第72章 選べる一人
通信鏡面の向こうから流れてくる音声には、泥と血の匂いが混ざり合っていた。
『副団長、包帯を! 左腕の骨が完全に折れています!』
『いいから瓦礫の下を掘れ! 第二小隊の二人がまだ埋まっている! 急げ、魔導炉の残熱が引く前に――!』
ガウェインの荒い息遣いと、兵士たちの怒号が、ノクタ遺構の冷え切ったテラスに反響していた。
即死者は出なかった。俺たちが六重合意で空気レンズを形成し、光線の直撃軸を雪原へ逸らしたからだ。
だが、余波だけでラーナの外郭は三百メートルにわたって粉砕され、重傷者は三十名を超えていた。砕けた石材の粉塵が、三点同期メッシュの回線越しにこちらの喉までざらつかせるようだった。
「……酷い」
リナが両手でお守りを握りしめたまま、鏡面を見つめて呟いた。その指先は白く強張っていた。
「蓮君。これを見給え」
オルドが手帳の複製端末から顔を上げ、黒辰石のコンソールに演算ログを投射した。
青白い光のグラフが空中に浮かび上がる。
波形の一点、俺たちが六重合意を形成してプロトコルを実行するまでの時間軸に、赤い縦線が引かれていた。
「我々がラーナの崩壊を検知し、君が提案(PROPOSAL)を発行してから、全ノードの投票(VOTE)が揃ってプロトコルが実行されるまでに要した時間だ。……三・八秒」
「三・八秒……」
「人間の反射神経としては驚異的だ。ミラのもつれ回線による超光速同期と、全員の即座の判断があって初めて成立した奇跡的な数字だと言っていい」
オルドは眼鏡を押し上げ、だがその表情を厳しく引き締めた。
「だが、工学的には致命的な遅延だ」
コンソールのグラフが切り替わる。
頭上に滞空する神の中枢直轄演算体――あの白銀の巨大結晶体の次なる稼働予測が、冷酷な階段状の曲線を描いていた。
「神の演算体は、一撃目の偏向データをすでに自己学習しておる。次に来るのは、単一の光線ではない。波束崩壊のパルスを分散させた、多点同時照射だ。王都、ラーナ、そしてこのノクタの三拠点に対し、コンマ五秒間隔で連射してくる可能性が極めて高い」
「コンマ五秒……」
胃の底が、ぎゅっと冷たく縮み上がった。
「我々の六重分散合意(BFT Quorum)は、全員が等しい重みを持つがゆえに、提案、検証、承認のラウンドトリップを省略できん。三点同期メッシュをどれほど最適化しても、人間が状況を認識して承認を押すまでに最低でも一秒はかかる。……つまり、次に来る連射攻撃に対して、我々の合意形成は絶対に間に合わん」
オルドの乾いた声が、テラスの空気を凍りつかせた。
間に合わない。
それは、次の照射が始まれば、ラーナの残りの壁も、王都の大結界も、そしてこのノクタのテラスも、防壁を展開する前に順番に消し飛ばされることを意味していた。
「なら……」
俺の喉から、掠れた声が漏れた。
ポケットの中の手帳が、重く冷たく感じられた。
頭の中で、かつて自分が一人で全てをこなしていた頃の感覚が蘇ってくる。
世界線の分岐を一人でスキャンし、一人で判断し、一人で跳躍していたあの頃。
誰の承認もいらなかった。会議も、投票も、回線の同期待ちもなかった。俺の脳が「危ない」と認識したコンマ零秒後に、世界はすでに別の世界線へと切り替わっていたのだ。
「合意形成の時間をゼロにする方法が、一つだけある」
口を開いた瞬間、隣に立っていたEchoの視線が、刃のように俺の横顔を捉えた。
だが、俺は止まらなかった。止まれなかった。通信鏡面の向こうで、腕を押さえて呻くガウェインの顔が焼き付いて離れなかったからだ。
「緊急時限定の、権限委任プロトコル(EMERGENCY_DELEGATE)だ」
俺は手帳を開き、コンソールへ接続した。
