13.
先輩の思い出話なんかしたくない。先輩の死を過去にして、彼のいない未来になんか進みたくない。
だから、ここに来た。先輩を知っている人も、知らない人も、誰もいないから。
残雪の残る枯れ木ばかりの丘。先輩と約束した桜のある場所。
先輩がここに来てくれない限り、別れを告げなくていいのだと、何度も自分に言い聞かせた。
会いたかったのか。会いたくなかったのか。今はもう、わからない。
けれど、めちゃくちゃな斎己先輩なら、何事もなかったかのようにひょっこり現れてくれるのではないか。そして、事故なんて嘘だと笑い飛ばしてくれるのではないかと。
霞よりもあえかな希望にしがみついて、待っていたのは私だった。
「――桜……、きれいだろ。もう一度見られるなんて思わなかったぜ」
先輩は、桜の花を誇らしげに見上げた。
「死んだら何もできないって言われたけどさ。こんな状態でも、花を咲かせることくらいはできたみたいだな」
「――……っ」
すでに、先輩が放つ熱も光も弱々しい。けれど、この数週間、先輩はここで、この木を温め続けていたのだろう。
そのせいで、虫だけではなく、桜も勘違いしたのだ。
もう、春だと。温かい季節が来たのだと。
それもまた、先輩が起こしたもう一つの奇跡。
疲れたように笑う先輩の横顔に、伊緒利先輩の言葉が思い出される。
斎己先輩は、怖いものなんて何もないのだと思っていた。けれど、怖いものがなかったら、きっとここに来ていない。
「先輩も、怖かったんですか……?」
「…………」
「先輩にも、怖いものがあるんですか……?」
先輩は少し黙り、それから小さく笑った。
「さあな。でも……、おまえらが泣いてるかもなんて思ったら……、おまえらが泣いてても、もう俺は何もできないんだなって思ったら、いてもたってもいられなくて、気が付いたらここに来てたんだよ」
「…………」
「そんな顔すんなって。あと俺がおまえにしてやれることっていったら、これくらいだわ」
そう言って、先輩はカメラをケースごと差し出した。
「旅立ちの写真、撮ってくれるって約束したよな」
中のカメラの様子を確認する。濡れてもいないし汚れてもいない。私はカメラだけでなくケースもまるごと忘れていったようだ。きれいに手入れされたカメラに先輩らしさが表れていて、胸が詰まった。
「……覚えていて、くれたんですね」
「当たり前だろ。それがずっと心残りだったんだ」
いつもより重く感じるおさがりのカメラを、両手でぎゅっと抱きしめる。そのまま、ゆっくりと息を吸う。肺の中で、一足早く忍び込んできた夜気と、生まれたての花の香が混じり合った。
上がりすぎた体温が、すうっと引いていくのを感じながら、顔を上げた。
「……私、決めたんです」
カメラを胸に抱いたまま、告げる。
「いつか、世界一幸せな、伊緒利先輩の結婚式と、赤ちゃんの写真を撮るんだって」
そうして、まっすぐ、先輩の顔を見つめた。
カメラを通す必要はない。だって、これは決意だから。
社交辞令でもなく、この場限りの嘘でもない。
だから、堂々と胸を張って言える。
「先輩も、もし生まれ変わるんなら早くしてください。せっかくなら、伊緒利先輩の赤ちゃんになってください」
私の大好きな人たち。本当は、伊緒利先輩の隣で笑っているのは斎己先輩のはずだった。
でも、それが叶わないなら……、彼女の赤ちゃんとしてでもいい。
絶対、他の誰の写真より、幸せに撮ってみせるから。
けれど、その決意に水を差すように、先輩は盛大に顔をしかめた。
「はああ? ふざけんな! 伊緒利は――……っ。……いいか、あいつに言っとけ! そりゃ、俺よりイイ男がいたらしょうがないけど、そうじゃなかったら下手に妥協すんなって! 俺が超特急で修行だか何だか終わらせて転生してやるから、それまで待ってろって言っとけ!」
「……嫌ですよ。伊緒利先輩が本気にしたらどうするんですか」
「俺は本気だっつーの!」
先輩はしかつめらしい顔で続ける。
