第73話:虫が出たらしいのですが?
廊下を進むこと暫く、もう少しで浴場に着きそうになった頃、アリアは落としていた視線を上げた。
自分の小さな身体からゆっくりと視線を上げたアリアは、細く奥の方まで続く廊下に視線を向けた。
廊下は相変わらず人気がなくシンと静まり返っている。
少しでも変化があるかと上げた視線であったが、映るものは皆同じただ豪華な装飾だけの廊下。シオン1人分の足音が乾いて響いていく。
アリアは陰鬱とした気持ちで廊下を望みながら、進んでいく。
静寂がやけにうるさく鼓膜を衝いてくる。
浴場まで後少しとなった時、廊下の先に見える角に着くまでの間に、その静寂に耐えきれず耳を手で塞いだ。
そして、目も閉じて、何も感じられなくした。
(このまま何もない孤独を歩んで終わるしかないのか)
ほんの一握りの意気に、その言葉を訊いた。
けれども、自分に対しての問いに答えられるはずもなく、沈黙が返ってくるのみであった。
シオンの歩みが淡々と廊下を進んでいく。暗がりの中にいるアリアを抱いたまま、廊下を進んでいく。
目を閉ざしているアリアには見えないが、間もなく先程見えていた廊下の角に差し掛かろうとしていた。
アリアとシオンはそこを曲がらず真っすぐ廊下を進もうとしたその時、今の廊下に合流する曲がり角の奥から、数人分の話し声が聞こえてきた。
暗がりの中にいたアリアにも、その声が極細の一筋の光明となって差し込んできた。
アリアは目の前に差したその光に追い縋ろうと懸命に駆けていき、そして目を開いた。
するとその瞬間、聞き慣れた声と共に見慣れた人影が角からアリアの目の前に現れた。
ずっと、ずっと、会いたいと思っていた2人。もう、会ってはくれないのではと、悲観し諦めていた2人。
その2人が今、偶然にも曲がり角からアリアの前に現れた。
「シオン、降ろしてくれますか?」
目をそこに囚われながら無意識の内にそう言葉を紡いでいた。
シオンはそこの声に気付くと、一旦視線を胸元に落としてから、静かにアリアを床に降ろした。視線を落とした、ほんの僅かな間に見えたアリアの顔に口端を微かに上げて。
床に降りたアリアは正面に見える2人の姿を一瞬視界に収めるも、すぐに視線を2人の足元に落としてから、歩み寄っていった。
表情を見る勇気が出ないアリアは、2人の表情に怯えながらも懸命に脚を動かして2人の前まで歩いていった。
そして遂に、2人の正面に着いた時、アリアは顔を2人の胸元まで上げてから声を出した。
「どうして、今日1日、わたくしの前に、姿を見せて、下さらなかったのですか」
微かに震えの混じる声音で懸命にそう訊ね、視線を胸元に固定したままで答えを待った。
1秒が幾星霜にも感じられる中、どんな罵詈雑言を浴びせられるかと恐怖しながら、ただ2人からの言葉を待った、アリア。
優しそうに接してくれていた2人の姿が、偽りの仮面によってなされていたものに思えてきて、恐怖とは違った悲しさもが胸に突き上げてきた。
偽りでも何でもあの楽しかった時間に思いを馳せると、尊くも掛け替えの無いものに思えてきて、2度と手に入らない時間に、幾筋もの雫が頬を伝い落ちていった。
既に恐怖よりも悲しみに震えるアリアの鼻にふわっと、優しい香りが唐突に届いた。それと同時に、ひしと身体を包み込まれる感覚もアリアに届いた。
「ごめんね、ヒメちゃん。不安にさせちゃったんだね。お姉ちゃんを許して」
そう言葉を紡ぐと、フウは愛おしくて大切なアリアをもっと抱き締めた。
「ごめん、ヒメ。そんなに不安にさせちゃってたんだね。姉失格だ」
セツが謝罪と後悔を述べた。そして、フウと同じようにアリアを包み込んだ。
2人に抱き締められたアリアは、下げていた顔を上げ2人の顔を見た。
