第五十七話 記憶の齟齬
「なにをしているんです‥‥ブルーベル?」
瑞生がそう声をかけても、ブルーベルはずっと黙ったきりだった。その沈黙をかき消すかのように、三人から離れた場所に居座っている龍が、天空にむかって甲高い声で咆哮した。咆哮の余韻のような混濁した唸り声をいくつか発してから、ふたたび龍は静まりかえると、ブルーベルがぼんやりとした芯のない声で言った。
「わからん‥‥私のほうが教えてほしいくらいだよ‥‥私はいったいなにをやってるんだ?」
ようやく瑞生の後頭部に銃口を向けられていることに気づいたご陰キャさまが慌てて立ちあがり、すぐさま両手で銃を構えてブルーベルのほうに向かって叫んだ。
「おいおっさん、なんで瑞生クンに銃を向けてんだよ」
瑞生もおろしていた銃をふたたび両手で構えて、ご陰キャさまの頭に狙いを定めながら言った。
「撃つな。ブルーベルを撃とうとしたら、そのまえにお前の脳味噌を吹き飛ばすぞ」
「はあ? そのおっさん、瑞生クンを撃とうとしてんだろ」
「これには事情があるんだ‥‥」
「なんの事情だよ。ふざけんな。そのおっさん、引き金に指かけてんだぞ」
手術台のうえで麻酔の効きはじめた人間のように、ブルーベルは全身から力の抜けた声で瑞生に言った。
「その事情とやらを聞かせてくれないか、瑞生君。なぜこうして私の腕が勝手に動いて‥‥銃で君の頭を撃ち抜こうとしているのか‥‥君にはその理由がわかってるんじゃないのかね」
瑞生は目を伏せながら、ずっと下唇をきつく噛んでいた。やがて瑞生の唇の端から、一滴の血が静かに垂れ落ちていった。瑞生はようやく口を開くと、低く押しころした声でブルーベルに訊いた。
「指はまったく動きませんか」
後頭部のあたりで拳銃の引き金にかちゃかちゃと指をかける音がした。そんな動作では拳銃が発砲しないことを知り尽くした、いかにも銃を使いなれている人間の扱いかただった。
「かろうじて指の関節部分だけが動く感じだな‥‥それよりも早く教えてくれ。なぜ私はこんなことをしているんだ」
「‥‥まだわかりませんか、ブルーベル」
しばらくのあいだブルーベルは黙ったままだった。
「いや‥‥うすうすわかってはいるんだよ‥‥だがな、頭のなかで考えて、頭のなかで結論を出しただけじゃ、なかなかすんなりその事実を受け入れられないんだ‥‥」
瑞生はふたたび口を開きかけたが、ブルーベルが喋りつづけるためまた口を閉じる。
「たった一日のあいだの話とはいえ、君は相棒だった‥‥私みたいなポンコツにはもったいないくらいの素晴らしい相棒だった‥‥若いのに君の言葉には隅々にまで不思議な説得力がある‥‥その君の口からじかに言ってほしいんだよ」
肺の底からむりやり引きずり出してきたようなブルーベルのその言葉に、瑞生は一度だけ小さくうなずいた。そしてなにも見ていない目でご陰キャさまの顔をしばしのあいだ見つづけたあと、ついに観念したような表情を浮かべて、正面を見据えたまま震える声で言ったのだった。
「ブルーベル‥‥あなたもカエデの創作物なんです」
瑞生の放ったその言葉に、ご陰キャさまが荒々しい動作で銃を構えなおした。視線だけを動かし、鬼のような目つきでご陰キャさまの顔を睨みつけながら瑞生は叫んだ。
「やめろ、馬鹿野郎。この人は敵じゃない‥‥たとえ僕の頭をこのまま撃ち抜いたとしてもだ」
龍がふたたび咆哮して空に翔けあがり、全身を軽やかにしならせて同じ空域をぐるぐると舞いはじめた。瑞生たちの立っている位置からはだいぶ離れているものの、それでもその飛翔によっていきおいのある風が荒々しく吹いてくる。背後でブルーベルが力なく笑い出した。
「面白いよな、瑞生君‥‥君にこんなユーモアのセンスがあるだなんて、思ってもみなかったよ‥‥私がカエデの創作物だって?‥‥こんなにもはっきりとした記憶があるってのにか?」
瑞生はまだ下唇を噛み切りつづけ血を滴らせながら、目を伏せて黙ってうなずいた。ブルーベルは少しだけ間を置いてから喋りだした。
