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◆第十五章 血の楔(くさび)

 次の日、街並みが薄暗くなった頃、信繁は大坂城下の雑多な店が立ち並ぶ路地をひとり歩いていた。

 毎日のように縁談の返事を急かす内記の声が、耳の奥にこびりついて離れない。


「若、大殿へのご返事はいかがなさいますか?」

「……」

「大谷刑部少輔吉継様の姫君といえば、あまたの大名の子息が狙うほど、器量良しで評判ですぞ。何を迷うことがありましょうや」


 信繁は、昨夜の幸村の言葉が引っかかっていた。

(信繁様は何もわかっておられません!そんな、そんな話ではないんです!私と、信繁様は……)


 大名家の者と草の者。その身分の隔たりは並大抵の障壁ではない。だが、あの時の思いつめた表情、責めるような目は、もっと途方もない何かが二人の間にはあるのではないか。


 考え込む信繁に、内記はため息をついた。


「幸村なら、そっと側室になさればよろしい」


 正式に側室に、という訳にも参らないが、そこはうまくやるしかない。そう内記は考えていた。


「……内記。私はそういう考えは好かん」


 信繁は不快そうに顔をしかめた。


 戦国の世は、世継の数が家の安泰につながる。正室・側室から、より多くの男児をもうける重要性は信繁も理解している。


「わしは次男じゃ。立派な兄者が家を継いでくれる。相手は自ら選んでも良かろう。」



 信繁は一角にある縄暖簾の酒屋に足を踏み入れた。普段はあまり訪れることはないが、今日は鬱蒼とした気分を晴らしたかった。


 活気に満ちた店内は、普請帰りの職人や浪人たちで溢れ返っている。土間に置かれた床几しょうぎに腰を下ろし、大声で語り合う者、小声で周りを気にしながら話す者。それぞれ思い思いに語り合っている。


「おや、あそこにいるのは……」


 奥の席に、見覚えのある巨躯――島左近が、ひとりご機嫌に徳利を傾けていた。信繁が近づこうとすると、左近は通りがかった給仕の娘の袖を、ちょいと掴んでいた。


「なぁ、お絹ちゃんよ。今日も一段と綺麗だのう。どうだ、この後、それがしと月見でも」

「あら、左近様。月なら空にありますよ。あたしは忙しいんですから、お代わりがないなら袖を離しとくれ」


 娘――お絹は、天下に名高い軍師相手にも物怖じせず、ぴしゃりと手を払いのけた。左近は「こりゃ手厳しい」と苦笑いしながら頭をかいている。


 戦場での鬼神のような姿とはまるで別人の、ただの好々爺のようなその姿に、信繁は思わず吹き出してしまった。


「左近殿。振られましたな」

「む……おお、これは源次郎殿!」


 ばつの悪そうな顔をした左近は、信繁を見つけると「ちょうど良い、こっちへ来られよ」と手招きした。


「いやはや、お恥ずかしいところを見られましたな。天下の采配より、あの娘の笑顔ひとつ引き出す方がよほど難しいわ」


 左近は豪快に笑い飛ばし、信繁にも強引に盃を持たせた。

 酒が進むにつれ、信繁の口も滑らかになった。胸につかえていた縁談の悩み、形式的な婚姻への嫌悪感、そしてどうしても忘れられぬ女子がいることを、とつとつと語った。


「ぶははは! なんだ源次郎殿、そんなことで悩んでおられたのか!」

 左近は酒をあおりながら、膝を叩いて笑った。


「生真面目な源次郎殿らしい。正室だ側室だと、理屈をこねくり回して。……だが源次郎殿、先ほどの某を見たであろう」

 左近は、忙しく立ち働くお絹の背中を目で追った。


「好いた女子一人落とすのは、城一つ落とすより難しいものよ。城攻めには定石があるが、人の心に定石はない。力ずくでも奪えん」

 左近の目が、ふと真剣な光を帯び、信繁を射抜いた。


「源次郎殿が本当にその女子を望み、……大名家の縁談を蹴り、身分違いの娘を正室に据えたいのなら……」

 左近は声を潜めて言った。


「親兄弟と縁を切り、家を真っ二つに割るほどの戦をする覚悟がいるということだ」

 先ほどまでの酔いが回った好々爺の顔ではなく、戦場の島左近の顔になっていた。


「家を……割る……」

 信繁は息を呑んだ。


「男として惚れたのなら、天下を敵に回してでも奪い取ってみる……まあ、某はお絹ちゃん一人にすら、連戦連敗じゃがな!」


 最後はまた茶化すように笑い、「お絹ちゃーん、冷やをもう一本!」と声を張り上げた。

 また無視される左近を見て、信繁の胸のつかえが少しだけ取れた気がした。


「……天下を敵に回す、か」


 途方もない話だが、不思議と勇気が湧いてくる。左近の言葉は、重く、熱く、信繁の腹の底に響いていた。


「ところで左近殿。一つ聞いても良いですか?」


 信繁が聞きたかったのは、島左近の主君である石田三成が、かつて野に下っていた島左近を迎えるにあたり、自分の知行四万石の半分、二万石を差し出したという有名な逸話である。


 話を聞いた左近は、「さあ、どうだろうな。」と、笑みを含んだ。


「あの方は不器用なお方でな。」

 左近は盃を置いてゆっくりと語り出した。三成の話をするときの左近は、とても優しい顔になった。


「正しいことは正しい。間違ったことは何があっても見過ごせない。うまく立ち回ることができないお人で、すぐに敵をお作りになる」

 信繁から見ても、今の三成はまさにそうであった。


「その時言われたのだ。秀吉様の出世に伴い自分も大きな役目につく事も多くなる。自分は人づきあい、世渡りが苦手な半人前だ。自分に足りない部分を補う“半身”になって欲しいと」

 左近は照れ臭くなったのか、お猪口の残った酒を一気に口を含んだ。


「その正直さに打たれて、納得されたのですね。」

「正直?殿は人づきあいだけにあらず、戦もからっきし、半人前どころではない大噓つきじゃったわ」

 そう言いながら信繁の肩を強く叩く左近は、本当に嬉しそうである。


「で、どうなんですか?知行の半分の話は」


「ん?それはの……。殿とわしとだけの秘密じゃ」



 その夜、信繁は床に入ってからも眠れずにいた。左近のあの時の言葉が耳から離れなかった。


(家を割る…)

(天下を敵に回す……)


 一方幸村の、あの時の表情。

(信繁様は何もわかっておられません!)