「大体なあ、あの時だって、そのこと考えてたんだよ。家の間から教会が見えて、ああ、留学から帰ってきたらプロポーズでもするか、なんて。ぼーっとしてたら道路に出てて、あっという間にあの世行きっていう……」
それから、先輩はばつが悪そうに付け加えた。
「いわゆる死亡フラグってやつ? まあ、だから――、ほんとにおまえのせいじゃねえんだよ」
「……え――」
思わず先輩の顔を凝視する。黙ってしまった私を見て、先輩が照れ隠しのように言い募った。
「あーあ、ほんとは、最後まで言うつもりなかったんだけどなあ。俺様のかっこいいイメージが台無しじゃねえかよ。――あっ! あいつには、絶対言うなよ? 笑うに決まってんだから! この秘密は、おまえが墓場まで持って行け!」
「……わかりました。最初の墓参りの時に、伊緒利先輩に打ち明ければいいんですね」
「誰が俺の墓場っつったよ。おまえのだよ、おまえの!」
私は、敢えて大げさに呆れてみせた。
本当は、もっと軽口をたたいて、神妙な雰囲気を払拭したかった。けれどそれ以上は耐えられなくて、カメラを顔の前に持ちあげる。
「お。撮るか? 記念すべき写真だからな。かっこよく撮ってくれよ!」
「……わかってます」
先輩は、幹に手をかけてポーズをとった。カメラを構えた私も、笑おうとして――失敗した。
手が震える。視界が滲む。先輩の姿を目に焼き付けたいと心から願うのに、体がいうことを聞いてくれない。
写真を撮った瞬間、すべてが消えてしまうのではないだろうか。レンズから目を離したら、先輩だけがいない、空虚な空間が広がっているのではないだろうか。
まだ、先輩に全然伝えていないのに。
伝えるべきだったことが、たくさんあるのに。
けれど。
ファインダー越しの先輩と、目が合った。その目の紅さに、息が止まった。
太陽が沈む、そのぎりぎりの瞬間に放つ鮮烈な赤。
山の際も、雲のふちも、桜の花びらも。
……先輩の顔や瞳と同様、その色に染まってゆく。
まるで、境界を超えて世界が一つになったようだった。
(……そうだ。きっと……、全部伝えるには、時間が全然足りないけど……)
けれど、たぶん、私が一番伝えたいことは、先輩にはもう伝わっている。
すべてを包み込むようなその目に促されるようにして、人差し指がボタンにかかった。
冬の桜も、死んだはずの先輩の姿も、あるはずのない奇跡で。
私がこうして見えない檻から抜け出せたのも、また、先輩が起こしてくれた奇跡。
――お礼を言うだけでは足りない。今まで先輩からもらったものすべてに、応えられる自分になりたい。
万感の思いを込めて、息を吸う。
「……先輩。新しい門出、おめでとうございます」
「ああ」
「これから、しばらく……、お別れですね……」
「ああ」
先輩は、にやりと笑って付け足した。
「おまえも、俺から卒業だな」
「…………」
私は答えない。口の端を無理やり上げて、息を止めて――、……シャッターを押した。
フラッシュは焚いていない。けれど、一瞬、目を眩ますほどの閃光が丘一帯を走り抜けた。
その光を真っ向から見つめ、先輩がいるはずの空間に向かって話しかけた。
――先輩は……、私の「光」でした。
私の目に、私の世界に、突如差し込んだ強烈な光。
勝手に入ってきて、北極星のように輝き続ける、ゆるぎない光。
きっと、先輩はいつまでも、私の前にいるのだろう。
私は、先輩の背中を追い続けるのだろう。
これは別れかもしれない。私たちにはどうすることもできない、純然たる別離なのかもしれない。
けれど、伊緒利先輩が言うように、輪廻の一部なのだとしたら、きっとまた会えるときが来る。
いつか、どこかで、会えるときが来る。
その時までにはきっと、先輩に誇れる自分になっているから。
「……だから、今だけ。さよならです、先輩……」
――光が消えた後、そこに先輩はいなかった。
狂い咲きした一本の桜と、私を優しく見つめる、先輩の写真だけが残っていた。




