第二十話 『地獄の七所巡り篇』 其の一 万の階段(後編)
それでも瑞生は階段の一段目に立ったまま、じっと身動きしなかった。AIに言われたとおりに行動することに、どこか抵抗があったのである。とはいえ、メグの言ったとおり、こうしていてもただ時間が過ぎていくだけなのだろう。
そもそもメグの言ったとおりにやったところで、なんらかの罠が仕掛けられていないとはかぎらない。そこはまったく信用できない。またメグの存在そのものもやはり当てにならないところがある。結局のところメグはどこまでいっても、電源プラグを抜けばあっけなく消えてしまう存在に過ぎないのである。そんな存在に指示されたとおりに行動するのは、やはりどこか馬鹿げたところがある。
おそらく、メグの言うように、この塔の下はほんとうに底がないのだろう。もちろん現実の世界には、宇宙空間をのぞけば、底のない空間なんていうものは存在しない。だがメグが塔の下には底がないというのであれば、メグがこの空間を創造したわけだから、疑う理由がない。階段から足を踏みはずしてしまえば、現実世界で眠っている瑞生が餓死してしまうまで、半永久的に闇のなかを落ちつづけるのである。
しかし瑞生にはなぜか確信があった。足を踏みはずして暗闇の底に落下しつづけることになったとしても、どこかの時点でご陰キャさまがスーパーマンのように現れて、お姫さまだっこで抱きとめてくれるはずだ、という気色のわるい確信が。
瑞生は考える。‥‥結局はご陰キャさまがプログラムをいじりたおして救いに来てくれるのを待つしかないのである。といっても、ご陰キャさまはさっき会ったばかりの他人だ。本名だって知らない。正確な年齢だって知らない。知っているのは、ご陰キャさまが暇をもてあました凄腕ハッカーであるということだけ。指をくわえてただモニターを眺めているだけ、なんてことは、ハッカーとしてのプライドが許さないはずである。そして瑞生はそこに賭け金のすべてを置いているのである。
そんなわけだから、瑞生はメグの用意したこの地獄をあくまで強気に突っぱねることもできる。このまま適当に階段をくだり、足を踏みはずして闇のなかをひたすら落下しつづけるのもオツなものだと、そんな悠長なことを考える余裕すらあった。
いかに難解とはいえ、時間がかかってでもご陰キャさまがプログラムをハッキングして、ここから救い出してくれるはず。ご陰キャさまはニートだ。時間はたっぷりある。時間だけがたっぷりある。
だが逆にいえば、それなりに時間はかかるわけだ。‥‥そのあいだこの暗闇のなかにぼうっと突っ立っているのか?
いや。そういうわけにもいかないだろう。瑞生はふと思った。暇つぶし。うん。それでもいいじゃないか。しばらくしてから、瑞生は諦めたような表情を浮かべて、右手を壁にぐいと押しあてると、一段ずつかぞえながら慎重に階段を下りはじめた。
単純な話だ。メグに言われたとおり、右手を壁にあてながら、百段ずつ切りかえして階段を下っていけばいい。それだけのこと。しかし‥‥いささか単純すぎるのである。
頻繁に瑞生の足がとまる。ついよけいなことを考えてしまい、何段おりたかを忘れてしまうのである。しかも百段をかぞえるのと、何回折り返したのかかぞえるのを、並行して記憶しておかなければならない。瑞生のように理系に長けた人間でさえ、やはり数字が頭のなかで踊るのである。
せめて何回折り返したのかさえ、どこかに書きとめておければいいのだが、足もとどころか、目と鼻のさきにあるはずの壁さえ見えない暗闇なのである。服や靴にめじるし的なものを刻めればいいのだが、それも叶わないわけだ。
おまけにこの単調さである。ラジオをチューニングしている最中に飛びこんでくるノイズのように、さまざまな雑念が頭をよぎってくるのだ。その雑念にとらわれて、瑞生はかぞえていた数を完全に忘れてしまった。
瑞生は壁に手をあててみる。壁はちゃんと瑞生の右側に存在していた。もう一段おりてみて、また手をあててみた。今度は手がなにもあたらなかった。腕を伸ばし、手首をまげれば、手が壁にあたる。壁に身体を押しつけて斜めの方向にそっと左足を下ろすと、石段のつづきがある。瑞生は考える。‥‥ということは、べつに数をかぞえなくても、壁に手をあてるという行為を怠らなければ、大丈夫なわけだ。瑞生はほっと安心して、それっきり数をかぞえるのをやめてしまった。
闇のなかではさまざまな感覚が狂う。時間の感覚も狂うし、心の平衡感覚みたいなものも狂う。さらに数をかぞえなくなったことで、瑞生の頭は雑念で埋めつくされてしまった。数をかぞえることには、むしろ意識を集中させる効果があったのである。
