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神様、それはスキル付与ではなく権限昇格です  作者: J-AI


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第66章 私は一度死んだの?

神の管理ノードを粉砕し、最深核ドームへと戻った俺たちを迎えたのは、果てしない静寂と、遠く虚空の底で鳴り響く鈍いシステムアラートの残響だった。


 黒辰石の床面に腰を下ろすと、全身から一気に力が抜け、重い疲労が鉛のように身体へのしかかってきた。

 右手を握り、開いてみる。

 掌の奥に宿っていた、世界線を意のままに選び取る万能の管理者権限――その冷たい脈動は、もうどこにも存在しなかった。

 呼吸をするたびに、凍てつく冷気が肺腑を刺すように痛む。聖剣イグニスの柄も、かつてのように軽々と身体の一部として動くのではなく、鉄の質量をそのまま手首に伝えてくる。

 俺は、ただの人間になった。

 傷つけば血を流し、息が止まれば死んで消える、脆弱で不完全なただの一人の人間に。


「……レン様。温かいカファ・アプルが入りましたよ」


 静寂を破ったのは、いつもと変わらない、柔らかく澄んだリナの声だった。

 リナは野営用の小鍋から、湯気を立てる黒褐色の液体を素焼きのカップへと注ぎ、俺の手元へと差し出してくれた。

 甘くほろ苦いリンゴとスパイスの香りが、凍てついたドームの冷気を和らげていく。


「……ありがとう、リナさん」


 受け取ったカップの熱が、かじかんだ指先からじんわりと染み渡る。

 リナは焼き立ての固焼きパンを小さくちぎり、俺の手のひらに半分を乗せてくれた。


「温かい飲み物は、人の心を冷気から守ってくれるって……昔、母が教えてくれました。どんなに寒い夜でも、温かいものを飲んでいれば、心まで凍りつくことはないからって」


 ふわりと漂う湯気を見つめながら、リナは小さく微笑んだ。だが、その瞳の奥には、どこか痛ましい影が揺れていた。

 ラーナ要塞の宿舎でも、霧氷監視砦でも、王都への行軍でも、そしてあの北門決戦の前夜でも……俺たちが幾度となく繰り返してきた、当たり前の日常の儀式。どんな絶望的な戦場にあっても、リナの淹れてくれるカファ・アプルと二つに分けたパンだけが、俺を人間の側へと引き留めてくれる唯一の錨だった。


 だが、リナはそのパンを口に運ぶことなく、自らの胸元へと細い手を添えた。

 衣服の上からでも分かる、素朴な麦わらの編み込みの感触。

 かつて事後選択による因果の書き換えで豪商の銀ロケットに変えられそうになりながらも、リナが死守した北境開拓村の両親の形見――『麦わらのお守り』だった。


***


「……私ね、レン様」


 リナはカップを見つめたまま、静かに語り始めた。


「あの事後選択の偽りの平和の中で、自分の過去や家族が消えそうになった時……本当に怖かったんです。自分が今まで誰に愛され、誰の手で育てられてきたのかが分からなくなって、世界の中で自分が消えてしまうような気がして」


 リナは麦わらのお守りを、慈しむようにそっと撫でた。


「でも……私には、このお守りがありました。父の手の荒れた温もりや、母が笑いながら焼いてくれた硬いパンの味、熱を出した時に額に乗せてくれた冷たいタオルの冷たさ……どんなに世界が私を騙そうとしても、私の心の中にだけは、両親が私を愛してくれた確かな過去があった。だから……私は私でいられたんです」


 リナの澄んだ瞳が、俺の胸ポケットに向けられた。

 そこに覗いている、表紙の擦り切れた黒革の手帳――俺が東京の記憶を書き殴り、いまや大半が砂嵐のノイズで埋め尽くされている記憶台帳(Memory Ledger)へと。


「……でも、レン様は違います」


 リナの声が、微かに震えを帯びた。


「レン様は……この世界に来てからずっと、ご自身の過去を削り続けてこられました。東京の街並みも、お友達の名前も、大学のことも……かつて口ずさんでくださった故郷の歌のメロディも……そして、あの大切なお母様の声すらも……」