「‥‥私は田舎の出でな。私が中学に入ってまもない頃、親父の勤めていた半導体の製造工場が、よその国に移転させるとかで閉鎖されちまった。三ヶ月さきの解雇を言い渡されて家に帰ってきたときの親父の痛ましい姿を、まるで昨日のことのようにいまでもよくおぼえてるよ。いつも朗らかで前向きな性格の人だったんだが、帰ってくるなり居間のソファに倒れるようにぐったりと身を沈めてしまって、そのまま動けなくなったんだ。たぶん朝までそうしてたんじゃないかな。明け方に便所に起きて、居間のまえを通りかかって私がそっと見たときも、親父はぐったりとソファに目を開けたまま身体を沈めていた。大人でもこんなに打ちのめされて、しかもそれを隠そうともしないってのが、子供の私にはけっこう衝撃的だったよ。‥‥親のああいう姿ってのは、忘れようとしてもなかなか忘れられないもんだ。大往生して病院のベッドで眠るように安らかに死んで、葬式で棺桶を開けて、最後のお別れってときにずっと私の頭に浮かんでいたのは、どういうわけだか、ながい人生でたった一度だけ見せたあの痛ましい姿だったよ。本人はそんなこともうとっくの昔に忘れていて、息子が自分のそんな姿をはっきりとおぼえているなんて、夢にも思ってなかったはずなんだがな」
ブルーベルはそこで力なく短い笑いを洩らした。
「‥‥その半導体の工場のほかには温泉旅館と役場と学校と畑仕事くらいしか働き口のないような辺鄙なとこだったから、親父はもうそんなに若くもなかったのに、一念発起して家族を連れて都会に越してきた。だから私にとって子供の頃の記憶といえば、野山の風景にそのまま直結している。子供の頃のことをちょっと思い浮かべただけで、頭のなかにさっとその壮大な風景が広がるんだ。辺鄙な田舎といっても数えきれないくらいの人間がその風景のなかにいて、頭のなかに思い浮かべるだけで、それぞれ特有の癖を持ったその連中が勝手に動き出して、癒してくれるようなことやら忘れてしまいたいことやらをべらべらと喋ってきやがる。人生ってのはつくづく面白いもんだよな。それを経験しているときはまったく意味があるようなことには思えなかったってのに、意味ってのはいつもあとからついてきやがるんだ‥‥」
ブルーベルは笑いと溜め息の入り混じったような声を洩らした。
「都会に来てから出会った連中もそれは同じだ。高校生になって子供の頃からつづけてた野球にまたまえみたいに熱心に打ちこんで、その輝かしい青春の真っ只なかでカミさんにつかまって、大学に進んで就職して社会人になって、生まれてきた悪ガキふたりを育てて‥‥その記憶のどの層にも膨大な量のなまなましい思い出が紐づいている。なあ、瑞生君。教えてくれ。カエデの組み立てたこの物語のなかじゃ、せいぜい凡庸な立ち位置でしかない私なんかのために、カエデはそういった記憶をいちいち丁寧に捏造したってことなのか?」
瑞生はしばらくのあいだ黙ったままだったが、やがてブルーベルのその問いにたいして、絞り出すような声で答えた。
「そのデータを‥‥記憶を構築するのは、カエデにとってはほんの一瞬のことなんです」
今度は瑞生のほうがブルーベルの言葉を待つ番だった。背後で吹いている風のなかで、頭を振りつづけて風の流れを乱しているようなかすかな音が、しかし瑞生の耳にだけは確実に届いていた。
「‥‥いや、ほかの人間のことなんてどうでもいい。ふたりの息子たちも、あの憎たらしくて愛らしいカミさんも、それからその三人と築いてきた私のささやかな思い出も‥‥私の頭のなかにだけしか存在しないってことなのか?」
瑞生はなにも答えることができなかった。沈黙がつづいた。ブルーベルがふたたび口を開くまで、これまでの人生で経験したことのないような戦慄‥‥いや、戦慄と呼ぶことさえ生易しく思えるそれと似たなにかが、逃げ場のない強力な電流のように、ずっと瑞生の身体を駆けめぐって延々と循環していた。その事実が当の本人に与える精神的な効果まで想像することは、瑞生にはとてもではないができることではなかった。
「冗談じゃない‥‥そんな残酷なことが人間にできるものなのか?」
瑞生はそれに答えるのが自分の使命であるかのように、なんとか声を絞り出して言った。
「いいえ‥‥カエデは‥‥人間じゃありません」
「そうだったな‥‥カエデは人間なんかじゃない‥‥そのとおりだ」
ブルーベルはむしろ子供の他愛のない悪知恵に呆れるようなかるい溜め息をついた。そしてながいあいだ黙りこんだあとでまた口を開いた。
