68 ◇戦慄が走る
刺した!
桃が自分の旦那を刺した。
直接刺されたところは見てないけど、水野くんが床に崩れ落ちたのを見て
おそらくそうだろうと思った。
『やったー! 成功したのだ。
桃から水野くんを奪うことに成功したのだ。やったね!』
それは事実ではないけれど、桃がそう思ったならそれが真実になる。
この一瞬だとしても私は桃に勝ったの。
旦那を奪ってやった。
あははっ、桃ったらぁ~、お馬鹿さんなんだから――――。
ほらっ、とうとう私と同じようにパートナーに裏切られた可哀そうな女になったのね。
ほんとに……
なぁ~にが結婚よ、なぁ~にが妊娠よ、これ見よがしに
見せつけてくれちゃってからに。
幸せなんてそもそも人生の中で一瞬ものなのよ。
一人勝ちなんて許さない。
恵子は俊が倒れ込んだというのに、自分の身の内に渦巻いている
昏い感情に捉われ、ほくそ笑むのだった。
しかし同時に、水野俊以上に桃から憎まれている自分も刺されるに
違いない――――そんな二つの恐れに支配され、震える脚は思うように動かず、
その場で桃を迎えるしかなかった。
桃の両手を見るも刃物は持っていないようで恵子は少しほっとした。
……のも束の間、ものすごい力で髪の毛を掴まれ、ブンブン振り回されて
凄まれた。
怖い台詞を言われ続け、その間『誰かー、助けて~』と恵子はそればかりを
念じ続けた。余りの恐怖に、それは言葉となって口から出てはくれなかった。
『その自慢の顔に薬品ぶっかけてグチャグチャにしてやるから』などと
脅された時には、恥ずかしい話だが恵子は下着を濡らしてしまった。
恵子が警察署で事情徴収された時には、今回の一連のことは桃の勘違いで、
感情的になった水野桃の起こした傷害事件ということで押し通した。
だが迎えに来た母親の口から自分の立ち位置が詳らかにされてしまい、
警察署員の冷たい視線にさらされ、恵子は居たたまれない状況に
なってしまった。
庇うどころかよけいなことを警察署で話した母親に内心で腹を立てていた
恵子だが、そんな恵子に帰ったる道々母親が放った言葉が痛烈だった。
「あんたが刺されりゃあよかったのに。
桃ちゃん、どうしてあんたのことも刺さなかったんだろう」
「私はたぶん運が良かったのよ。
座ってた場所がさ、水野くんのほうが桃から近かったから。
それと桃は水野くんを刺した後、ナイフを抜かなかったから刺したくても
刺せなかったんだと思うよ、私のこと」
「恵子ぉ~、こんなこといつまでも続けていたらいつかほんとに
誰かに刺されるよ。
普通じゃないよ、あんた。
それほど煩悩に惑わされるんじゃあ、しょうがない……尼寺にでも入るのね」
「冗談、何言ってるのお母さん。
私、適齢期過ぎてるけどまだ30代になったばかりなんだよ」
ああ言えばこう言い、あまり反省の色の見えない娘に、ほとほと手を焼く
母親なのだった。