見上げたそこに恨みの念はなく、本当にアリアに対する謝罪と心配せてしまった後悔の念が浮かぶのみであった。
フウとセツは顔を上げてくれたアリアを正面から見つめ、更に言葉を紡いでいった。
「昨日の夜にね、久しぶりに虫が出ちゃってね。セッちゃんとお姉ちゃんと他にも何人かの人達と明け方近くまで駆除してたの」
穏やかな口調でそう説明したフウの後に続けて、セツもゆっくりとアリアに聞かせていった。
「うん、そうなんだヒメ。ほんと、たまに出る虫でね。大抵夜に出るきったない虫なんだ。で、うるさい羽音を立てるから、きっちり駆除しないといけないんだよ」
その2人の話を聞いたアリアは、今まで胸につかえていた不安を2人に訊ねた。
「それは本当なのですか?一晩眠ってやっぱりわたくしを許せなくなって、顔を合わせるのも嫌になって、憎くて恨んで、避けていた訳ではないのですね?」
そう語れば語る程、心が痛みを訴えてくるが、それでも、本当に2人を信じていいのかと、疑念を払拭するために、耐えて最後まで口にした。
語ったアリアの身体をフウとセツが今までよりも力強く抱き締めて、もっともっと心からの不安も全てを包み込んでいった。
「そんなことはないよ!!」
「そうだよ、ヒメ!!」
フウとセツが強い口調で否定する。
そして、絶対的なアリアを想う気持ちを前面に出して続けた。
「お姉ちゃんはヒメちゃんが大好きなんだから、絶対にそんなことはないよ!!」
「うん、私達はヒメを、自分達の大切な妹を見捨てるような薄情な姉じゃないよ!だから、ごめんね。いっぱい心配させちゃって、ごめんね、ヒメ」
フウとセツの本当に心からの思いが籠った言葉を受け取ったアリアは、やっと心の片隅で燻っていた不安がふっと消え去っていくのを感じた。
自分でも気づかない程に微かな震えを帯びていた身体からはもう恐怖での震えは消え、自分からフウとセツに抱き着いていった。
「よかった。ありがとう、フウお姉ちゃん、セツお姉ちゃん」
長々とした言葉は要らない。ただ感謝を送ったアリア。
その内には、自分を嫌いにならないでいてくれて、こんなにも愛してくれて、それと、アリアをまた信じてくれて、などの様々な感謝が込められていた。
ぎゅっと抱き着くアリアをフウとセツの2人は優しさに満ちた笑みで受け止め、愛すべき妹をしっかりと見つめ、胸に刻み込んでいった。
アリアが屈託のない笑顔を浮かべ、今まで静かに見守っていたシオンとローズの下に誤解が解けたと嬉しそうに向かっていった後、フウとセツはそんなアリアの背中をじっと見据えながら口を開いた。
「ねぇ、セッちゃん。やっぱり私達のヒメちゃんはとっても可愛いね!」
「当然でしょ、フウねえ!!世界一可愛い私達のヒメだよ!!」
穏やかな雰囲気で語り合い、表情に明るさを浮かべる、フウとセツ。
暫く、嬉しそうにシオンとローズに何かを語っているアリアの姿を眺めた後、フウがセツに顔を向けた。
「・・・アリアお嬢様の時にはやる気が起きなかったお務め、ヒメちゃんの為には頑張ろうね」
「・・・。うん、そうだね、フウねえ。絶対に!ヒメに害虫が近づかないように!徹底的に敷地内は清潔に保たなくっちゃね」
そう微笑んで語り合った後、一切の表情が消えた能面の如き顔でフウが口を開く。
「穢らわしい虫なんて、一匹たりとも逃さず駆除しなくちゃ」
底冷えのする声色での言葉を紡いだ後、酷薄さの滲んだ微笑みを浮かべた。
「昨日みたいにだよね、フウねえ。ふふ」
セツも表情から色を消し、据わった目に冷酷の籠った笑みを浮かべて返した。
フウが、セツが、それぞれ各々の表情を浮かべて何かを回顧した後、決意にも似た意思を宿した瞳でアリアをじっと見つめ同時に呟いた。
『ねぇ、ヒメちゃん(ヒメ)、私達はずっと一緒だからね』