「通常時は六重合意を維持する。だが、神の多点攻撃のような超高負荷・不可避の危機を検知した瞬間に限り、あらかじめ設定した単一のノードへ、全権限を一時的に集中させる。そのノードが単独で防衛リソースを執行し、危機を脱した直後に権限を分散メッシュへ返還するんだ」
息を吸い込み、全員の顔を見回した。
「誰か一人が即座に判断を下せるなら、レイテンシはゼロになる。コンマ五秒の連射だろうと、その一人が身体を張って防壁を連続展開すれば、ラーナも王都も守り切れるはずだ」
静寂がテラスを支配した。
突風が吹き抜け、散乱した石粉を巻き上げる。
オルドが眉根を寄せ、手帳の画面を凝視した。
セラは腰の剣の柄に手を置いたまま、微動だにしない。
リナは息を呑み、痛ましそうに俺を見つめていた。
そして――。
「くっ……くくっ、ははははは!」
低く、乾いた笑い声が静寂を切り裂いた。
Echoだった。
漆黒の外套を揺らし、折れた黒辰石の剣を地面に突き立てて、喉を震わせて笑っていた。その笑みには、狂気ではなく、底知れない侮蔑と冷笑が張り付いていた。
「笑い事じゃないぞ、Echo!」
俺は声を荒らげた。
「ガウェインたちが死ぬかもしれないんだ! オルドさんの計算通りなら、次の波で全滅するんだぞ! 合意を待っている間に人が死ぬなら、一時的に誰かが引き受けるしかないだろう!」
「出たな」
Echoは笑いをぴたりと止め、氷のように冷たい瞳で俺を射抜いた。
「『一時的な特権』。……歴史上、すべての独裁者が口にしてきた、耳障りのいい免罪符だ」
「な……っ」
「お前は本当に反省していないな、相馬蓮」
Echoが一歩、歩み出た。その足音が、まるで心臓を直接踏みつけるように重く響く。
「さっき、あいつらが血を流したのを見て、お前は何を感じた? 『やり直せない世界は残酷だ』か? 『俺が選べる立場に戻っていれば、あいつらを無傷で救えたのに』とでも思ったか? ……だから今度は、もっともらしい理屈をこねて、自分を『選べる一人』へ戻そうとしているんだ」
「違う! 俺は独裁者になりたいわけじゃない! 全権を握り続けたいわけでもない! 危機の瞬間だけ――」
「その『危機の瞬間』は、いつ終わるんだ?」
Echoの鋭い問いが、俺の言葉を喉の奥へ押し戻した。
「神の攻撃が終われば平時に戻るか? 本当にそうか? 神の演算体を押し返したとしても、北方との国境紛争はどうする? 国内の食糧危機はどうする? 教皇庁の残党がテロを起こしたら? 誰かが理不尽に殺されそうになるたびに、お前は『緊急事態だ』と宣言して特権を起動するんだろう」
「それは……」
「一度でも他人の命を選ぶ権利を握った人間が、自発的にその椅子から降りられると思うか? 降りられるはずがない。なぜなら、お前の言う『誰かを救う』という行為は、裏を返せば『誰を見捨てるかをお前一人が決める』ということだからだ」
Echoは俺の手元、手帳を指さした。
「お前がラーナのガウェインを救うために防壁のエネルギーを集中させれば、王都の城壁は薄くなる。王都の平民が瓦礫に潰された時、お前は何と言う? 『ガウェインを優先したから仕方なかった』と釈明するのか? お前一人が神の視点に立って、誰を生かし、誰を殺すかを測りにかける。……それのどこが分散合意だ? ただの『善良な神』への逆戻りじゃないか!」
胸を、鈍器で殴られたような衝撃が走った。
息が詰まる。
他人の命を、測りにかける。
そうだ。WORLD_BRANCH_OPERATORを握っていた頃の俺は、まさにそれをやっていた。リナを救うために世界線を捨て、セラを救うために世界線を捨て、その裏で無数の世界線の人間を、自分自身の記憶ごとゴミ箱へ放り込んできた。
いま俺が提案した「緊急権限委任」は、形を変えてその怪物を呼び戻すことと同義だったのか。
