第26話 彼氏記念日
「好き。でも言わない。言えない。そう思っていたけど、もう無理です」
泣き笑いの顔でそう言うと、アルカディウスは少しだけ目を見開いて、それからひどく安堵したように笑った。いつも整いすぎている人が、こんなふうに崩れた顔をするのだと、ルラは初めて知る。
「では、正式にお願いしてもいいでしょうか」
「何をです」
「私の恋人になってください」
「……いまさら丁寧すぎません?」
「大事なことなので」
ルラは袖で涙をぬぐい、こくりと頷いた。
「お願いします」
その瞬間、背後から乾いた拍手が響いた。
「はーい! おめでとうございまーす!」
振り向けば、ボンカがいた。しかも一人ではない。ジェスパー、サルコ、リンドウ、ディラッチ、なぜかイリオノーラまで少し離れて立っている。デスポットは腕組みのまま咳払いし、クロディアナは呆れた顔で視線を逸らした。
「なんで全員いるんですか!」
ルラが叫ぶ。
「港町は、そういうところだから」
ボンカが胸を張る。
ディラッチが花束の代わりに染め見本を振り、ジェスパーは「今日は脈が安定していてよかった」と意味のわからない祝辞を述べ、サルコは「遅い」と一言だけ言った。それでも口の端が少し上がっている。
イリオノーラは咳払いをひとつして告げる。
「夕凪染房、正式査定で継続相当とします。……私情ではありません」
「最後の一言でだいぶ怪しいです」
アルカディウスが返すと、彼女はごくわずかに目を細めた。
ボンカが飛び跳ねながら言う。
「じゃあ最初に嘘ついた日、ほんとの彼氏記念日にしなよ!」
その提案に、ルラとアルカディウスは顔を見合わせた。
最悪みたいな始まりだった。買収を退けるための口実で、町じゅうの噂に押されて始まった関係。でも、その日がなければ、今ここには立っていない。
「そうしましょうか」
アルカディウスが言う。
「はい。本当の記念日に」
ルラが答えると、ボンカの歓声が港じゅうへ飛んでいった。
恥ずかしさでまた視線を伏せると、アルカディウスが静かに笑う。
「やはり、その顔がすきだ」
「今度は、ちゃんと受け取れます」
「ありがとうございます」
「だからいちいち礼を言わないでください」
笑い声が、冬の澄んだ空へ広がる。店は残った。町も救われた。けれど、それ以上に、ふたりはようやく本当の名前で並べるようになった。
最初の嘘を、本当の記念日に変えて。
終章 オレンジの布は今日も揺れる
大市から数か月後の春、夕凪染房の軒先には、前より多くの布が並ぶようになった。
海風に揺れるのは、《永遠の愛》だけではない。旅立つ子へ渡すための若草色、古い友人へ贈るための煙青、仲直りのための薄橙。店先には相変わらず相談が持ち込まれ、そのたびにルラは笑ったり悩んだりしながら色を選ぶ。
帳場の向こうでは、アルカディウスが納期表を整えている。王都の話は断った。驚かれたが、彼は「今、残すべきものがここにあるので」とだけ答えたらしい。
「もっと格好いい断り方、なかったんですか」
「充分格好いいと思ったのですが」
「自分で言うのが惜しいんですよ」
「今後、改善します」
《オレンジ》は今や、町の嫌われ者ではなくなりつつあった。計算だけを押しつける装置ではなく、人の判断を助ける相棒として使われている。クロディアナは相変わらず厳しい顔で運用会議に出るが、以前より現場の声を先に聞くようになった。イリオノーラは定期監査に来るたび、夕凪染房の帳簿が以前より整いすぎていて少しつまらなそうだ。ディラッチは懲りずに新しい美容魔導を試してはボンカに実況され、ジェスパーはその後始末まで含めて町の緩衝材を続けている。サルコは相変わらず一人で運ぶ日も多いが、困ったときには黙って手を貸す。リンドウとデスポットは、そんな町を今日も無駄なく回している。
夕方、布を干し終えたルラは、店先で空を見上げた。春の夕空は冬より淡いのに、どこか《永遠の愛》の色に似ている。
「アルカディウスさん」
「はい」
「この毎日、前よりずっと騒がしいですね」
「ええ」
「でも、嫌じゃないです」
「私もです」
彼は並んで布の揺れを見た。最初は店を守るためだった。次に町を守るためになった。けれどいちばん深いところで守りたかったのは、こうして誰かのために手を動かし、笑い合える日々そのものだったのかもしれない。
潮風が吹き、橙の布がやわらかく揺れる。
ルラは微笑んだ。
「この日々を愛と呼ぼう」
アルカディウスは静かに頷き、布の端を押さえる。
「ええ。何度でも」
オレンジの布は、今日も港町の空の下で揺れていた。




