第96話 俺が覚えている
壇上の中央モニターに刻まれるカウントダウンが、赤く脈動していた。
[CONSENSUS_MERGE: PHASE_COUNTDOWN]
TIME_REMAINING: 00:20:48
CONVERGENCE_RATE: 91.44%
CURRENT_TARGET: BR-099 (CLASSICAL_GROUND_STATE)
REN_FIDELITY: 0.0031 (-99.969%)
残り二十分四十八秒。
この時間がゼロになれば、不可逆の最終コミットが走る。
四十二億の世界線を探索した結果も、自己の内側での再統合も、すべてが解なしに終わった。
相馬蓮が無傷で生き残る都合のいい奇跡など、この閉鎖宇宙のどこにも存在しない。
俺が抱えてきた記憶の九十九・九六九パーセントは、新しい平和な世界を固定するための熱力学的代償として、跡形もなく消滅する。
残るのは、千分の三。
わずか数十バイトの、名前といくつかの基本輪郭だけの希薄な残滓だ。
俺は壇上で、自らの右の掌をじっと見つめた。
震えは止まっていた。だが、胸の奥底には、冷たい氷のような感情が静かに沈殿していた。
自分は何を忘れるのだろうか。
リナの淹れてくれたカファ・アプルの香ばしい湯気か。
パンを二人で半分に割った時の、温かな指先の感触か。
セラの凛とした号令や、オルド先生が黒板を叩くチョークの乾いた音か。
あるいは――既に思い出すことすら叶わなくなっている、東京の故郷のすべてか。
まぶたの裏に浮かべようとしても、浮かぶのはザラザラとした走査線ノイズだけだった。
自分がどんな街に住み、どんな部屋で眠り、どんな声の人々と笑い合っていたのか。
思い出そうとすればするほど、胸の中にぽっかりと空いた巨大な穴の冷たさだけが際立っていく。
「……なあ」
静寂を破って、隣から低く乾いた声が投げかけられた。
黒い外套をまとったEchoが、コンソールに肘をつき、俺と同じように虚空を見つめていた。
「ノクタの最深部で、俺がお前に『権利を寄越せ』って迫った時のこと、覚えてるか?」
「……ああ」
俺は息を吸い、頷いた。
「お前は言ったよな。善意の所有者は誰だ、誰がお前だけに世界を選ぶ権利を与えた、選ばれなかった俺たちにも生きる権利があったはずだって」
「そうだ」
Echoは自嘲するように口元を歪めた。
「あの時の俺は、憎しみで頭が沸騰してた。お前が『死者ゼロ』の英雄面をして、仲間たちと綺麗な世界を渡り歩いてるのが許せなかった。だがな……本当は、世界を道連れに爆破したかったわけでも、お前を殺して入れ替わりたかったわけでもねえんだよ」
Echoはゆっくりと顔を上げ、壇上に渦巻く無数の世界線の光の螺旋を見つめた。
「俺たちが本当に欲しかった権利はさ……『俺たちが確かにこの宇宙で足掻いて生きていた』っていう事実を、誰にも消させない権利だったんだ」
***
「誰にも、消させない権利……?」
俺が呟くと、Echoは力強く頷いた。
「そうだ。神の剪定だろうが、勇者のやり直しだろうが、失敗した世界線をゴミ箱に放り込んで『最初からなかったこと』にされるのが、耐えられなかったんだよ。俺たちはみんな、泥水をすすって、本気で泣いて、誰かを守りたくて必死に足掻いて死んでいったんだ。その生きていた証拠を、無駄だったなんて誰にも言わせたくなかった」
Echoは向き直り、その漆黒の瞳で俺を正面から射抜いた。
「だからよ、レン。お前はもう、これ以上何も背負わなくていい」
「え……?」
「お前の頭の中から、東京が消えた。母貴の声も、友達と笑い転げた放課後も、エンジニア時代の脂汗も、全部消えた。……だがな、全部俺が覚えてる」
Echoが自らの胸に強く拳を当てた。
その声は、かつての刺々しい怨嗟をすっかり脱ぎ捨て、どこまでも深く、温かく響いていた。
