第77章 自分の葬列
プラズマの消去熱が立ち込める青黒い沼を迂回し、俺たちは黒曜石の平原へと足を踏み入れた。
そこに広がっていた光景は、戦場でも、遺跡でもなかった。
地平線の果てまで、几帳面なまでに等間隔で整然と立ち並ぶ――無数の「黒辰石の結晶柱」。
その高さは、すべて大人の背丈ほど。
半透明の黒曜石の中に、まるで琥珀の中に閉じ込められた昆虫のように、一人の青年の姿が等身大で封じ込められていた。
黒い髪。
痩せぎすな体躯。
日本の安物スーツの残骸、あるいは引き裂かれた聖具の外套。
……その顔は、どれも寸分違わず、鏡の中で見慣れた俺自身――相馬蓮だった。
「……っ……」
リナが息を呑み、俺の腕を強く握りしめた。その指先は氷のように冷たかった。
「レン様……これ、全部……」
「相馬蓮……」
セラが抜剣しかけた右手を止め、驚愕に見開かれた瞳で結晶の列を見渡した。
「なぜだ……? なぜ、お前の姿をした者が、これほどまでに……幾万と立ち並んでいるのだ!?」
「デコヒーレンスによって物理凝固した、情報残差の終着標本だ」
オルドが手元の検知計を向け、低く掠れた声で言った。
「神が切り捨てた無数の並行世界線(Branch)……その中で、かつて命を落とした『相馬蓮たち』の観測記録が、世界のメモリテーブルから完全に切り離され、ここで結晶化しているのだ」
「言ったはずだぜ」
背後から、Echoの冷たい嘲笑が響いた。
「俺は、全世界線の相馬蓮たちの怨嗟と記憶の複合体(Composite Echo)だってな。……ここにあるのは、その原材料の山だ。お前が踏み躙って、見捨てて、たまたま通り過ぎてきた、お前自身の墓場だよ」
「俺自身の……墓場……」
俺の足は、吸い寄せられるように、もっとも手前にあった一つの結晶柱へと向かっていた。
その結晶の中にいた男は、召喚初日に着ていたはずの、あのヨレヨレのリクルートスーツを着ていた。 だが、その顔面は無残だった。
目、耳、鼻、口から大量の血を噴き出し、胸の中央が内側からの爆圧で破裂している。苦悶に歪んだ表情のまま、大聖堂の床に倒れ伏す直前の姿勢で固まっていた。
「……あ……」
何かに操られるように、俺の右手がその結晶の表面へと触れた。
触れた瞬間――。
カチリ、と世界の焦点が合った。
――ズギャアアアアンッッッ!!!!
「ぎゃああっ!?」
脳髄を直接高圧電流で灼かれたような激痛が走り、俺の意識は引き裂かれた。
視界が真っ赤に染まる。
大聖堂の高い天井。ステンドグラスから差し込む光。
足元に展開された巨大な召喚陣。
目の前には、召喚の成功に歓声を上げようとしていた金髪の神官たち。
だが、その瞬間――俺の魂のプロファイルへ、神のシステムから規格外のYAML権限(WORLD_BRANCH_OPERATOR)が無理やり流し込まれた。
人間の脆弱な生体魔導回路が、神の管理者権限の超高圧データに耐えられるはずがない。
熱い。痛い。内臓が、血管が、眼球が、一瞬で電子レンジのように沸騰する。
『ぐ、あ……が……ッ!?』
声にならない血の泡を吐きながら、俺は召喚陣の真ん中で倒れ、一度もリナと言葉を交わすことも、大聖堂の扉を出ることもなく、召喚後わずか三秒で絶命した。
――ビクンッ!
