猫の瞳の色を確かめようとしただろう。
……ここまで書いて、もう一つ、忘れられぬ理由が思い当たる。
私はあの猫の、体毛の白さや、案外に耳が赤い事や、内臓が思うた程に血の色をしていない事を知っている。然し瞳の色は知らないのだ。
あの猫が生きていた日の事を夢想する時、私の脳裏を駆けて往く白い自由者は、堅く瞼を閉じて、私に一瞥たりと寄越さない。
以上の事柄を論拠とし、私は、この死の記憶を不完全なものとする。
だから、屍蝋を探すのだ。
今日の日中、図書館でローカル新聞のバックナンバーを漁っていて、興味深いものを見つけた。
今年の8月31日、この街で、人間の屍蝋が見つかったという記事だ。
佳守の海の、水泳に適した箇所――かもりビーチ近くに、波が削り出した海蝕洞があり、そこで白骨死体が二つと、相当に保存状態の良い屍蝋が一つ、見つかったのだという。
屍蝋は、とある少女。白骨死体はその母と、妹であろうとされている。
入口が海没した洞窟だというが、記事を読む限り、死体三つが見つかった空間は、十分な量の空気が有るらしい。
屍蝋は、空気が乏しく、湿潤な環境下にて作られるという。つまり発見された屍蝋は、白骨死体とは別な場所で死に、其処へ動かされたのではあるまいか。
くだんの記事には、「なぜ姉だけが屍蝋となり、母と妹が白骨化してしまったのだろうか」と記されている。
屍蝋を探しながら、私は思う。医学的な見地から、三つの遺体の、死亡時点での年齢を知る事は出来ぬものか、と。
何故ならば――私の愚想に寄るなら、きっと三つの死の内、姉の死だけは、他の二つより先に発生した事象であるからだ。
水中にて姉は死に、屍蝋と化した。それを母と姉は、何らかの手段を以て知り、掬い上げたのだ。
非力な女手二つ、しかも一つは屍蝋より更に幼い娘が、いかにして岩窟の祭壇へ、姉を祀り上げたかは知らぬ。
だが、そこで二人は、屍蝋となった娘を、屍蝋となった姉を見ながら、じっとそこに座り、餓えて死んだのだと思う。
その肉を、小さな蟹などが喰っただろう。腐れて零れた肉の汁を、何処よりか吹き込んだ雨が攫い、屍蝋の為の祭壇は常に清められていただろう。衣服の有無は記事に無かったが、着ていたとしたら、それも風化して、骨に纏わりつく襤褸布と成り果てていたのだろう。
飢えて死ぬまで、座して待つ。
餓死体は皆一様に、膝を抱えて蹲るような姿で死んでいると、聞いた事がある。真偽の程は知らぬ。
母の亡骸は、妹の亡骸は、自らの膝に顔を埋め、我が娘、我が姉へ額づき祈りを捧ぐ形であったのか――
私は、知りたくてならなかった。
結局、のんびりと海際を歩いてみたが、屍蝋は何処にも見つからなかった。
代わりに一匹の、白い猫を見つけた。
首輪をしている、人に慣れている――飼い猫だろう。名札の類は無い。
私は、足にじゃれついてくるその白猫を抱き上げると、首輪を外してやった。
猫の体温は、私よりは明らかに高い。
腕の中でぐりぐりと動く四肢や体は、肉の下に、見た目からは想像も出来ぬ程に頑丈な筋骨が備わっていると知らしめる、力強いものであった。
私は白猫の首に、海辺の散歩で拾ったロープを結びつけた。
猫が私の手に爪を立てようとするが、それより先に、私はロープの端を持ち、それを投げ縄のように振り回した。
ごきんっ。
と、遠心力で伸び切ったロープを伝わる手応え。
日中、久葉のホームセンターで、大きな水槽を買ってあった。
私は水槽に、煮沸消毒を済ませた湯冷ましをたんと注ぎ込み、首の折れた白猫を、その中に沈めた。そして、蓋をし、ビニールテープで目張りをして、とある海蝕洞へと運び込んだ。
小さな、きっと誰も興味を持って訪れる事の無いような、見るからにつまらない洞窟――此処が、この白猫の祭壇であった。
何年か後に、此処を訪れようと思う。
その時に私は、白猫の屍蝋の瞼を開き、その下に眠る瞳が、鵺の闇であるか、虚ろの白であるか、この海の如くに眩い蒼であるかを確かめるのだ。