 リナは震える手で、俺の胸ポケットから手帳をそっと抜き取った。

 パラパラと捲られる紙面。

 かつて王都の深夜の兵舎で、リナ自身が自筆で『私がレン様の証拠の人になります』と涙ながらに署名した、あの忘れられないページ。

 だがその前後のページには、かつて俺が日本語で書き残したはずの日常の記録が、墨汁をぶちまけたような黒いノイズと、意味を成さない砂嵐となって広がっていた。


「レン様……お母様の声を思い出そうとすると、今でも……頭の中でどんな音がするのですか?」


「……音なんて、しないよ」


 俺は掠れた声で答えた。


「ただの無音(NULL)だ。……テレビの砂嵐のような、冷たい走査線のノイズしか聞こえない。母さんがどんな顔で俺を呼んでいたのか、どんな声で笑っていたのか……輪郭すら、何一つ思い出せないんだ」


 リナの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、手帳の紙面を濡らした。


「私には、帰る場所の記憶があります。両親が愛してくれた証拠があります。……でも、レン様には、もう何も残っていない。どうして……どうしてレン様だけが、そこまで空っぽにならなければならなかったのですか?」


「それは……」


 俺の喉が、引き攣るように詰まった。


「レン様は……かつて私に言ってくださいましたよね。『リナさんが眩しくて、大事すぎて胸がいっぱいになるから泣きそうな目をするんだ』って」


 リナが一歩、俺の正面へと歩み寄った。  その瞳は、逃げることを決して許さない、真実を求める魂の光で満ちていた。


「嘘ですよね、レン様。……レン様が私を見る時、いつもどこか遠い場所で、取り返しのつかない悲劇を一人で見つめているような……そんな目をされていた理由を、私に教えてください」


***


「…………」


 ドームの空気が、凍りつくように重くなった。

 背後で、セラとオルド、ミラが息を呑んで立ち尽くしている。


 その時だった。

 最深核ドームの中央、黒辰石の星辰鏡面が、微かな残差の波束に反応して淡く青白く発光した。

 管理ノードが破壊され、ノクタ遺構の残差層が開かれたことで、過去に切り捨てられた無数の世界線の(Ghost )記録(Logs)が、コンソールの鏡面にホログラムのように映し出され始めたのだ。


 そこに映し出されたのは――吹雪が吹き荒れる北境要塞ラーナの、半壊した礼拝堂の光景だった。


 崩れ落ちたステンドグラス。血に染まった雪の絨毯。

 そして……俺の腕の中で、胸を虚空の魔導槍で貫かれ、息絶えている少女の姿。


 ――リナだった。


 心臓を貫通され、蒼白な顔で動かなくなったリナ。

 その亡骸を抱きしめ、狂ったように治癒魔法のAPIを叩きながら、絶叫し、血の涙を流している相馬蓮の姿が、鮮明に空間に投影されていた。

 治癒コマンドはことごとく【Zero-Amplitude Rule】によって赤く弾かれ、リナの心拍数は完全にゼロのまま固定されていた。


「……あっ……」


 リナの唇から、掠れた小さな悲鳴が漏れた。

 リナは自らの心臓の位置――左胸を両手で強く押さえ、信じられないものを見るように鏡面を見つめた。


「あれは……私……?」


 リナの身体が、小刻みに震え始めた。  鏡面の中のリナは、息を引き取る寸前、震える唇でこう呟いていた。 『……レン様……東京の街……見たかったです……』


 その直後、鏡面の中の相馬蓮は、リナの冷たくなった遺体を背負って地下水路を脱出し、真鍮製のエントロピー検知計を握りしめながら、世界線を跳躍する禁忌のコマンドを叩いていた。


 ――MIGRATION_EXECUTE: BR-000 -> BR-014.

 ――IDENTITY_FIDELITY_LOSS: 1.0000 -> 0.9300.

