第二十一話 『地獄の七所巡り篇』 其の二 カガミよカガミ
「という夢をあなたは見ていたのです」
白衣を身にまとった、医者らしき白髪の痩せた男性。六十代後半といったところだろうか。窓のカーテンを閉めきった六畳ほどの部屋のなかで、医者は万年筆や紙コップや医学誌やらが散らばった机に片肘をつき、キャスターつきの椅子に座って、身体をやや斜めにしながら、簡素な木の椅子に座った瑞生と向かいあっていた。
「夢?」
「はい。夢です。ゆ、め」
「‥‥ええまあ、寝ているときにアイマスクをとおしてこの世界を体験しているわけですから、夢といえば、夢ですよね」
「ほう。あなたはなかなかものわかりがいいですな。仮想空間、いや、ほんとよくできています。私が子供の頃には、こんな時代がくるなんて、想像もつきませんでした」
「ええ。はい」
瑞生は気のない返事をした。
「しかし文明というのはじつに不思議なもので、便利なものができると、なぜか精神を病む人が出てくる。飛行機や車が登場すると騒音が原因のノイローゼが問題となり、テレビが出てくると、あれは強力な伝播力を持っているもんだから、おおぜいの人たちが集団催眠にかかっているような状態となる。ネットが出てきたら出てきたらで、まあテレビなんかとは違って、情報が非常に細分化されていて伝達される規模は劣るのですが、よせばいいのに知人のやってるSNSを覗いちゃったりしてね、隣りの芝生が現実以上に青く見えてしまって気を病んでしまう人が出てくる。ある病気の特効薬が開発され、思いもよらなかった副作用に悩まされる、といった感じで、産業革命以降、人類はずっとこんなことばっかり繰りかえしている。なんといいますか、これはもうね、自然の摂理みたいなものなんでしょう」
瑞生は素直にこくりとうなずいた。
「それで今度は仮想空間ときたもんだ。仮想空間という特殊な世界に浸っていると、現実と虚構の区別のつかなくなってしまう人が出てくる。起きているときのほうが、つまり現実の世界のほうがフィクションだと思いはじめて、職場の上司やら奥さんやらにとんでもない暴言を吐いてしまう。人間は夢のなかだと、つい大胆なことをしてしまいますが、それと同じようなものなのでしょう。家族が原因を突き止めて、デスパートのカスタマーサポートに相談が入り、そこを経由して私にケアの依頼がくるという仕組みなわけです。それでまあ、あなたのケースの場合ですと、率直に申しあげますがあなたが模造品をつくりだした詩梁さんのことになります」
瑞生はやはり顔が赤くなる。
「ええと‥‥そのことはすべてご存知なんですか」
医者は神妙な面持ちでうなずいた。
「はい。存じあげております。いや、べつに恥じいる必要はありません。それを恥じいるのは、痔を患っている人間が、肛門科の医者にお尻の穴を見られるのを恥ずかしがるようなものです。だからご安心ください。医者には職業上の秘匿義務があります。診察をしているこの場所だって、あなたがつくりだしたコピーのほうの仮想空間なんですから。私はその点すらデスパートに通報するつもりは毛頭ありません」
瑞生はなんと言っていいやらわからなかった。
「私はデスパートからとくべつな権限を与えられて、患者認定を受けた人間の、この世界での行動履歴をすべて閲覧できる立場にある。刑事が強盗にあった店の監視カメラのレコーダーを見ることができるのと同じように、私はあなたの行動を逐一調べることができるんです」
怪訝な表情を浮かべて瑞生は医者に訊ねた。
「どうやって調べたんですか」
「あなたは知らないかもしれませんが、たとえコピーの仮想空間であろうと、デスパートのつかっているサーバーには、ちゃんとカスタマーの移動履歴のデータが残るようになっているんです。ユーザーの数が多すぎて、とくべつな理由でもないかぎり、デスパートの人間は誰もそんなデータを見ようとはしませんがね。私はあなたの移動履歴を調べました。そして疑問を抱いたのです。あなたは女性しか行かないような場所にじつに頻繁に足を運んでいる。世のほとんどの男性たちは、ひとりでコスメショップやチョコミントの専門店なんかに行ったりはしません。そこには女性の存在が必要だと推測されるわけです。本来なら患者認定を受けていない人間の移動履歴を調べるのは、越権行為にあたるのですが、ここまでくると私はただ単純に興味があった。しかし同時刻帯にあなたとともに移動しているはずの女性のアカウントが、どう探しても見あたらない。で、私は徹底的に調べあげたんです。そして私は詩梁さんの模造品という存在を突き止めたわけですよ」