「‥‥なあ、こういう事態になっても君はまったく驚いてもいないし、こうやって銃口を突きつけられているのに逃げようともしない‥‥私もカエデの創作物だったってことを、君は最初から知っていたのか? たしか私はカエデに思いきり蹴られたはずなんだが」
「僕もその茶番に惑わされました‥‥ですが、途中で気づきました」
「どこで気づいた?‥‥いや、もうそんなことはどうでもいい。知ってどうなるってんだ。ばかばかしい」
ブルーベルはそこでひと息ついてから、どこか追い立てられるような口調でまた喋りつづけた。
「‥‥で、カエデのお嬢ちゃんは、私の腕をつかって君の頭を撃ち抜いて、強制的にこの仮想空間からログアウトさせようって魂胆なわけか。ふん、われらが瑞生君を舐めてもらっちゃ困る。君ほどの頭脳の持ち主なら、こんな単純なトラップなんていとも簡単に切り抜けられるってことに、カエデのお嬢ちゃんはまだ気づかないのかね。‥‥問題はむしろ君がそういった突破口をいくらでも思いつけるってところだな。現にいまだって、潤沢な手持ちのカードのどれを切ろうか、それを迷っているくらいなんだろ」
しかし瑞生は相手が期待していたほどには時間もかけず口を開いた。
「いいえ‥‥そんなものはありません」
瑞生のその言葉に、ブルーベルは怒ったような口調で言った。
「馬鹿を言うな。そんな簡単なこと、なにも瑞生君の知恵を借りなくったって、私にだって思いつけるぞ。そこで死にそうな顔をして私に拳銃を向けているハッカーに命じて、いますぐ私を撃ち殺させればいい。簡単なことじゃないか。なにを迷っているんだ」
瑞生は静かに何度も首を振ったあとで言った。
「あなたが逆の立場だったら‥‥同じことができますか」
「私ならするよ」
ブルーベルは即答した。瑞生は笑顔を浮かべようとした。だが実際にはわずかに口角を引きつらせることしかできなかった。
「ブルーベル‥‥あなたも嘘をつくのがそうとう下手ですね。人のことを言えないじゃないですか」
ブルーベルは背後でわざとらしく音を立てて拳銃の引き金に指を絡ませた。しかしもちろん瑞生は微動だにしなかった。瑞生はさっきつくりそこなった笑顔を不器用にまだ顔に張りつけたまま、穏やかな口調で言った。
「その手には引っかかりませんよ。そんな子供騙しみたいな引っかけで、僕がご陰キャさまにあなたを撃ち殺すように命じるとでも思ったんですか?」
背後で小さく溜め息をつくのが聞こえてから、ブルーベルはふたたび口を開いた。
「君って奴はほんとうにめんどうくさい男だな‥‥いまのがカエデが腕を動かしたんじゃないと、どうしてわかったんだ」
「カエデはあきらかにあなたに銃を発射させるタイミングを図っています。‥‥これまで僕を撃ち殺させるチャンスなんて、いくらでもあったはずなんです。でも、なぜかカエデはそれをしなかった。たぶんカエデなりのタイミングでそれをやるつもりなんでしょう。どういうタイミングがカエデにとっての最適解なのかは僕にもわかりませんが、それでもけっしてこのタイミングじゃなかったはず。少なくとも僕とあなたがこんな会話をしたあとのタイミングではなかったはずだ。‥‥このタイミングでそれをやれるほど、カエデは成熟した人間の感情を持ちあわせてはいないんです」
まるで相手がミリ単位で照準を合わせて狙わなければならない標的ででもあるかのように、突きつけられている銃口が、後頭部をほんのわずかだが撫でるような動きかたをした。瑞生はたしかにそれを感じた。後頭部に当てられた銃口のかすかな振動を通じて、瑞生にはそれを握っている人間の心の動きが、言葉をつかうよりもよほど明快に伝わってくるのだった。
「成熟した人間の感情なんてものを少しでも持ちあわせてりゃ、もとからこんな残酷なことはできないだろうよ。しかし‥‥君って奴はまったく面白い男だ。こういう状況ででもなけりゃ、君のそうした分析に、私は腹をかかえて笑いころげていただろうな」
瑞生はブルーベルのその言葉に力のない笑い声を洩らしてから言った。
「ブルーベル‥‥カエデが狙っているタイミングなんかとは無関係に、いますぐその引き金を引いてください。べつに気にしなくていいですよ。その拳銃から吐き出された弾丸が脳味噌をつらぬく直前に、僕は現実の世界でめざめるってだけのことですから」