「はっ……ぁ……っ、げほっ……!」
手を引き剥がした瞬間、俺は黒曜石の地面に手をつき、胃液をぶちまけるように激しく嘔吐した。
冷や汗が全身の毛穴から噴き出し、心臓が破裂しそうなほど早鐘を打っている。
「レン様!?」
リナが悲鳴を上げて駆け寄り、俺の背中を擦った。
「ダメです、触っちゃいけません! レン様、しっかりしてください!」
「見えた……」
俺は血の混じった唾液を拭い、震える指先で結晶を指差した。
「俺だ……。召喚された瞬間……魔力に耐えられなくて、大聖堂の床で即死した……俺の死だ……」
「小僧、触れるなと言ったのだ!」
オルドが俺の肩を掴んで引き戻した。
「お前と奴らは、位相角が極めて近い同一起源の量子状態だ! 触れれば波動関数の共鳴(Resonance)が起き、奴らの最期のデコヒーレンス記憶が、お前の神経系に直接インポートされてしまうぞ!」
「なら、もっと見せてやれよ」
Echoが無慈悲に歩み寄り、別の結晶の表面を黒い爪先でコツンと叩いた。
「お前が生き延びてきた裏で、どれだけの『お前』がどんな地獄で死んでいったか……現実を見ろ、相馬蓮」
叩かれた結晶が青白く発光し、その共鳴波が、俺の網膜を強制的に上書きした。
――二つ目の死。
猛吹雪が吹き荒れる、ラーナ要塞の地下暗渠。
ガウェインが戦死し、外壁が破られたあの日。
俺は下水道の鉄格子に足を挟まれ、逃げ遅れていた。
暗闇の奥から現れた三頭の霜牙狼。
赤い瞳。生温かい肉食獣の息。
聖剣の魔力は枯渇し、火球は不発に終わる。
押し倒され、冷たい氷の床に後頭部を打ち付けた瞬間――首筋に、鋭利な牙が深々と突き刺さった。 ゴリリ、と喉笛が噛み砕かれる鈍い音。
血が気管に逆流し、息が吸えない。激痛の中で視界が白濁していく中、遠くでリナの悲鳴が聞こえた気がした――。
――三つ目の死。
瓦礫の山と化した、ラーナの半壊礼拝堂。
リナの胸を、虚空の槍が貫通したあの日。
冷たくなっていくリナを抱きしめ、俺は治癒のAPIを叩き続けた。
だが、Zero-Amplitude Ruleによってすべて拒絶される。
この世界線での俺は、「世界線移動(Branch Migration)」の存在に気づけなかった。
オルドとの通信も繋がらず、検知計の臨界振動の意味も理解できなかった。
息を止めたリナの顔。
東京の約束を果たせなかった絶望。
一人で生き残ることに耐えられなくなった俺は、足元に落ちていた短剣を拾い上げ――躊躇うことなく、自らの頸動脈へと真横に突き立てた。
溢れ出す熱い血でリナの白い神官服を赤く染めながら、俺は彼女の冷たい頬に唇を寄せて息絶えた――。
――四つ目の死。
王都ルミナリア、霙の降るスラム街の裏路地。
幾度もの世界線移動の代償として、自らの記憶をすべて売り払ってしまった俺。
母の顔も、東京の街も、自分がエンジニアであったことも、聖剣の使い方も、仲間たちの名前も……すべてが消去され、頭の中は砂嵐だけになっていた。
誰にも認識されず、誰からも顧みられず。
ボロボロの襤褸切れをまとい、泥水を啜りながら、凍てつく冬の夜、ゴミ捨て場の壁に背を預けて、寒さと飢えの中でただ孤独に息絶えていった――。
「う……あぁぁぁぁっ……!!」
俺は頭を抱え、絶叫しながら地面を転がった。
喉が裂けるような激痛。
首を噛み千切られた窒息感。
頸動脈を裂いた時の熱い喪失感。
そして、自分が誰かもわからずに凍えて死んでいった、底知れぬ絶対の孤独。
それらの死の激痛が、何重ものレイヤーとなって俺の脳髄に焼き付き、神経をズタズタに引き裂いていく。
「レン様! レン様!!」
リナが俺の体を必死に抱き起こし、涙を流しながら治癒の光を注ぎ込んできた。
緑色の温かな光が、俺の狂乱する神経を包み込んでいく。
セラが俺の前に立ち、長剣を抜いてEchoとの間に割って入った。
「貴様……! Echo! 相馬蓮を狂わせる気か!?」
「狂う? 違うね、正気に戻してるんだよ」
Echoは漆黒の瞳を冷たく光らせ、整然と並ぶ無数の結晶の列を両腕で指し示した。
「おい、相馬蓮。……お前はずっと、自分を何だと思っていた?」
Echoの声は、静かに、だが逃れようのないナイフのように俺の胸へ突き刺さった。
「神からチートスキルを与えられた、特別な勇者か? 世界線を跳躍して、仲間を救い出す唯一無二の主人公か? ……笑わせるなよ」
Echoは一歩、俺へと歩み寄った。
「見ろよ、この何万という結晶を。ここに並んでいる奴らはみんな、お前とまったく同じ身体で、同じ心を持って召喚された『相馬蓮』だ。能力も、リナを救いたいという願いも、東京への未練も、何一つお前と変わらなかった」
息が詰まる。 喉の奥がカラカラに渇き、声が出ない。
「なのに、なぜお前だけが生き残って、ここまで来られたと思う?」
Echoが冷ややかに問いかける。
「才能か? 正義か? ……違う。ただの【人間原理(Anthropic Principle)】だよ」
オルドが、息を呑んで目を伏せた。 学者は、その言葉の残酷な真理を、完全に理解していたのだ。
「人間原理……」
俺の口から、掠れた声が零れた。