瑞生は引きっつた表情を浮かべる。医者はそれを見逃さなかった。
「いやいや、安心してください。さきほども申しあげたように、医者には守秘義務というものがあります。ですから、この件にかんしては、デスパートにはいっさい報告および通報などはしておりません」
瑞生は少し安心したような表情を浮かべた。
「あの、詩梁のことはその、仮想空間的コンプライアンスに引っかかるという以外に、なにか問題があるのでしょうか」
ほんの少しのあいだ黙って瑞生の目をじっと見据えながら、医者の目がぎらっと光る。
「コンプライアンスというのはこれまたずいぶん軽い言いかたに聞こえますな」
瑞生は居心地わるそうに医者から視線をそらした。
「ええ、そこはわかっています。それはわざとそういう言いかたをしたのです」
「いやいや、私は単なる心療内科医です。患者本人が犯罪だとわかってやっていることを、わざわざ大声で指摘するような、そんな野暮な真似はいたしません。まともな文芸批評家がバルザックやドストエフスキーの小説に出てくる悪党たちの道徳性を非難しないのと同じことです。わかりますか」
「まあ、なんとなく‥‥」
「これは道徳うんぬんではなく、あくまで精神医療分野の領域にかぎった話になるのですが、その領域においては詩梁さんのことは本質的な問題ではないのです。学生時代に好きだった女の子を、現実とはべつの世界に創造して、健全な男女関係を築く、結構なことではないですか。デスパート側に勘づかれていないのであれば、失われた青春を好きなように楽しみなさい。問題はそこではなく、彼女が原因によって引き起こされたあなたの重度の自己否定にこそあるのです」
「‥‥どういう意味ですか?」
「この鏡をごらんなさい」
医者のすぐ後ろの壁に小さな鏡が掛かってあり、そこにはご陰キャさまの姿が映っていた。正確にいうと、ご陰キャさまが仮りのアバターとしてつかっていた姿だ。瑞生が身体を動かすたびに、鏡に映ったご陰キャさまもいっしょに動く。それが自身の姿であるということに、瑞生はようやく気づいた。
といっても、鏡ごしの姿ではない、実際の身体や服装などは、瑞生自身の姿である。瑞生は自分の細い両手の指を、鏡のなかのご陰キャさまがつかっていたアバターの丸っこい指と見くらべる。
「‥‥すみません、これ、僕の姿ですか」
「そうですよ、これがあなたのほんとうの姿です。あなたはもうひとりの詩梁さんをつくって、このコピーの仮想空間に招き入れたはいいが、とてもではないが美しい詩梁さんと釣りあう姿ではなかった。ふたりで町を歩いていると、店のウィンドウなんかに自分の姿が映りこむでしょう。あなたはそれがなにより嫌だったんです」
「はあ‥‥」
「そこであなたは自分のアカウントを捨てて、この仮想空間を利用していた同年代のアイドルのアカウントを乗っとったのです。そのアイドルはSNSでの中傷を苦にして自殺したのですが、デスパート側がアカウントを抹消する寸前にあなたが乗っとった。正規の仮想空間で使用したらブザーが鳴りますが、こちらのコピーの仮想空間で使用するかぎりじゃ、なんの支障もありませんからね。もっとも、ご存知のように、あなた自身が使っていたその抜け殻は、ご陰キャさまとか名のっているハッカーに乗っとられてしまいましたが」
医者は机のうえに置かれていたスマホを手にとり、画面を幾度かスクロールさせたあと、写真に映ったアイドルグループのひとりを指さした。そこには派手な衣装を着た瑞生が、数人のイケメンたちを背後に寝ころび、床に右肘をついて、斜めに傾けた頭を手の甲で支えながら、こちらを物憂げな瞳で見つめていた。
「ほら、こんなことやっていた記憶なんかないでしょう」
「‥‥ええ、ありません」
「このスマホは現実世界のネットとちゃんと繋がっています。だからつまりこれは動かぬ証拠というやつです」
「でも‥‥でも、なぜ最初にご陰キャさまと顔をあわせたときに、僕はなんとも思わなかったのでしょう」
「放置している自身のアカウントが動きまわっていて、それを相手に勘づかれると、あなたは困った事態に陥る可能性がありました。あなたは非常に冷静沈着な方です。いささか度を越しているくらいに。きっと職業病ってやつなんでしょう。システムエンジニアというのはそういう性格を求められますからね。ですからあなたは冷静を装ってやりすごしたわけです」
瑞生の鏡のなかの姿をあらためて見る。こんな惨めな男が詩梁のことを一途に想っていたわけだ。瑞生は鏡に映っている、丸々とした顔のオタクを恨めしげに睨みながら、ひどく胸が締めつけられる。
