◆第十四章 信繁と幸村
天正二十年、豊臣秀吉は「文禄」と元号を改めた。
愛児・鶴松を失った悲しみを振り払うかのように、秀吉は大陸への野望を露わにした。唐入り――すなわち、明国への侵攻である。
肥前名護屋城には全国の諸大名が集結し、おびただしい数の兵と物資が海を渡っていく。だが、信繁は大坂に残されていた。秀吉の馬廻衆としての役目、そして父・昌幸が大坂での留守居役を命じられていたためである。
大坂の町は、戦に向かう高揚感と、終わりの見えぬ動員への疲弊感が混ざり合い、澱んだ空気に包まれていた。
深夜。大坂真田屋敷の離れ。
行燈の灯る一室で、幸村は戸隠宛の文を書いていた。
宛名は「橘佐助」殿。
「これを」
合図と共に縁側に現れた下忍に書を預けると、その下忍は一路信州戸隠へと駆けて行った。
空を見上げると新月。闇も深い。
あの日も新月の夜だった。凜がこの世を去ったあの日。
幸村は、首からぶら下げているお守りを握りしめた。中には凛の遺髪が入っている。
母屋の方に目を向けると、信繁の居室あたりから行燈の灯がこぼれていた。
そっと近づくと、普段屋敷で酒を飲むことなど滅多にない信繁が、一人盃を傾けていた。
「まだ風が……冷とうございますよ」
信繁は声のする方に目をやると、幸村が傍らに跪いていた。
普段、髪の毛を後ろに括り、若侍風に身を窶して忙しく立ち回っている幸村だが、今は休んでいたところだったのか、髪は下ろし麻の小袖を重ね着していた。
凛を失った後も気丈に振る舞っているが、その顔には隠しきれない憂いがあった。
「幸村。……少し、付き合わぬか」
幸村は一瞬ためらった。
「凛への献杯じゃ」
信繁のその言葉に、幸村もゆっくりと盃を取った。
この新月の夜の闇を見ながら、何を語るわけでもないが、凜の事を思いゆっくりと酒を口に運び続ける信繁。幸村はその姿を見ながら、捨て石のような扱いを受ける草の者に対して、人として扱ってくれる事に心が救われた。
いつ敵襲があっても大丈夫なように、幸村はゆっくりと飲みながら一杯で盃を置き、注がれた二杯目は手を付けずにいた。信繁もそれを知ってか、あえてそれ以上は薦めようとはしなかった。
酌をする幸村の手は、細くしなやかで、あの夜半蔵との死闘の中で刃を交えていたあの手と同じとは思えなかった。だが、小袖から見える腕や足のあちこちには、小さな傷があまたあり、日々の見えないところでの忍び働きの過酷さを物語っていた。
「いつも苦労をかけるな」
優しい笑みと共に、まっすぐに目を見て語り掛ける信繁。幸村はこんなに近くで信繁の顔を見たことがなかった。優しく語りかける目、いたわりの言葉が発せられる薄くて小さめの口元、筋肉質で鍛え抜かれた肩と小袖から垣間見える厚い胸板。幸村は時間が止まったように見とれてしまった。
「幸村はどう思う?」
はっと我に返り、幸村は焦りからとっさに目の前にあった盃の酒を飲んでしまった。飲み干してから慌てる幸村の姿に、信繁は苦笑しながら、空いた盃に酒を注いだ。
「何がでございますか?」
「今話した縁談の話」
少しあきれ顔の信繁が言うには、秀吉の薦めで大谷刑部少輔吉継のご息女との婚儀の話が上がっているという。
大名間での婚儀の話は信繁の年では、遅いくらいであった。兄信幸もすでに徳川家重臣本多忠勝の娘を娶っていた。
突然の話に幸村は何とか感情を隠しながら「おめでとうございます」と祝いの言葉を継いだ。さっきまで、すぐ近くに感じた信繁との距離が、一瞬で崖から崩れ落ちたような、すぐそばにいる信繁の姿がはるか遠くに感じるような、そんな心の動揺を隠そうと思わずさらに盃をとってしまった。
