11.
授業が終わると、丘へ向かいそうになる足をむりやり止めて、帰途へ着く。部屋の入口に座り込み、制服を着替えもせず、鞄を片付けもせず、気が付けば窓の外を眺めている。
夕陽に染まる丘を見つめ、焦燥感を押し殺す。
先輩の傷ついた顔が、瞳に焼き付いて離れない。起きている間は胸をざくざく刺し続け、夜は終わりのない悪夢となる。
まだ、いるのかもしれない。
もう、いないのかもしれない。
どちらにしても、私には愛想をつかしただろう。
じりじりと焼きつけるような痛みとともに、夕日が落ち、宵闇が世界を覆うのをまんじりともせずに待ち続ける。
ただ、時間を浪費するだけの、意味のない日々。
今日もまた、そうやって無為な時間を過ごすはずだった。
「――よっし。HR終わったあ。帰ろーぜー」
「――あー、俺、呼び出しくらってんだよなあ……」
先生が退出すると同時に、教室の空気が一気に弛緩する。そこかしこでおしゃべりが始まるが、私には関係がない。ロボットのように決まった動作をして、支度が出来たら帰るだけだ。
「……ねえ、聞いた……? 昨日……、見たって……」
「……あんな……、……しかも、咲いて……?」
雑談や噂話に花を咲かせるクラスメイトたちの脇を横切り、教室の出口に差し掛かる。
その時。
「――木の芽。見つけた」
扉の前で待ち構えていたのは、息を切らした女性だった。
「――っ、なんで……?」
中性的で、落ち着いた声音。今、二番目に会いたくなかった人。
ずっと着信を無視していたから、とっさに反応に困って立ち止まる。
するとそこへ、背後から声をかけられた。
「あっ、伊緒利先輩!」
「先輩! あれって、本当なんですか?」
きゃあっとかわいらしく声を上げて、女子生徒たちが数人、集まってくる。心霊研究会の部長を務めている伊緒利先輩は、一部では敬遠されているが、成績がよく面倒見も良いため、基本的には慕われているのだ。
この隙にすり抜けようとしたのだが、次に聞こえた言葉にピタリと足が止まった。
「最近、山の方で人魂が出るって話! 先輩はもちろん、知ってますよね!?」
「――っ」
それを聞いた伊緒利先輩の顔がこわばった。私の顔からも、血の気が失せる。
「もう何人も見たって人がいるんですよ! 先輩は、誰の霊かもわかるんですよね!?」
「あっ、そうそう! しかも昨日はさらなる異変がですね――」
けれど、騒いでいる彼女たちは気づかない。
先輩は、気を取り直したように口の端を上げると、動揺を微塵も感じさせない口調で答えた。
「――ああ、知ってるよ。でも、今回は近づかない方がいいと思うな」
「え? どうしてですか?」
「質の悪い霊だからさ。強い未練があって、成仏できていない。巻き込まれたら、私にもどうにもできない。だから、しばらくはそっとしておくよう、皆にもそう伝えておいて」
「えー……、そうなんですか……?」
「そんなあ……。こんな近場でしっかりした目撃情報あるの、珍しいのに……」
がっくりと肩を落とすクラスメイト達。
彼女たちにとっては、珍しいイベントの一つにすぎないのだろう。
だけど私は……、私にとっては。
――強い未練があって、成仏できていない……。
彼女たちの会話に耐えられず、その場から逃げ出した。
「! 木の芽、待って!」
人気のない廊下を走り、昇降口へ向かう。しかし、運動音痴の私が、伊緒利先輩を巻けるわけがなかった。あっという間に追いつかれて、壁際に追い詰められる。私はうつむいて、非難される前に口を開いた。
「……すみません。私……、聞いていられなくて……」
「……うん。ごめんね。私と斎己のこと、ほとんどの人は知らないから……。でも、木の芽の前で言うには、無神経すぎた」
「――っ、それは――」
なぜ伊緒利先輩が謝るのか。
私は思わず顔を上げて、すぐにまたうつむいた。
伊緒利先輩は、怒るどころか、悲しげな表情をしていた。それはきっと、彼女たちに悪気がないことをわかっているからだ。
いつも冷静で、そっけないけれど優しい伊緒利先輩。心霊研究会に入っている変わり者とはいえ、チャラい斎己先輩と並んだら、月とすっぽんだと言われても仕方がない。
だから、一時期噂になったことはあったが、そんなわけがないと一笑に付されて終わったらしい。
けれど、私にしてみれば、二人が付き合っていることは一目瞭然だった。
だって、相手を見る目が違う。それは、傍から眺めているだけでもはっきりとわかった。会話をしていない何気ない時でも、お互いを気にしていること。喧嘩みたいな言い合いの中にも、相手への気遣いが滲んでいること。
「私とあいつが付き合ってるなんて、ちゃんと信じたのは君くらいだよ」
彼女たちも、二人の関係を知らないから、あんな話ができたのだろう。クラスメイトでもなく、同学年ですらない。直接の接点がなければ、斎己先輩のことなんて、数週間で日常に戻れてしまう、その程度のものなのだ。
「……伊緒利先輩は、強いんですね……」
頭では理解できる。でも、そう簡単に受け入れられるものではない。
そこかしこに先輩の想い出が残る校舎の中で、彼がいないのが当たり前みたいなやりとりは、私にとっては膿んだ傷を絶えず刺され続けるようなもの。
それはきっと、私より伊緒利先輩の方が、身にしみて感じているはずだ。
それでも、相手に対する気遣いを忘れない先輩は、私とはやっぱり違う。
だけど。
「……私は、強くなんかないよ」
苦く笑う、先輩の声。それを耳にして、間違いを悟った。
(――ああ、また、やってしまった……)