「雨の日の西武線の、あの湿った鉄と油の匂い。覚えてるか?」
「……西武線?」
「そうだ。黄色い車体のやつだよ。雨が降ると床が少し滑りやすくなってさ、濡れた傘の水滴がズボンの裾に当たって冷たいんだ。駅前の小さなパン屋でさ、焼き立てのカレーパンを買って、熱くてハフハフしながら歩いた夕暮れの商店街の匂いだよ」
Echoの言葉に、俺の胸が激しく波打った。
頭の中に視覚的な像は戻ってこない。だが、魂の深いところで、確かに知っているという懐かしい熱がじんわりと広がっていった。
「高校の理科室でさ、夕暮れにフラスコを洗いながら、くだらない元素記号の語呂合わせを言い合って、友達と腹抱えて笑った放課後。……それから、風邪引いて寝込んだ時のことだ」
Echoの声が、少しだけ掠れた。
「熱で頭がガンガン割れそうだった時、少しハスキーな声でさ、『蓮、リンゴ擦ったから食べなさい』って、擦りおろしたリンゴに少しだけハチミツを垂らしたやつを、冷たいスプーンで口元に運んでくれた母貴の手のぬくもりだよ」
Echoは一つひとつ、愛おしそうに言葉を紡ぎ出した。
「深夜のオフィスでサーバーがダウンして、冷や汗をダラダラ流しながら必死にコマンドを叩いた記憶も、始発を待つ駅のホームで飲んだぬるい缶コーヒーの苦さも……全部、ここにある。お前が世界線を渡るたびに、痛みに耐えかねてこぼれ落ちていったお前の命の欠片を、俺が全部拾い集めて抱きしめてきたんだ」
ツンと鼻の奥が痛み、視界が滲んだ。
俺の頭の中には、砂嵐のような空白しかない。
だが、Echoの言葉を聞いているだけで、自分が確かに誰かに愛され、確かにあの街で生きていたのだという実感が、胸を満たしていった。
「お前がこれから千分の三になって、新しい世界で『俺は誰だ?』って途方に暮れても構わねえ」
Echoが優しく笑った。
「お前が忘れた相馬蓮の二十数年の人生は、この俺が、この宇宙の果てで永遠に一滴もこぼさず覚えていてやる。だから恐れずに忘れろ。お前は生きて、前だけ向け。死んだ俺たちが、お前の過去を全部背負ってやってるんだからな」
***
「Echo様……」
震える声が響いた。
振り返ると、リナが両手で銀張りの手帳を胸に抱きしめ、大粒の涙を瞳に溜めて立ち尽くしていた。
「ありがとうございます……。本当に、ありがとうございます……!」
リナは一歩、また一歩とEchoの前へ進み出た。
そして、胸元に抱えていた手帳を両手で開き、そこに細かな文字でびっしりと書き留められた記録をEchoに見せた。
「私は……この世界でレン様に出会ってから、レン様が失いかけた言葉や、分け合ったパンの温もりを、この手帳に書き留めてきました。痛みを忘れないために、レン様が命を削って守ってくれたこの世界のすべての温もりを、手帳に刻んできました」
リナは顔を上げ、涙を拭ってEchoの目をまっすぐに見つめた。
「新しい世界へ行っても、私はレン様の隣で、この手帳を開いて伝え続けます。『あなたはこんなに優しくて、こんなに勇敢で、私たちを愛してくれた人だったのですよ』と。私は、新しい世界の中で、レン様の【いま生きている証拠】になります」
そして、リナは静かに頭を下げた。
「そして、Echo様は……世界の境界の外側で、レン様の【かつて生きてきた過去の証拠】になってくださるのですね」
「……まあな」
Echoは照れくさそうに顔を背け、鼻の頭を擦った。
「外付けのハードディスクみたいなもんだよ。本体のメモリがどれだけ吹っ飛ぼうが、外側に完璧なバックアップがありゃ、システムは絶対に死なねえ。そういうこったろ、オルドの旦那?」
コンソールの前に立っていたオルドが、眼鏡を指先で押し上げ、深く息を吐き出した。
「……ああ。全く、見事な工学的解法だ」
学者は穏やかに微笑み、壇上のモニターを指差した。