「今日くらいは、よかろう」
さらに空いた盃に酒を注ぎながら、信繁は続けた。
「幸村の気持ちが聞きたいのじゃ」
「私の……。草の者である私の気持ちなど、通るものでもございませぬ」
幸村は酒を一杯以上は飲んだ事が無かった。忍び働きに影響がある酒は、いつの時でも飲んだふりをして、実際は飲んではいない。だがこの日は、主君信繁の勧めもあり一杯はお付き合いをし、もし二杯目以降を薦められた場合は、いつものように飲まずに過ごすつもりが、つい心の動揺に紛れて、呑んでしまっていた。
信繁の盃に酒を注ぐ幸村の細い手に信繁はやさしく手を添えた。
「儂は、幸村の事を特別におもうておる。」
「あ……」
突然の事に、思わず徳利を落としてしまった幸村。
酔いがまわり、そのままふらっと信繁によりかかった。
小袖の胸元がはだけ、体に似合わぬ豊かなふくらみが信繁の目に飛び込む。思わず目を逸らすが、信繁の心臓は早鐘のように打ち始めていた。見上げる幸村の顔は吐息がかかるくらいの距離だ。近くで見る幸村の顔は、日焼けをしているがきめ細やかな肌、小さな顔に二重の大きな両の目、顔の割に小さな鼻に、薄い唇は淫靡な光沢をたたえていた。お酒のせいか目は涙で潤んでいるようである。
「信繁様…」
見上げる幸村の顔が更に近づく。幸村の体から発せられる普段とは全く異なる甘い匂いが、酒の酔いと交じり合い、信繁の理性を激しく揺さぶっていた。
「私がお慕い申し上げても、……叶わぬものでございます」
胸元でしなだれかかる幸村の大きな乳房が信繁の胸に押し付けられ、小袖の胸元からはみ出しそうなほどであった。
「幸村も同じ気持ちなら、身分の違いなど、気にするな。何とかして……」
そう言い終わらないうちに、幸村は信繁を突き放すように姿勢を正し、「信繁様は何もわかっておられません!そんな、そんな話ではないんです!私と、信繁様は……」
言葉の途中で、ふつりと糸が切れたかと思うと、幸村はふらっと信繁の胸元によりかかり、今度は完全に寝てしまった。
翌朝
翌朝。
幸村は外の騒がしさで目を覚ました。起き上がろうとすると、頭に激しい痛みが走る。ここは幸村の自室のようだった。
「信繁様!」
「信繁様!」
屋敷内や庭先で主を探す声。内記の大きな声はひときわ頭に響く。
(信繁様が……いない?)
ぼんやりとした頭でふと隣を見ると、同じ布団の中で、その信繁がすうすうと寝息を立てていた。
「っ!?」
思わず飛び起きる。自身の小袖は大きくはだけ、染み込んだ酒の匂いがふわっと鼻をかすめた。
「ん、起きたか」
物音に気付いた信繁は起き上がると、素っ裸であった。思わず目を逸らしながら、幸村は詫びた。
「申し訳ございません。忍でありながら、酒におぼれてしまうとは」
自分の身なりを整えながら、昨夜の事を思い出そうとしていたが、婚儀の話がある、というあたりから全く記憶が無かった。
「いや、幸村といろいろと話せて良かった」
「あの、その……」
あのあとどうなって、ここに来たか、気になって仕方がなかったが、どう聞いたら良いか悩んでいると、内記の信繁を探す声がすぐ近くまで迫ってきた。
「この場で見つかると、何かとややこしい。幸村、また飲もうな。」
そう言い残して、信繁は小袖を整えて、急ぎ裏口の方に向かって出て行った。
開け放たれた戸から差し込む朝の光はひどく眩しく、昨夜の出来事のすべてが、まるで月夜が見せた幻のように思えた。
◆第十五章 「血の楔」へ続く