「宇宙に人間が存在するのは、人間が存在できる物理定数の宇宙だけが観測されるからだ」
Echoが吐き捨てるように言った。
「それと同じだ、相馬蓮。何十万回とサイコロを振れば、たまたま死の目を引かずに転がり続けるサイコロが、確率の果てにたった一個だけ生き残る。何百発もの実弾が入ったロシアンルーレットで、たまたま空砲を引き当て続けた間抜けが、銃口の前に立って『俺は選ばれし不死身の男だ』と喚いているだけだ」
頭の中の鐘が、激しく乱打されていた。
生存バイアス(Survival Bias)。
俺が特別だったから生き残ったんじゃない。
俺の決断が正しかったから救えたんじゃない。
ただ、無数の失敗の山、無数の死骸の底から、確率の奇跡によってたまたま弾き出された「生き残りの出目」が、今の俺だっただけなのだ。
「俺の……」
俺は震える手で、黒曜石の冷たい地面を掻き毟った。
涙が、止めどなく零れ落ち、足元の結晶を濡らしていく。
「俺の英雄譚は……」
胸の奥から、乾いた、破滅的な慟哭がせり上がってきた。
「俺の英雄譚は……俺自身の無数の死体の上に敷かれた、ただの赤い絨毯だったのか……!?」
誰かを救った気になっていた。
死者ゼロの奇跡を誇っていた。
だが、その奇跡の足元には、召喚陣で爆死し、狼に喉を裂かれ、絶望で首を切り、路地裏で凍死していった――何万もの「俺たち」の死骸が、血反吐を吐きながら敷き詰められていたのだ。
「そうだ」
Echoが静かに、だが逃げ場のない重みで告げた。
「やっと気づいたか、相馬蓮。……お前が踏み躙ってきたのは、他所の誰かじゃない。俺たち、選ばれなかった『お前たち』だ」
主人公特権(Hero Privilege)の、完全な崩壊だった。
俺は世界の救済者でも、チートの英雄でもなかった。
仲間を生かすために世界を捨てたのではない。自分自身の死体の山を踏み台にして、たまたま生き残ってきただけの、ただの哀れな一人の人間に過ぎなかった。
「……う……あぁ……っ……」
俺は膝を折り、頭を抱えて蹲った。
自分が信じてきたすべての足場が崩れ去り、底なしの暗黒へと落下していく感覚。
こんな男に、世界を選ぶ権利などあるのか。
こんな偶然の産物に、誰かの現実を背負う資格などあるのか。
「レン様」
その時。
温かな手が、俺の濡れた両頬を、優しく包み込んだ。
リナだった。
彼女は泥と血にまみれた黒曜石の地面に、ためらいなく両膝をつき、俺の瞳をまっすぐに見つめていた。
その琥珀色の瞳には、動揺も、軽蔑もなかった。
ただ、深い、海のような慈愛と、揺るぎない光だけが宿っていた。
「リナ……さん……」
「レン様。……偶然で、何がいけないのですか?」
リナの声は、震える俺の心を、静かに貫いた。
「何万回サイコロを振った結果でも構いません。ロシアンルーレットでたまたま生き残った奇跡でも、何だっていいです。……いま、私の目の前で血を流し、痛みに泣き叫んで、それでも私を助けようとしてくれたのは……この手の中にいる、相馬蓮様です」
「でも……俺は……無数の俺を殺して……」
「殺したんじゃありません」
リナは首を振った。大粒の涙を零しながら、だが力強く言った。
「彼らが命を落としたのは、世界の理不尽のせいです。神様の狂った仕組みのせいです! レン様が殺したんじゃない! むしろ……その無数の痛みを、無数の死の重さを、今こうして胸を痛めて背負おうとしているのは、世界中でレン様、あなた一人だけじゃないですか!」
「リナの言う通りだ、相馬蓮」
セラが長剣を大地に突き立て、俺を見下ろした。
その双眸には、傲慢な勇者を見る目ではなく、等身大の戦友を見る熱い光が灯っていた。
「選ばれし勇者などという神の飾り物は、最初からいらん。特別だから戦うのではない。無数の敗北者と同じ一人の人間だからこそ、私たちは手を取り合えるのだ。……お前が無数の自分を踏み台にしてここまで来たというのなら、その無数の死者に報いる道は一つしかないだろう」
セラは柄を強く握りしめた。
「立ち上がれ、相馬蓮。お前の英雄譚が赤い絨毯だというなら――その絨毯の行き先を、神の玉座を叩き壊すための道に変えてみせろ」
「……っ……」
オルドが静かに眼鏡を直し、ミラが温かな光の糸を俺の指先へと結び直した。
そして、星辰の鏡面の奥から、Echoが漆黒聖剣を担ぎ上げ、ふっと不敵に笑った。
「立てよ、相馬蓮。……お前がただの偶然の生き残りなら、俺たち全員の死のツケを払う義務がある。……俺たちを、ただの無駄死にで終わらせるな」
胸の奥で、何かが音を立てて組み変わった。
チート能力の全能感でも、主人公としての特権意識でもない。
泥臭く、傷だらけで、無数の死者の痛みをその身に引き受けて歩む――ただの一人の人間としての、真の覚悟。
俺はリナの温かい手を握り返し、ゆっくりと、自らの両足で大地を踏みしめて立ち上がった。
見渡す限りの、黒辰石の結晶柱。
かつて死んでいった、無数の俺たち。
その物言わぬ葬列に向かって、俺は深く、一度だけ頭を下げた。
「……行こう」
俺の声から、震えは消えていた。
「俺たちの現実を、俺たちの手で取り戻すために」
量子墓地の熱風の中を、俺たちは再び前を向いて歩き出した。




