第88章 権限昇格事故
血のように赤い警告ログが、白銀のドームを赤黒く染め上げていた。
CRITICAL_ERROR: ILLEGAL_CAPABILITY_ASSIGNMENT
SUBJECT: Soma Ren (AGENT_OPTIMIZER_76)
DETECTED_CAPABILITY: WORLD_BRANCH_OPERATOR (ADMIN_LEVEL_0)
STATUS: FATAL_SECURITY_BREACH_AT_INITIALIZATION
アステルの水晶の瞳が、冷徹な赤色の光を放ちながら俺を射抜いている。
「なぜ、君にだけ――神界の管理者(Root)にしか許されない絶対権限『WORLD_BRANCH_OPERATOR』が付与されていたのか」
「歴代七十五人の勇者たちは、いずれも世界線の中で足掻くことしか許されていなかった。世界線そのものを俯瞰し、分岐を自在に操作する権限など、一介の探索器に与えられるはずがないのだ。……君の召喚のあの日、システムの中で一体何が起きたのか。君は、知っているのか?」
張り詰めた沈黙が壇上を支配した。
セラが剣の柄を握りしめたまま息を呑み、オルドが険しい眼差しで宙を睨みつける。リナは俺の腕にそっと手を添え、不安そうに俺を見上げていた。
俺は、ゆっくりと息を吐き出した。
胸の奥で、カチリと最後のピースが噛み合う奇妙な静けさが広がる。
「……ああ」
俺は苦笑交じりに言った。
「薄々、そう思ってたんだ。召喚初日、あの鑑定の羊皮紙を見た瞬間からな」
「何……?」
オルドが驚きに目を見張る。
「最初からおかしかったんだ。大聖堂でステータスを展開した時、神官たちは神の奇跡だと騒いでいた。だが、俺の目の前に表示されたのはインデントの揃った構造化データ(YAML)だった」
歴代勇者の標準スキル――言語理解や魔力回復は一般権限の範囲内だった。だが、その最下段にだけ、場違いな一行が紛れ込んでいた。
role: GUEST_AGENT_OPTIMIZER
capabilities:
- BASE_ATTRIBUTES_TIER_5
- HIGH_COHERENCE_RECOVERY
- CROSS_LINGUAL_PARSER
- WORLD_BRANCH_OPERATOR # <--- SYSTEM ANOMALY
「あれはスキル付与なんかじゃない。ただの権限昇格(Privilege Escalation)だ。一般ユーザーに、手違いでrootパスワードを渡しちまったようなもんだろ」
***
「……その通りだ、相馬蓮」
アステルが右手を払うと、赤い光の中から膨大なスタックトレースが展開された。
[CALL_STACK_TRACE: INITIALIZATION_PHASE_0x0076]
0x0001: PUSH_BOUNDARY_PENETRATION_TRIGGER
0x0002: EXECUTE_INJECTION (TARGET: SECTOR_TERRA_JP)
0x0003: CAPTURE_FOREIGN_OBJECT (ID: SOMA_REN)
0x0004: BOUNDARY_CROSSING_ALERT: CONSTANT_MISMATCH
0x0005: ERROR_PARITY_CHECK_FAILED (NON-MAGICAL_TO_CLOSED_COSMOS)
0x0006: EXCEPTION: BUFFER_OVERFLOW_AT_CAPABILITY_PROVISIONER
0x0007: FALLBACK_HANDLER: FORCE_DEFAULT_BITMASK_WRITE
0x0008: CORRUPTED_BITMASK: 0x0000_0000_FFFF_FFFF -> 0xFFFF_FFFF_FFFF_FFFF
0x0009: REGISTRATION_COMPLETED WITH CRITICAL_ANOMALY
その文字列を目にした瞬間、オルドの息が止まった。
「ば、バッファオーバーフロー……!? パリティチェック失敗だと……!?」
オルドが額に青筋を立て、壇上の光に駆け寄った。
「信じられん……! 境界膜を穿孔し外部宇宙から物質を引き込む際、魔術定数の差異でパケット破損が生じたというのか!? そして、その例外処理で……!」
「そうだ、オルド・ケイン」
アステルが抑揚のない声で告げる。
「相馬蓮のいた外部宇宙には魔力という物理定数が存在しない。非魔術宇宙の人間を基底レイヤへ適合させようとした瞬間、バッファに致命的なオーバーフローが発生したのだ」
アステルの指先が、0x0006と0x0008の行を強調する。