この男はあんな高嶺の花に想いを寄せていたわけか。‥‥そして詩梁にたいしてどれだけ気味のわるいことをやっているのか。いや、どのような容姿の人間がそれをやろうと、気味のわるいことに違いはないのだが、まるで盗撮が見つかって交番に連れてかれたサラリーマンのように、絶望を脂肪に埋もれた細い目のなかに滲ませている鏡のなかの情けない姿は、そういう陰惨な気分を倍増させてあまりあるものがあった。
いやいや。そんな馬鹿なことなどあるわけがない。本来の自分の姿を忘れる、なんてことが。‥‥と思いながらも、医者の話しかたには妙な説得力があり、瑞生は信じそうになる。だが医者が目を閉じて、親指と薬指の腹で両の瞼を揉んだとき、瑞生ははっとわれにかえった。ところが、ふたたび医者が目を開けると、瑞生はまたその事実を抵抗なく受け入れて、陰惨な気分になるのだった。
瑞生はなんとか視線を医者の目からずらそうとする。だが磁石に引きつけられる砂鉄のように、視線がぐいぐい吸い寄せられるのである。
脳の本来あるべき正確な位置に記憶が再配置されるような感じで、いま医者の言ったことが瑞生の心に刷りこまれようとしている。だが自分の記憶が支配されそうになる最後のぎりぎりのラインで、どこか腑に落ちない感情がそれを抗っていた。ご陰キャさまが仮りのアバターとしてつかっていた容姿が、自分のほんとうの姿であるという事実と、その姿で過ごしたはずの過去の記憶が、脳のなかでまったく紐づけされていないのである。
瑞生は心のなかで引っかかっているその部分を拡大して、医者のなんらかの企みに抗おうと試みる。しかし医者にふたたび視線をがっしり捉えられ、医者の目を見ていると、むしろそのようにして惨めな自分を否定しようとしているのではないか、という思いのほうが強くなってくる。
医者が少し身体を動かし、後頭部が鏡に映りこむ。そこには、白髪が映るはずなのに、ふさふさとした黒髪が映りこんでいた。瑞生が鏡に目を凝らしたときには、医者はまた机に向かって、ひどく不自然な姿勢で屈みこんでいた。
そんな視線に気づいたのか、医者がまたじっと瑞生の目をのぞきこんでくる。すると、いま自分の目で見たものが、あたかも幻であったかのような気になってくるのである。
瑞生はまわらない頭を必死に回転させる。そしてようやく頭のなかに垂れてきた一本の糸にしがみつく。ガス欠のままエンジンをふかしているような音が頭のなかで鳴りつづけるが、瑞生はどうにか喉の奥から言葉を絞りだした。
「‥‥先生、なぜこんなところに鏡がかけてあるんですか」
医者はしばし瑞生から目を逸らして鏡のほうを見た。
「それは‥‥患者さんに自分と向きあってもらうためですよ」
一瞬の躊躇が命とりだ。前もってわかっていることを答えるのに、わずかな沈黙でも存在するわけがない。瑞生はパソコンの読みこみが遅いときに画面に出てくる丸い輪っかを思い浮かべた。化けた狸が尻尾を隠しきれないように、機械がつくりだしたものは、どこまでいってもこうした制限がつきまとう。瑞生はにっこり微笑む。
「先生、もうひとつ質問です。なぜあなたはさっきから、そんな風に机にへばりついているんです。まるで観客席から手品のタネが見えるのを避けているマジシャンみたいに格好が不自然じゃないですか。いいえ、答えてもらわなくてけっこうです。僕が教えてさしあげますよ」
瑞生はそう言ってから、医者の座っている椅子の脚を乱暴に蹴りあげる。さらにそのまま足で椅子のローラーをスピンさせ、医者の髪の毛をつかんで、鏡のまえにむりやり固定させた。
そこには自分以外にももうひとり、髪の毛を掴まれたご陰キャさまの姿が映りこんでいた。瑞生はひどく荒っぽい理髪師のように、髪の毛を掴んだまま鏡ごしに医者に向かって言った。
「特定の人間だけ変貌する鏡をつくるのが、そんなに大変だってのかよ。僕だけがご陰キャさまの姿に変貌する鏡をつくるのが」
視線を落としてじかに医者を見ると、やはりあくまで白髪の医者の姿である。
「いや、ちがうな。この空間でそんな単純なことが手間なわけがない。そうか‥‥これは僕を試すための地獄なんだったな。ご苦労なこったよ、まったく」
「やだな。そんなことされたら髪が傷むじゃない」
鏡のなかのご陰キャさまが喋るが、声は医者のままだ。瑞生はつい反射的に手を離してしまう。
「やっぱ瑞生クンて、口じゃAIのくせにとか言ってても、女の子には本能的に優しいんだね。うむうむ、やっぱいいやつよのう。トリックに気づくのにはけっこう時間がかかったけど、合格は合格じゃ。コングラチュレーションだべな。はい、そんではつぎいってみよー」




