いつの日か(5)
初老の男は珍しいものでも見たかのように、アレスを見ながら眼を細める。
「ほお? 召使風情が口答えした上に要求までするか。良い召使を持ったものだな。ドロテア」
ようやくリーザも理解した。この初老の男が領主なのだ。視線を受けたリーザたちの主人が真っ青になっている。
「リーザ、僕のポケットの中身を出してくれる?」
アレスが顔は正面に向けたまま、リーザに言う。握られた片手を離すことができないまま、リーザはアレスのポケットに手を入れた。何かが手に当たり、引っ張りだせば食べ物だろうか。割られた木の実が何かで固められたものが出てくる。
「リーザ、何を出した?」
「なんか食べ物みたいなもの」
答えれば、それは違ったらしい。アレスが少しばかり顔をしかめた。
「反対のポケットを探して」
言われるがままに、逆側のポケットに手を入れれば、丸い木の手触りがした。
「木でできた入れ物が出てきたけど…」
「それだ。ありがとう。それを僕の手に握らせて。リーザの手を握っているほうに」
言われる通り、アレスとつないだ手の間に入れる。
「いい、僕がこれを投げたら息を止めるんだ。いいね?」
アレスの囁きにリーザは再び頷いた。アレスの視線は前を向いたままだ。
「何をごそごそしている?」
領主がマリアにナイフを突きつけたまま、アレスに訝しげな視線を送ってくる。それをアレスは平然と無視してマリアに呼びかけた。
「マリア。あれはあなたを守れるの?」
リーザには良く分からないが、マリアには分かったようだった。彼女の顔がぱっと明るくなる。
「ええ。守れるわ!」
その叫びが合図だった。アレスはリーザの手を放し、木の小箱を床に叩きつけた。あっという間に香の中身が散らばっていくのが見える。リーザは言われたとおりに息を止めた。完全にとめ切れなくてわずかばかりに吸った空気から気持ちの悪い匂いがした。思わずえずきそうになる。人が吐いたような汚物のような気持ちの悪い匂いはあっという間に、広間に立ち込めたようだった。あちらこちらで胃の中身を戻す人が続出していた。
再びアレスに手を引かれて、広場を駆け抜ける。足元に散乱している汚物を避けながら玄関を抜けた。息が切れて足がもつれるけれど、ここで置いていかれるわけにはいかない。必死に目の前の背を追いかける。
漸く外に出て、アレスの足が止まった。リーザの足も止まる。二人の手がようやく離れた。呼吸が苦しくて胸が痛い。肩でぜいぜいと息をしていると、上から冷たく低い声が聞こえた。
「あれを使ったか」
反射的に顔を上げれば、腰まである銀髪に薄い瞳の色の彫像のように整った男の人が見下ろしている。視線の先はアレスだった。思わず後ずさりそうになったところで、アレスがほっとしたような表情を浮かべる。
「ラオ」
知っている人? リーザの視線の先でアレスが苦笑して、親しげな口調で文句を言い始めた。
「酷いよ。あれ。しばらく食事ができそうにない…」
それに答えて、ラオと呼ばれた男性がにやり嗤って馬から下りてきた。こうなることが分かっていたような笑い方だ。
「だが効果はあっただろう?」
そう答えたラオの言葉に被さるようにして、ひゅっと風を切る音がした。何が起こったかわからずにあたりを見回せば、二つに切られた矢が視線の先に落ちた。
「まだ敵地なんですからね。そこで何を和んでいるんですか!」
馬上から別な男の人が叫んだ。次から次へと現れる人々に呆気に取られてみれば、馬上の男性は、お伽噺の騎士様はこんな人かもしれないと思えるような風貌だった。一瞬、見惚れてしまったリーザの傍に、見知った女性が倒れこんでくる。マリアだ。よろめく身体をとっさにアレスが支えた。自分自身で立ち上がりながら、マリアは喘ぐように声を発した。
「アレス。珠を返して。それがないとベガをきちんとコントロールできない…」
アレスが握りしめていた珠をマリアが受け取りほっとした表情で顔を上げた瞬間に、その目が見開かれる。
「あなた…」
マリアの視線の先にはラオがいた。マリアとは反対に、ラオは彼女と会うことが分かっていたかのように、唇の端だけで笑ってみせる。
「また遭ったな。マリアと言ったか」
「知り合い?」
最後の問いはアレスのものだ。また矢が飛んできた。今度は複数だった。ラオがマントを一振りした瞬間に、矢は空中で失速しバラバラと地面に落ちていった。今のは一体何が起こったのだろうか。リーザが把握できないうちに、人が増え、矢が打たれ、打ち落とされ。目の前で起こっていることを理解するのが難しい。
そのうちにマリアとラオが何かを話し始めたが、リーザは領主の屋敷のみならず、この騒動で周りに建っている屋敷からも人々が集まってきていることに気が焦っていた。アレスはこの後、動く気配がない。早く逃げないと…と思うに、逃げる様子がない。また矢が飛んでくる。領主の屋敷の屋上から射掛けて来ているのだ。
リーザは飛んでくる風切り音に身を竦ませて、アルスの腕へとしがみついて目を閉じた。しかし矢はかすりもしなかったらしい。当たった気配はない。次々と矢が飛んでくる音がして震えながら、ぎゅっと目を閉じていた。しゃがみこみたいところだが、そうするとアレスの腕を手放さなければならず、それはそれで怖い。