「本来、勇者に割り当てられる権限マスクは下位三十二ビットの一般用のみだった。だが、バッファが溢れた瞬間に走ったフォールバックハンドラがメモリ番地を誤認した。神界のシステム管理者(Root)のために予約されていた最上位フラグが、偶然にもすべてオンで書き込まれてしまったのだ」
神の基底中枢に、恐ろしいほどの沈黙が落ちた。
神の奇跡でもない。崇高な天命でもない。
外部から異物を吸い上げた際の入力検証不足。例外処理ルーチンのバグによる、正真正銘の『権限昇格事故』だった。
***
「ぶ……」
静寂を破ったのは、低く押し殺したような吐息だった。
「ぶはっ……! あっははははははははははははっ!!」
轟音のような笑い声が、白銀のドームを揺るがした。
Echoだった。漆黒の聖剣を放り出し、腹を抱えて壇上に崩れ落ちるように笑い転げている。
「おいおいおいおい! 聞いたかよ相馬蓮! 神様のバグだってよ! ただの凡ミス! 設定エラー! クソみたいなコードの書き損じだ!!」
Echoは床を叩きながら、壇上の中枢コンソールを指差した。
「俺たちが何千万回と死んで、『なんであいつだけが選ばれたんだ』って血の涙を流して憎んできたチート能力が……ただのバッファオーバーフロー事故だったなんてな! ぎゃはははは! 最高だ、これ以上ない痛快な喜劇じゃねえか!!」
Echoの哄笑が、張り詰めていた神聖な空気を粉々に砕いていく。
「……事故、だったのか」
セラが呆然と天井を見上げた。その唇の端が、耐えかねたように吊り上がる。
「王国が崇めてきた召喚の儀も、教会が拝跪してきたチートスキルも、境界膜のパリティエラーとメモリ誤認だったとはな」
セラは深く息を吐き、澄み切った笑みを浮かべた。
「だが愉快だ。神に選ばれた絶対の王など最初からいなかったのだ。私たちを救ってきたのは神託の申し子ではなく、たまたまバグを掴まされて放り出された、ただの泥臭いエンジニアだったというわけだ」
「うむ……」
オルドも眼鏡を押し上げ苦笑を漏らした。
「呆れるべきか感心すべきか分からん。完璧に見えた神の保全機構が、入力例外一つで管理者権限を漏洩させていたとはな。だが相馬蓮、お前がその事故に振り回されながらも今日まで破滅を押し留めてきた事実は、いかなるバグでも否定できんよ」
***
「レン様……」
小さな声がした。リナだった。
リナは胸の前で両手を組み、潤んだ瞳で俺を見つめていた。その瞳に浮かんでいたのは失望ではなく、慈しむような柔らかな光だった。
「神様が間違えてしまった事故だったとしても……私は、その事故に心から感謝します」
リナが一歩、俺に歩み寄った。
「もしその事故が起きなければ、レン様はあの礼拝堂で私と一緒に死んでいたはずです。その事故があったからこそ……レン様は私を諦めずにいてくれたのですね」
「リナさん……」
「神様のお導きなんかじゃなくて、本当によかった」
リナは優しく微笑んだ。目元に小さな涙の粒を浮かべながら。
「決められた運命の勇者様なんかより……たまたま間違えてここに来て、一生懸命に私を助けてくれたレン様の方が、何千倍も素敵です」
その言葉が、胸の奥に刺さっていた最後のトゲを溶かしていった。
自分だけが特権を持ち、世界線を書き換えてきた後ろめたさ。なぜ自分だけが選ばれたのかという呪縛。
それが消え去った。俺は選ばれた英雄ではなく、ただの事故で管理者権限を背負わされた一人の人間に過ぎなかったのだ。
「……はは、まいったな」
俺は頭を掻いた。自然と口元が緩んでいた。
「神様、それはスキル付与じゃなくて、ただの権限昇格事故ですよ――って、あの召喚初日の自分に教えてやりたいぜ」
壇上の仲間たちが温かい笑声を漏らす。
神の厳粛な基底中枢で、人間たちの笑い声が響き合っていた。
恐怖も神話も運命の呪縛も、すべてがこの笑い声の中で霧散していく。
***
だが、その笑い声の中、アステルだけは微動だにせず俺たちを見つめていた。
「……笑うべき事象ではない」
アステルの平坦な声が響く。
「この権限昇格事故は、システム保全における最悪のセキュリティインシデントだ。本来であれば、発見された瞬間に即時ロールバックされ、相馬蓮という異常プロセスはメモリから強制パージされるべきだった」
「なら、なぜパージしなかった?」
Echoが笑いを収め、冷徹な目でアステルを睨み返した。
「お前ら神様が、そんな重大なバグを見逃すはずがねえ。七十五人の勇者の時は起きなかった特大の事故だぞ。なぜ相馬蓮を野放しにした?」
アステルは中枢コンソールへ視線を落とした。
「理由は二つある」
アステルの指先が、空間にシミュレーションのグラフを描き出す。
[SIMULATION: RUNAWAY_DECOHERENCE_PROJECTION]