「だがそれは‥‥君が‥‥君たちがカエデに負けるっていうことだろ」
瑞生はまた静かに何度も首を振ってから言った。
「それがなんだっていうんです‥‥もうそんなことはどうだっていいですよ。さあ、こんな不毛なゲームはとっととあなたの手で終わらせてしまいましょう。僕の口から言えるのは‥‥それだけです」
空を飛翔しつづける龍が、咆哮して口から火焔を吐いた。龍が火焔を吐き出したのは瑞生たちの立っている位置とは反対の方向だったが、風にのってほのかな熱が肌を不快に撫でてくるのだった。ふたたび龍は咆哮すると、同じ空域で不規則な軌道を描きながら、ゆったりと旋回を繰りかえした。ふたりの会話が届いているのか、ご陰キャさまは両手で銃を構えながらも、ずっと視線を落としたまま微動だにしなかった。
とつぜん瑞生の頭に突きつけられていた銃口の感触が消えた。瑞生はまったく想定していなかった驚きのため目を見開き、細かく身体を震わせはじめた。そんな瑞生の驚きをよそに、背後でブルーベルが子供のようにはしゃいだ声で呟く。
「おい、見ろよ、腕が動くぞ」
そのブルーベルの声に瑞生が慌てふためいたように叫んだ。
「駄目です、ブルーベル、腕を動かさないでください」
しかしブルーベルの発する声は瑞生の声とはあくまで対照的にどこか明るく弾んでいた。
「なに言ってるんだ。こいつは面白い‥‥腕が動かせるっていうことは、私の強い意志とやらが、カエデの支配に抗っているということなんじゃないのか? なあ、瑞生君‥‥これはそういうことなんじゃないのか?」
「やめてください、ブルーベル‥‥このまま引き金をひいて僕の頭を撃ち抜いてください。それであなたの役目は終わります。あとは苦痛もなくそのまま消え‥‥」
瑞生はそれ以上、言葉をつづけることができなかった。
「そんなことしてやるもんか。‥‥カエデのお嬢ちゃんのくそったれなんかの思惑どおりにことを運んでたまるもんかね」
表情を引きつらせながら瑞生は大声で叫んだ。
「やめてください‥‥ブルーベル‥‥そんな終わらせかただけはしないでください」
「なあ、瑞生君。私にだって男の意地ってもんがある。‥‥頼むからそれを尊重してくれよ。たった一日のあいだだったとしても、それが気のきいた相棒の最後の務めってもんじゃないか。違うか?」
瑞生はなにも答えず、固く結んだ唇からは、まだ血が垂れ落ちていた。沈黙がつづいた。自分でもまだながくなるとわかっている沈黙をかき消すように、ブルーベルはためらいながらも口を開いて静かな声で言った。
「しかし‥‥君はよくこんなことをやってのけたもんだな。いや、死にがっている人間がそうするってのはわかるんだよ。でも君はそうじゃなかった。ほんとに君って奴はいろんな意味で規格外の男だな‥‥いや、いまのはべつに皮肉じゃない‥‥ちゃんとした褒め言葉だよ」
ブルーベルは残っている体力をそこで使い果たすように笑い声を洩らした。そしてさらにほんの少しだけ残っている気力を振り絞りながら震える声で言った。
「‥‥なあ瑞生君、私だって君みたいに、自分の頭を撃ち抜いても現実の世界でめざめる可能性だって、まったくのゼロってわけじゃないんだろ。たまには君の鉄壁の読みだって外れることはある‥‥そうだよな?」
瑞生はうつむいたままなにも答えなかったが、それでもこれが自分に課された大事な役割ででもあるかのように、小刻みに震えながら顔をあげてまっすぐまえを向いた。
「それで現実の世界でめざめたら、ベッドの近くで待ちかまえているふたりのかわいい坊主たち‥‥あの悪ガキどもが私の腹めがけて飛びこんでくる可能性だってある。そうだろ?」
「ええ‥‥その可能性は‥‥あります」
瑞生はどうにかその言葉を吐くことだけができた。広大な空をわがもの顔で自在に飛翔する龍が優雅に風を切って旋回しながらひときわ甲高く咆哮した。最後にとうとう素直に自分の弱さを受け入れることができたような残酷なほど震えた声でブルーベルは言った。
「君って奴はやっぱり‥‥優しい男なんだな‥‥ありがとう」
銃声が鳴り、血飛沫がとんだ。