そもそもメグに言われたとおりに、一万もの階段を律儀におりていく意味がわからなくなる。階段を一段ずつおりていくのも、石段の下の闇に向かってダイブするのも、結局は同じことなのだ。瑞生はいつかご陰キャさまが助けに来てくれるだろうと、心のどこかで確信している。
しかし、もし来てくれなかったら? あるいは、ご陰キャさまのような手練れのハッカーにだって、何重にもプロテクトをかけられたメグのプログラムをいじることができない可能性が、ないわけではない。その場合、瑞生はひたすら落下しつづけ、現実の世界でアイマスクをつけて眠っている本体が、そのまま餓死してしまう。
とうぜんのことのようにご陰キャさまが助けに来るのを期待しているが、来てくれる保証なんてどこにもない。信頼を寄せられるタイプ、というわけでもない。しょせんは出会ったばかりのアカの他人なのである。本人の言ったことがほんとうなら、札つきの無法者ハッカーだ。単なる犯罪者。頼りにするほうが、どうかしている。ハッカーのプライドだって? 母子家庭のニートでハッカーなんかやっているやつが、人間としてのプライドがあるかどうかさえ疑わしい。
瑞生は全身が汗でびっしょりになる。何度も闇の底にダイブしたくなる衝動にかられる。階段をおりていくという、この行為自体が無意味であるような気がしてくるのである。こうした迷いもまた人生の地獄のひとつということなのか。
これはそもそもメグの意図した地獄なのか。AIなんかに人間のそんな生き地獄を理解できるのだろうか。迷いこそが人生の究極の地獄であるということを、迷いなどないはずの機械が考えだしたとでもいうのか‥‥
いや。考えるな。闇は思考を支配する。大量の雨水が時間をかけて家屋の床をじわじわ侵食していくように、闇そのものも思考を侵食していくのだ。こんな闇が支配する世界では、ろくなことを考えない。視界に光が届くまでは、いっさいの決断を待て。闇が思考を侵食していくものだとしたら、光もまた思考を侵食していくものだからである。なんらかの決断をくだすのは、せめて光が視界に届いてからだ。それまでは自分のなすべきことに集中しろ。
瑞生は右側に手をあてる。この行為だけが命綱だ。まるで宗教的な儀式のように、瑞生もその行為だけは欠かさなかった。心をからっぽにして、慎重に瑞生は階段を下っていった。
あいかわらず変な汗をかく。シャワーを浴びたいと瑞生はひたすら思う。そして自分の住んでいるマンションのシャワーを浴びたあとの、がらんとした部屋にまで思いを馳せる。詩梁の存在しない空間。孤独を描き出すキャンバス。この暗闇から抜け出せようと、現実の世界に帰れようと、結局はそこに立ち戻らなければならない。そのことを考えただけで瑞生は憂鬱な気分になる。いや、ダメだ。考えるな。光を‥‥光が届くのを待つんだ。
無意識のうちに階段を下っていく歩調が早くなっていることに気づく。壁に手をあてるのも単なる惰性の行為となっていた。あるべきはずの階段がないことに気づき、足を踏みはずしかけ、上半身をそらして体勢を立てなおした。壁に身体を押しつけて不規則な呼吸を繰りかえした。落ちつけ。これは人生を生きるのとまったく同じことなんだ。焦って結論にとびつこうとしたら終わりなんだ。いや、違う。結論なんてしょせんは解釈に過ぎない。過程にこそ気を配れ。そしてそれを丹念に生きろ。
ふとした折りに、瑞生は階段を上に登っていっているような感覚に襲われた。‥‥そういえば、四回切りかえすたび、つまり塔を一周した際に、そうした浮遊感を味わったような気がしないでもないのである。
浮遊感というのは一瞬のことである。身体が浮いた感覚になって、天地が逆になったような感じを味わった気がするのである。つまり、塔を一周するごとに、重力なんかもひっくるめて、天地が逆さまになるわけだ。メグだったらそういうアクロバティックなことも簡単にできるだろう。瑞生は、もしかしたらそうやって延々と同じ場所をぐるぐるまわっているだけなのではないか、という疑念にとらわれる。そんな疑念にとらわれた瑞生の絶望は、第三者の想像を絶している。
メグにたいする疑念、いつまで経っても救いに来ないご陰キャさまにたいする失望、はてまた現実の世界の職場の同僚たちにたいする日頃の不満にまで考えがおよび、さらには詩梁がとっくに結婚して家庭を築いているのではないかというどす黒い絶望感まで、瑞生の頭のなかでせわしなく渦まく。