「……セラ」
俺は縋るように、沈黙を守っていた赤髪の騎士団長を見つめた。
「セラはどう思う? 騎士団の指揮官として……戦場で合意形成なんて悠長なことをやっていられないのは、あんたが一番よく分かっているはずだ」
セラはゆっくりと息を吐き、静かに視線を上げた。
その双眸には、いつもの冷徹な戦術眼と、それ以上に重い憂愁の色が宿っていた。
「……軍事的に見れば、君の提案は極めて合理的だ、レン」
「セラ……!」
「だが」
セラの言葉が、俺の胸に冷や水を浴びせかけた。
「統治として、制度として見れば、Echoの言う通り破綻している」
「え……」
「我々ヴァーミリオン家は、何百年もの間、王家と騎士団の権力闘争を見てきた。最初は誰もが『国を守るため』『民を救うため』と口にして特権を握るのだ。例外措置、緊急大権、一時的な独裁官。……だが、その権力を自ら返上した人間を、私は歴史上、一人たりとも知らない」
セラは一歩前へ進み、俺の目をまっすぐに見つめた。
「君を疑っているのではない、レン。君が善意の人間であり、仲間のために自らの記憶すら差し出してきたことは、誰よりも私が知っている。……だが、権力とは毒だ。他人の生死を一人で決定できる全能感は、どれほど高潔な魂であっても、必ず蝕む」
「セラ様……」
リナが震える声で呟いた。リナもまた、俺の前に歩み寄っていた。
「レン様。私は……嫌です」
リナの瞳に、涙が滲んでいた。
「またレン様が一人で選んで、一人で傷ついて、一人で全部忘れていくなんて……そんなの、絶対に嫌です。ガウェイン様たちが傷つくのは苦しいです。怖くて、胸が張り裂けそうです。でも……その痛みを避けるために、レン様を私たちの独裁者にするなんて、そんなことできません!」
「リナ……」
「私たちは、一緒に生きるって約束したじゃないですか。手帳に、二人で一緒に現実を選ぶって書いたじゃないですか! それなのに、危なくなったからって、またレン様一人に全部押し付けるなんて……そんなの、私たちがレン様を殺すのと一緒です!」
リナの叫びが、氷雪の吹き荒れるテラスに響き渡った。
言葉が出なかった。
リナの涙が、セラの静かな眼差しが、Echoの冷たい嘲笑が、俺の周囲を取り囲んでいた。
俺案――「選べる一人」の再構築。
それは即応性を持ち、目の前の命を確実に拾い上げることができる。だが、その先にあるのは、権力の集中と独裁、他者の運命の独占、そしていつか必ず訪れる傲慢と精神の腐敗だ。
一方で、Echo案――「選べない世界」の維持。
それは完全に平等で、誰も誰かを搾取せず、選ばれなかった死者たちの尊厳を守ることができる。だが、その代償は、目の前で降りかかる理不尽な死や破壊を、ただ指をくわえて見届けるしかないという、絶対的な無力さだ。次の照射が来れば、合意形成が間に合わず、全員が平等に消し炭になる。
どちらも、正しい。
そして――どちらも、決定的に壊れている。
「……クソッ」
俺は手帳を固く握りしめ、呻いた。
独裁を選べば魂が死に、平等を守れば肉体が死ぬ。
選べる一人は怪物で、選べない世界は虐殺場だ。
神の用意した因果の檻から抜け出したはずの俺たちは、今度は自分たち自身の手で作り出した論理の袋小路に、首を絞められていた。
ズズズ――ッ!
頭上から、再び空気を引き裂く重低音が降り注いだ。
見上げると、白銀の結晶体の周囲で、回転する光環が二重から四重へと増殖していた。
次なる照射のチャージ。神の中枢演算体は、人間たちの思想の迷走など待ってはくれない。淡々と、確実に、BR-044全土を消去するための計算を進めていた。
誰も口を開かなかった。
ただ、冷え切った極北の風が、答えを持たない俺たちの間を吹き抜けていくだけだった。