 ――MEMORY_SECTOR_PURGE: TOKYO_DAILY_SCENERY.


「……私は……」


 リナがゆっくりと振り返り、涙に濡れた瞳で俺を見上げた。

 その声は、消え入りそうなほど細く、しかしドームの全空間を切り裂くほど鋭く響いた。


「……レン様。私は……あのラーナで……一度、死んでいたのですね……?」


***


 ――救済の非対称性。

 救われた本人は、自分が死んでいたことを知らない。

 世界線を跳び越えてきた者だけが、その冷たい骸の感触と、失われた過去の代償を一人で背負い続ける。


 その残酷な非対称性の幕が、いま、完全に引き剥がされた。


「……そうだ」


 俺の声は、掠れて震えていた。


「あのラーナの礼拝堂で……君は俺を庇って、命を落とした。……この世界の法則では、一度確定した死を覆すことは絶対にできなかった。……だから俺は、君が生きている別の世界線(BR-014)へ、世界線を跳び越えたんだ」


「世界線を……跳び越えた……?」


「その代償として……俺の魂のデータが削られた。……最初は東京の街並み、次は友達の顔……そして、母さんの声……」


 俺は俯き、拳を血が滲むほど強く握りしめた。


「君を生かすために……俺は、自分の過去を全部差し出したんだ。君に笑っていてほしかったから……君が死んだ世界なんて、耐えられなかったから……!」


 言ってしまった。

 ずっと胸の奥底に封印し、墓場まで持っていくはずだった、最も醜く、最も重い真実を。


「……っ……ああああああっ……!!」


 リナが両手で顔を覆い、その場に崩れ落ちて号泣した。


 それは、助けられたことへの感謝の涙ではなかった。

 自分の命が、大好きな人の尊厳と過去をすべて食い尽くして買い取られたという、耐えがたい絶望と自責の慟哭だった。


「どうして……どうしてそんなことをしたのですか、レン様……っ!!」


 リナは床に額を擦りつけるようにして、泣き叫んだ。


「私が死んだのは……私の運命だったはずです! それを……私の知らないところで、レン様のお母様の声まで奪って……レン様を空っぽにしてまで買い取った命なんて……私、背負えません……!!」


 背後で、セラが唇を強く噛み締め、俯いた。

 セラもまた、自分がかつてヴァルディス砦で戦死し、レンが二度目の(BR-014→)跳躍(BR-021)を行った当事者だった。

 だが、リナの胸を切り裂いているのは、騎士としての誇りではなく、純粋な愛がもたらした残酷な呪いだった。


「リナさん……!」


 俺は駆け寄り、震えるリナの肩を抱きしめようとした。

 だが――。


「触らないでください……っ!!」


 リナは激しく身をよじり、俺の手を拒絶するように払いのけた。


 払われた俺の手が、冷たい虚空を彷徨う。

 リナの涙で濡れた瞳には、深い哀痛と、そして決して埋めることのできない巨大な断絶が宿っていた。


「私……レン様が私を見るたびに、胸の奥で何を思っていたのかを知ってしまったら……もう、今まで通りに笑えません……! 私を救ったレン様を……私はどうやって愛せばいいのか、分からないんです……!!」


 リナは両手で顔を覆ったまま、泣き崩れ、その身体を小さく丸めた。

 オルドが苦痛に満ちた表情で眼鏡を外し、目頭を押さえた。


「救済の非対称性……これこそが、世界線跳躍者が背負う最も残酷な因果の請求書だ……」


 ミラも悲痛な眼差しで二人を見つめ、何も言えずに立ち尽くしていた。

 もう、世界線を跳んでやり直すチートは使えない。

 ただの人間に戻った俺は、リナの絶叫と拒絶を、何の盾もなくそのまま胸に突き刺されたまま立ち尽くすしかなかった。


 ドームの冷気が、二人の間にどこまでも深い亀裂を刻み込んでいく。

 それは、決して巻き戻すことのできない「愛の代償」という名の現実だった。

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