 その後寝てしまった幸村を布団に運び、寝顔をじっと見つめた。はだけた小袖の胸元を整えてやり、行燈の灯を消してそのままそこで寝てしまった信繁。


(家……)

 真っ暗な部屋の中で、風景が鮮明に浮かんでくる。主家武田家の滅亡に際し、真田家を守るために懸命に策を練り、指示を出す父昌幸。上田合戦での激戦で、顔中泥だらけになりながらも走り回る兄信幸。人質として秀吉の元に送られ、誰も知る者もいない不安な環境でも隣で支え続けてくれる内記。


 それらを考えているうちに、徐々に空が白み始めたころ、ようやく信繁の意識は遠くなっていった。



 数日後。

 庭の虫の音が時折聞こえるだけの静寂の中、昌幸と信繁は二人きりで向かい合っていた。行燈の心もとない灯りが、二人の影を障子に揺らしている。


 昌幸は手酌で酒を注ぎ、ぼんやりと盃を見つめたまま口を開いた。


「源次郎。大谷家への返事、どうするつもりだ」


 その声に、強要の色はなかった。ただ淡々と、息子の意思を問うだけの静かな響きだった。

 信繁は膝の上で拳を握りしめた。脳裏には、先ほど酒屋で聞いた島左近の言葉が過ぎる。


『家を真っ二つに割るほどの戦をする覚悟』。

 だが、今の真田に、豊臣の重鎮・大谷吉継との縁を断ち切る余裕などない。父や兄が必死に守り抜いてきた家名を、己の恋心一つで危うくしてよいものか。


 長い沈黙の後、信繁は顔を上げた。その表情からは、個人的な感情が削ぎ落とされていた。


「……お受けいたします。それが、真田の家のためになりましょう」


 昌幸は盃を口元へ運ぶ手を止め、信繁を見た。

「よく言った」と褒めるでもなく、昌幸はふぅ、と短く息を吐き、どこか期待外れのような、微かな残念さを滲ませて言った。


「……そうか」


 昌幸は酒を一気に飲み干すと、射抜くような眼差しを信繁に向けた。


「その浮かない顔。……誰か、心に決めた者でもいたのか」


 不意を突かれた。だが、もう隠す気力も、取り繕う必要も感じられなかった。信繁は覚悟を決め、短く、あっさりと答えた。


「幸村にございます」


 その名は、夜の静寂しじまにぽつりと落ちた。

 信繁は身構えた。「忍び風情になどうつつを抜かしおって」と、激昂されると思っていた。扇子が飛んでくるかもしれないとすら思った。


 だが、訪れたのは深い沈黙だけだった。

 昌幸は怒鳴らなかった。驚きもしなかった。ただ、空の盃を見つめたまま、時が止まったかのように動かない。


「……そうか」


 絞り出すような、低い声だった。

 信繁はその反応に戸惑った。あまりに静かすぎる。


「父上……お叱りにならないのですか」

「……」

「相手は草の者。家中も反対しましょう。父上ならば、たわけたと一喝なさるものと……」

「いや」


 昌幸は視線を逸らし、はぐらかすように首を振った。そして、探るような目で信繁を見据えた。


「ただ……なぜ、幸村なのだ」


 その問いには、単なる好奇心以上の、切実な響きがあった。まるで運命の悪戯を呪うような、重い響きが。

 信繁は、胸の奥に秘めていた想いを言葉にした。


「理屈ではありませぬ。ただ……あやつとは、言葉を交わさずとも通じ合うのです。初めて会った時から、まるで失くした半身を見つけたような……魂の深いところで繋がっているような、そんな気がしてならぬのです」


 信繁が語る間、昌幸の表情が揺れた。


(幸村は……知っておるのだな)

 昌幸は心の中で独りごちた。だからこそ、幸村は頑なに源次郎を拒んでいるのだと。


「……そうか。下がってよい」

 昌幸は急に話を打ち切った。


「は……」


 自室に戻った信繁は、灯りを消したあとも眠れずにいた。

 暗闇の中で、父の顔が何度も蘇る。幸村の名を聞いた時の、あの凍りついたような目。

「なぜ幸村か」と問うた時の、縋るような響き。そして、信繁の想いを聞いた後の、あの苦しげな表情。


 あれは、「身分違いの恋」に対する親の顔ではなかった。もっと別の、決して触れてはならぬ深淵を覗いてしまった者の顔だ。


(なぜだ……?)

 なぜ父は、怒るのではなく、あのように悲しげな顔をしたのか。なぜ自分は、幸村にあれほどまでに強く惹かれ、幸村は頑なにそれを拒むのか。


 失くした“半身”。

 自らが口にした言葉が、不気味な重みを持って胸に沈殿していく。


(私と幸村の間に……何か、あるのか?)

 それはまだ、形を持たない漠然とした予感だった。

 だが、信繁の心には、己の出生という根源的な謎に対する疑念の種が、確かに撒かれていた。


 ◆第十六章 「修羅の産声」へ続く


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