瑞生は汗だくになる。おそろしく地味な作業なのに、心臓の鼓動が速くなる。もはや瑞生は壁に手をあて、足を動かすことだけに専念していた。闇を見据える目が、ベッドで寝たきりになった病人のように鋭くなっていく。
まだ一万の階段であるだけよかった。塔を一周した際、下った階段は四百段ということになる。一万の階段をおりるには、塔を二十五周すればいいことになるわけだ。そう考えればずいぶんと気が楽になる。たかが二十五周じゃないか。
しかしその二十五周がひどくながい。実際の時間のながさと、たかだか二十五周という数の少なさが、頭のなかでうまく結びつかないのだ。瑞生はもうすでに塔を五百周くらいしているような感覚に陥っているのである。
ほんとうに一万の階段を下りきったところに地面があるのだろうか。じつはもうとっくに一万段を超えているということはないだろうか。メグに担がれているんじゃないか。瑞生の頭に猜疑心が渦まく。とつぜんそうしたなにもかもにうんざりして、また闇の底にダイブしたい衝動にかられる。いや‥‥光が届くのを待つんだ。もうなにも考えるな。
階段はいつまで経っても終わらなかった。そういえば、子供の頃の夏はこんな感じだったな。瑞生はふと思い出す。子供の頃の夏はこんな風になかなか終わらなかった。蝉が鳴きつづけ、ザリガニが足元の川底を跳ねまわり、スイカの種がマシンガンの銃弾のように口から吐き出される、あの終わらない夏。
しかし、いつのまにか、夏は終わっていた。気がつけば、終わっていたのだ。同級生たちが長袖のシャツに着がえる頃には、夏の痕跡はもうどこにもなかった。夏もいつかは終わる‥‥。そうだ。この闇もいつかは終わるのだ。安心しろ。
瑞生は子供の頃を思い出した。なんの憂いもない幼年期、それはその頃の終わらない夏と同じようにいつまでもつづくはずであった。しかし知らぬまに現実という重苦しいカーテンが頭のうえに垂れ下がってきた。いや、そのカーテンは、無邪気な子供の頃から、ずっと垂れ下がっていたのだろう。大人になってから、ふとした瞬間に顔をあげ、そうしたものの存在にようやく気づくのだ。自分の人生に詩梁という存在が現れる以前のことが、なぜか瑞生にはひどく懐かしかった。
足元から蝉の鳴き声が聞こえるような気がする。耳を澄ましてかろうじて聞こえるような、遠い響き。瑞生はその遠い響きに向かって微笑む。そこには子供の頃の、終わらない夏が待っているような気がするのである。自分の意志に反して足が外側を向いた。闇の底から見えない手で引っぱられているように上半身が斜めに傾く。瑞生はわれにかえって自分の頬をぶつ。
何時間が経ったのだろう。瑞生はもう物を考えるのにすら飽きてしまった。壁に手をあて、足をおろす。やがてその作業にすら飽きてしまうのではないかという恐怖が瑞生のなかに芽生える。暗闇のなかで完全に足をとめてしまうことの恐怖に、瑞生は身の毛がよだつ。そして暗闇のなかでにたにた笑いながら、ひたすら壁に自分の頭を打ちつづける自分の姿を思い浮かべて戦慄する。そのことを想像するだけで、瑞生は気が狂いそうになるほど恐ろしかった。馬鹿な。こんな恐怖は、心のなかだけで蠢いているだけの恐怖に過ぎない。取り越し苦労ってやつなんだ。瑞生は自分にそう言い聞かせて、いったんはその恐怖を拭いさった。しかし時間が経つにつれ、瑞生はふたたびその恐怖にとりつかれること自体に恐怖する。恐怖そのものに恐怖する。まるで自分の影から逃れようとする正気を失った人間のように、瑞生は荒い呼吸を吐きながら階段をおりていく‥‥
瑞生は違和感をおぼえて身体の動きをとめる。右側に壁がないのに、伸ばした足の下にも石段の硬い感触がなかったのである。混乱した頭で、もう少しだけ足を伸ばすと、そこには土のような柔らかな感触のものがあった。‥‥地面、だろうか。瑞生はゆっくり石段に腰をおろす。足の裏で地面らしきものをおそるおそる撫でてみた。期待に応えるかのような、懐かしい土の、でこぼこした感触。瑞生は靴を脱ぎ捨て、ついでに靴下も脱いで、そっと足をおろしてみた。間違いない。やはり地面だ。瑞生は狂った人間のような笑顔を闇のなかで浮かべる。
ようやく終わったのだ。瑞生は両手で自分の頬を何度も叩く。夢ではない。メグはいずれその場所が訪れることをちゃんと約束していたのだ。瑞生は意味のない言葉を絶叫しながら、石段のうえに立ちあがり、両足をそろえ、いきおいよく闇に向かってジャンプする。
しかし両足が届きかけたその瞬間、まるで床が抜けたように、地面そのものが消えてしまった。