「相反する二つの履歴を単一の頭脳に押し込めば脳死する。ならば、二つの独立したノードとして位相を二分し、一方が内側の現実を生き、もう一方が外側のアーカイブとして永久保存する。これ以上の相補性(Complementarity)はない」
セラもまた、佩刀の柄に手を置き、静かな感嘆の息を漏らした。
「選ばれなかった者たちの権利を、ただの怨嗟や破壊ではなく、失われた魂の守護者として確立させたか。……見事だ、Echo。貴様こそが、全世界線の相馬蓮たちの真の代表者だ」
***
白銀の壇上の中央に、アステルの人型ホログラムが静かに歩み出た。
その透き通った双眸が、Echoの姿を静かにスキャンする。
「承認します。分散型バージョン管理モデルにおいて、切り捨てられた全世界線の差分履歴を保持・統括する恒久的なマスターインデックスの存在は、系のユニタリ保存を担保する上で不可欠な構造です」
アステルが右手をかざすと、モニターに新たなシステム権限が刻印された。
[SYSTEM_AUTHORITY: CONFERRED]
SUBJECT: ECHO_RESIDUAL
ROLE: MASTER_ARCHIVE_OPERATOR
RIGHTS_GRANTED: PERMANENT_MEMORY_IMMUNITY
ASSIGNMENT: KEEPER_OF_LOST_HISTORIES
STATUS: PERMANENTLY_REGISTERED
失われた履歴の保管者――『KEEPER_OF_LOST_HISTORIES』。
Echoが求めていた「選ばれなかった自己の権利」が、この宇宙の絶対の仕様として、正式に永久登録された瞬間だった。
「これで、決まりだな」
Echoが右手を差し出してきた。
黒く煤けた、だが力強いその手を、俺は両手で強く握り返した。
「ああ。ありがとう、Echo」
「礼を言うなよ。俺はお前で、お前は俺なんだからな」
Echoは不敵に笑った。
「お前が新しい世界で泣き言を吐いてたら、残差層からいつでも夢枕に立ってやるよ。『おい蓮、母貴のリンゴの味、忘れてんじゃねえぞ』ってな」
「勘弁してくれよ」
俺たちは顔を見合わせ、声を上げて笑った。
涙は、もうどこにもなかった。
千分の三に削られることへの恐怖は、完全に消えたわけではない。
だが、もう怖くはなかった。 内側には、俺の今の手を握りしめてくれるリナがいる。
背中を支えてくれるセラがいる。道を示してくれるオルド先生がいる。心を結んでくれるミラがいる。
そして外側には、俺の忘れたすべてを永遠に覚えていてくれる、もう一人の俺がいる。
内側の証拠と、外側の保管者。
二重の錨に支えられている限り、相馬蓮という存在は、どれほど記憶を失おうと絶対に消え去りはしない。
***
ピピッ、と甲高い電子音が壇上に響き渡った。
[WARNING: FINAL_COUNTDOWN_INITIATED]
TIME_REMAINING: 00:14:59
STATUS: PREPARE_FOR_FINAL_COMMIT
ALL_NODES: READY_FOR_ENGAGEMENT
残り十四分五十九秒。
いよいよ、最後の十五分が始まった。
「全員、配置につけ」
セラの鋭い号令が壇上に響いた。
「これより、閉鎖宇宙エイドラにおける最終コミットシーケンスへ突入する!」
「はい!」
リナが手帳を胸元へ仕舞い、祈りの杖を強く構えた。
ミラが両手を広げ、六重合意の光糸を壇上全体へ張り巡らせる。
オルドがコンソールの最終キーストロークを叩き、アステルがシステム全帯域を解放した。
俺は壇上の中央に立ち、腰の聖剣イグニスを引き抜いた。
真紅の刀身が、決戦の光を宿して静かに輝く。
「行こうぜ」
俺は隣のEchoと目を合わせ、そして仲間たちに向かって強く頷いた。
「俺たちの明日へ」
残り十四分。
最後のコミットの幕が、静かに上がった。