また、失敗した。
また、余計なことを言った。
やっぱり私は、しゃべればしゃべるほど、無闇に人を傷つける……。
目を合わせていなかったのがせめてもの救いだった。そこに浮かんだ感情が、失望か、幻滅か、思い知らされずに済んだから。
後ずさって逃げようとしたとき、伊緒利先輩から腕を掴まれた。
「待ってくれ、木の芽! ――聞きたいことがあるんだ!」
初めて聞く伊緒利先輩の切羽詰まった声に、私は驚いて顔を上げた。
「あいつに最後に会ったのはいつだ? その時、どんな様子だった!?」
「――え……」
伊緒利先輩が焦っている。
足元から這い上がる嫌な予感に、私は目を逸らすのも忘れて、正直に答えた。
「え、と……、先週会ったのが、最後で……。だからたぶん、あそこには――」
あの日からすでに、一週間以上が経っている。
カメラも落としてきたままだ。先日、雨が降ったから、きっと壊れてしまったに違いない。
……だからもう、斎己先輩も諦めたはずだ。
しかし、伊緒利先輩は私の答えに首を横に振った。青ざめて、端的に告げる。
「帰ってない」
「え?」
「帰ってないんだ、あいつ」
「…………?」
呆然として、彼女を見つめる。
「あんなに何度も言ったのに、まだこっちにいるみたいなんだ。昨日も、夢枕に立って……。でも、様子がおかしいんだ。すごくだるそうで、顔色も悪くて。何も言わずに、すぐ消えてしまった。たぶんもう、自由に移動するのもままならないんだと思う。時折、黒い霧みたいな陰りも見えたんだよ……」
「…………」
「胸騒ぎがするんだ。あいつが死んでからそろそろ四十九日が経つ。死人はその間に、最後の審判を受けなければならないんだ。そうでなければ、輪廻の輪から外れてしまう。輪廻の輪から外れた魂がどうなるかは……私は知らない」
「――!」
最後に見た時はどうだったか。顔色は……暗くてよく覚えていない。しかし、立ち上がるときの億劫そうな仕草は、やけに記憶に残っている。
あれは、何らかの予兆だったのか。
私は伊緒利先輩から距離をとり、唇をかみしめた。
「……先輩が、どうなるって言うんですか。悪霊にでも……なるって言うんですか」
「……その可能性は、ある」
伊緒利先輩は、一言一言かみしめるように言った。
「もしかしたら、すでにそうなのかもしれない。未練があって戻ってきたことが、まず問題なんだ。あの黒い霧も、具合が悪そうなのも、土地に縛られ始めているからなのかもしれない。……君には迷惑かけるけど、でも、未練というのは」
「――やめてください……!」
私は、後ずさりながら首を振った。
「私なんか、関係ないじゃないですか! 私のために成仏できないなんて、そんな、そんな――」
自由になる片手で、顔を覆う。
「私には、そんな重いもの、背負えないです……っ!」
――ずっと、思ってた。
なんで先輩は、私になんか構うんだろう。
どうしてみんな、私なんかを心配するんだろう。
私に、そんな価値なんてないのに。期待してくれても、何も返せないのに。
幻滅させて、失望させて、後悔させるだけなのに。
今だって、伊緒利先輩を傷つけて。
それでも、見限ってくれないのだ。
――それが私には、重すぎる。
「……ごめんね、木の芽……」
先輩がゆっくり近づいてくる。滅茶苦茶なことを言って泣き叫ぶ私を包み込むように、そっと背中に腕を回した。
「――それでも、あいつを解放できるのは、君だけなんだ」
「――っ」
無言で首を振る私を、先輩は力を込めて抱きしめた。
「ほんとに、君にはすまないと思ってる。でも、君のせいだとは考えないでほしいんだ。あいつは適当なやつで、好き勝手に生きていて……、大切なものがたくさんあるから、未練もたくさんあるんだと思う。それを全部失くしていきたいなんて、あいつのわがままでしかない。だから……、重荷になるなら、断っていいんだ」
「……っ、それは――」
「……うん。その上で、個人的なお願いだ。――あいつに、さよならを言ってくれないか」
「――っ」
とっさに身を引こうとしたが、伊緒利先輩の声が震えているのに気づき、やめた。
顔は見えない。涙声ではない。だけど泣いているようにしか思えなくて、私もおずおずと手を伸ばす。
先輩も、やっぱり苦しいのだ。言葉にしないだけで。態度に表さないだけで。
「……さよなら――」
伊緒利先輩の温かい肩に、涙がじわりと沁み込んでいく。
「――しなきゃ、駄目ですか……? さよなら、するまで、先輩は諦めないんですか……?」
「……そうだね。あいつは、死ぬほどわがままだから……」
伊緒利先輩が、仕方なさそうに言って笑った。
葬式に行かなければ、お別れしなくていいと思っていた。
二度と会わなければ、さよならも言わずにすむと思っていた。
先輩と親しい人と会わなければ、先輩が亡くなったことから目を逸らしていられると思っていた。
それなのに。
「そんなの……強制じゃないですか……」
断れるわけがない。
ここまで言われて、断れるわけがない。
「……うん。ごめんね、かっこ悪い先輩で……」
「――っ」
私はまた、無言で首を振った。
斎己先輩があんなことになって。幽霊になって現れて。
伊緒利先輩だって、怖かったに違いない。
だけど、斎己先輩のために、頑張ったのだろう。
苦しさも悲しさも胸に秘めて、彼の未練にならないようにと、必至に取り繕ったのだろう。
誰も強くなんかない。ただ、大切な人のために、強くあろうとしているだけなのだ。
――だから、私も、これ以上、逃げてはいられないのだと思った。




