70 ◇深層心理
70
◇深層心理
桃は退院したけれど、その後数回通院することになっていて
退院後12目のこと。
すっかり気持ちも落ち着いてきたものの、どこかすっきりしない問題を
内包していて懐の深い女医の診察を受けている内に胸の中を巣食う
滓のようなものを吐き出したくなった。
「水野さん、血色もいいしご両親や子供さんとの生活で随分気持ちが
安定してきてるんじゃありませんか」
「はい、これも先生のお陰です。ほんとに感謝しています」
「実は私自身、こんなに上手くいくとは思ってなくて。
自分の一喝で両方のご家族の気持ちを覆せるなんてね。
でもきっと、水野さんが起こした行動で皆さんの気持ちの中に変化が
起きて、そんな中での私の一喝があり、うまい具合に作用したのね、
きっと」
「先生、その私の起こした行動についてなんですが……」
「あの日のこと、思い出せたのかしら」
「思い出さない方がいいような気がして、積極的に記憶を辿ったりは
しなかったのですが、徐々に思い出しました」
「それは辛い思いをしたわね」
このように親身になって話を聞いてくれる女医に、桃がこんなことを言う。
「私は夫のことはい言わずもがなのことですが、友達のほうをすごく憎んで
いたはずなんです。なのに、私は恵子を刺すのではなく夫を刺しました。
自分でもあの時の行動がよく分からないのです。
これはどういうことなのでしょう」
「これはあくまでも私の意見なんだけど、桃さんはね、旦那さんのことを
あの瞬間強く憎んだのよ。恵子さんに向ける憎悪など吹き飛ぶくらい
激しくね」
「えっ、そうなんですか?
でも私、今でも恵子が憎くてどうしようもないのに」
「あなたが二人に向けている憎しみは同じじゃないのよ、きっと。
旦那さんに向ける憎しみの裏にはまだ好きな気持ちが残っているのだと
思うわ。
だから、よけいに憎いの。
憎まずにはいられなかったの」
「止めて! 先生そんなこと言わないで。
嘘よ、そんなこと。
あんな裏切者を私がまだ好いているなんて……止めてー!」
「あなたは好きでいることを止められない気持ちと、憎くてたまらない
という気持ちとの狭間でずっと苦しんできたの。
桃さん、すぐじゃなくてもいいから旦那さんを許すということも考えて
みてほしいの。
あなたの精神、そう、魂に安らぎを取り戻す為にそうすべきだと思う。
あなたの本当の不幸は旦那さんを許せないまま、さりとて嫌いになれなかった
こと……じゃなかった、嫌いになれないことね」
「止めてー、そんな嘘言わないでー」
診察室で椅子に座っていた桃は、そう叫ぶなりすぐ隣に置かれているベッドに
突っ伏した。
自分でも気づいていなかったジレンマに苦悩する桃を残し、女医は部屋から
立ち去るのだった。