WITHOUT_ANOMALY (NO BRANCH OPERATOR):
LOCAL_OPTIMA_LOCK: 100.0%
TIME_TO_HEAT_DEATH: EXPIRED (AT HERO_75 TERMINATION)
WITH_ANOMALY (SOMA_REN PRIVILEGE ESCALATION):
BRANCH_EXPANSION_RATE: +418.2%
SYSTEM_LIFESPAN_EXTENSION: +120 DAYS
「第一に――このバグがなければ、エイドラはとっくに滅びていたからだ」
アステルの淡々とした宣告に、オルドが息を呑んだ。
「何だと……?」
「第七十五代勇者の死亡時点でエイドラの決定論的硬直は極限に達していた。通常の探索エージェントでは局所解の縁を飛び越えられず、系は確実に熱死を迎えるはずだった」
アステルは俺を見つめた。
「だが相馬蓮。君が誤って得た絶対権限『WORLD_BRANCH_OPERATOR』は、世界線を直接操作し剪定を狂わせた。その破滅的な揺らぎこそが、死に瀕していたエイドラの寿命を奇跡的にも百二十日延伸させたのだ」
「バグが……世界を延命させた、だと……」
セラが息を呑む。
「そうだ。開発者たちすら予期し得なかった変異事故による適応。だからこそ、保全ルーチンである私は君の排除を保留し続けた」
アステルは赤い光を収束させ、元の青白い光へと戻した。
「そして、第二の理由だ。……君たち自身が、その管理者特権を自ら破棄したからだ」
***
壇上に突き刺さった二振りの聖剣が、澄んだ青い光を放っている。
「君たちはノクタの最深部において、神が提示した管理者復帰プロンプトを拒絶した。WORLD_BRANCH_OPERATORをパージし、六重の分散合意アーキテクチャへと移行したのだ」
アステルの視線が、レン、Echo、リナ、セラ、オルド、ミラの六人を捉える。
「君たちはバグで手に入れた絶対の力を、自らの意志で放棄した。単一障害点を解体し、全員で責任を背負う道を選んだ。故に、君たちを強制排除する論理的根拠は消失した」
胸元の六重合意の光糸が確かな鼓動を刻んでいる。
バグで始まった旅だった。だが、その特権を捨てて、俺たちはここまで歩いてきたのだ。
「ならば、話は早い」
俺は壇上を一歩進み、アステルと対峙した。
「俺たちはもう神のチートに頼るつもりはない。管理者権限を振りかざして誰かを勝手に救ったり切り捨てたりする英雄ごっこは終わった。俺たちはこの六人の合意で……この世界の全人類の意志で、新しい現実を実装する」
アステルは無機質な視線で俺を見つめ返した。その瞳の奥で、膨大な演算プロセスの波が逆巻いている。
「認識した。君たちの決意と、アーキテクチャ変更要求を正式に受理する」
アステルの声には、冷徹な現実の壁が容赦なく宿っていた。
「だが――相馬蓮。そしてエイドラの人間たちよ。奇跡の神話が終わり、バグの特権を捨て去った今、君たちの前には純粋な工学的現実だけが残されている」
アステルが手を広げると、虚空に巨大な閉鎖宇宙エイドラの全貌が映し出された。
青黒く濁った球体。その表面を埋め尽くす無数の世界線の糸。
SYSTEM_RESOURCE_STATUS:
TOTAL_BRANCH_CAPACITY: 1,048,576
CURRENT_ALLOCATED_NODES: 1,045,820 (99.74%)
ACCUMULATED_LANDAUER_HEAT: 4.892 x 10^24 J
REMAINING_TIME_TO_CRITICAL_HEAT_DEATH: 120 DAYS
「世界線飽和率99.74%。メモリ枯渇まであとわずか0.26%。ランダウアー限界に基づく情報消去熱により、閉鎖宇宙の熱死まで残された猶予は、わずか百二十日だ」
アステルの指先が、その破滅の数値を指し示す。
「私は保全ルーチンに過ぎない。君たちが神の剪定を拒絶するというのなら、私はそれを止めることはできない。だが、剪定を止めればエイドラは百二十日後に確実に熱死し、すべての世界線が完全に蒸発する」
アステルの両目が、俺たち六人を冷徹に見据えた。
「管理者権限を捨てた人間たちよ。神の剪定に代わる、閉鎖系を熱死から救う具体的な解決策を君たちは持っているのか? メモリを解放し、情報消去熱を排出し、全員の存在を維持するための『新アーキテクチャの設計仕様(Architecture RFC)』を、直ちに提示せよ」
神からの、最後にして最大の要求だった。
祈りでも、信仰でも、チートでもない。
世界を救うための真の『システム設計』が、今まさに俺たちに突きつけられていた。




