64 ◇脅したいわけじゃない、ただ会いたいだけの乙女心
桃を絶望の淵に立たせたあの日のことを俊は今も悔やんでいた。
実は桃が恵子からの電話をとった日の前日、俊のところへも恵子からの
電話が入っていたのである。
『会いたい』と……。
勿論、俊は即座に断った。
しかし、恵子は引かなかった。
ただ会うだけでいいからと、粘るのである。
それでも俊が桃を裏切ることになるから会えないというと、今度は
脅しにかかる恵子。
それは、恵子が以前ホテルでのふたりの情事を隠しビデオで撮っており──
会ってくれなければその画像を桃に送り付けてやる、というものだった。
そしてそう言ったかと思うと恋する乙女のように
『私は水野くんが好きなの。だから会いたいの』
と言うのだった。
好きな相手を脅すのか? まともな人間ならそう問うだろう。
裸婦モデルを嬉々としてやるようになってしまった痛々しい妻のことを思うと
どうしたものかと悩む俊だった。
兎に角一度恵子に会い、今後自分たちは会ってはならない立場であることを、
ソフトに滾々と、話しをしようと決めた。
次に、それでも恵子が脅迫してくるのを止めないのであれば、その時は
桃の両親にも立ち会ってもらい、桃に過去のことで彼女から脅されていることを
正直に話そうと思った。
そして、その上で警察に届け出るだとか、弁護士に相談するだとか、というように、何か対策を打たなければならないと俊は考えた。
痛々しいほどの恵子の主張……。
彼女の執拗さには辟易するばかりだが、どうしてこんなに
自分に──
ましてや自分は既婚者だというのに、執着してくるのか俊は理解に苦しむしか
なかった。
恵子の執拗さを鑑みれば――
妻に対して、自分(俊)も望んで恵子に会うのだと吹聴するくらいのことを
やってのける可能性もあったのに、女性心理に疎い自分はそこまで頭が回らず
万事休す。
まさに後の祭りとはこのことだ。
このことは病院に搬送され傷が回復した後、警察が事件のあらましについて
聞き取りに来た時に、恵子の調書から教えられた。
あの事件の起きた日の前々日、俺たち夫婦は濃密な夜を過ごしていた。
それを思うと、桃の落胆と怒り具合が分かろうというものだ。
俺を刺した時の桃の顔は何の感情も表しておらず、凍り付いた冷ややかな
目をしていた。
不思議なもので刺された瞬間、何が起きたのか理解できなかった。
刺されたのが腹だったのも、立ったままの状態から崩れ落ちていく途上で
ナイフが目に入り、刺されたのだと気づいたくらい。
本当に不思議な体験だった。
とっさに俺は死にたくないと思った。
俺が万が一死んでしまったら、桃が刑務所送りになるからだ。
これ以上、桃を傷つけたくなかった。
桃を――――
大切な女性を、助けたかった。
警察から『被害届を出されますか?』と病室で訊かれたが、俺はNOと
答えた。
俺と恵子の遣り取りを知らない桃からしてみれば、やり直させてほしいと
懇願してきた夫が、まさかの浮気相手と会っているところに遭遇したのだから、
発狂するのは当然のこと。
俺は刺されて当然のことをしたのだ。




